スーパーファイヤープロレスリング2 – Wikipedia

『スーパーファイヤープロレスリング2(Super Fire Pro Wrestling 2)』は1992年12月25日にヒューマン株式会社より発売されたスーパーファミコン用ソフト。ファイヤープロレスリングシリーズのスーパーファミコン版第2弾ソフトである。 登場レスラーは前作の21人から25人と増加した。 試合開始前にパフォーマンスが実施できるようになった(省略もできる)。 関節技をかけると一瞬にして腕や足を折る「クリティカル」が追加され、ロープブレイクや場外でないとそのままギブアップ勝ちできるようになった(今作は梶原丈限定)。 流血するとCPUは隠し技を仕掛けるようになった。 マルチタップ使用により、最大4人までの同時プレイが可能となった。 出演レスラー[編集] 隠しレスラー スタッフ[編集] ゲーム・デザイン:浅古大輔、増田雅人 ディレクター:吉田秀司 システム・プログラム:野村弘治 バウト・プログラム:渡邊肇 インフォメーション・プログラム:内山隆博、坂上公一 レスラー・キャラクター・デザイン:高岡謙次、大内啓輔 バウト・グラフィック・デザイン:門間毅

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ラルフ・ローズ – Wikipedia

ラルフ・ローズ(Ralph Waldo Rose、1885年3月17日 – 1913年10月16日)は、アメリカ合衆国の元陸上競技選手。ローズは身長1m97cm、体重113kgの大男であった。オリンピックには、投てき種目の選手として1904年セントルイスオリンピックから3大会連続出場。金メダル3つ、銀メダル2つ、銅メダル1つを獲得した選手である。 ローズは、1904年セントルイスオリンピックでオリンピック初出場を果たす。砲丸投で金メダル、円盤投で銀メダル、ハンマー投で銅メダルと3つの投てき種目で表彰台に立っている。また、重錘投げ(25.4 kg)にも出場したが6位に終わっている。 4年後の1908年ロンドンオリンピックで、アメリカ選手団の旗手だったローズが開会式のときロイヤルボックスの前で旗をかがめることを拒否したことから(ほかの国は旗を降ろした)、アメリカとイギリスとの間でひと悶着を起こす。ローズはこの行動についてこう述べている。「この旗は絶対に王様の前で降ろさない。」 この大会でイギリス人の審判はアメリカ選手に対し厳しい判定を下されることが多かったが、アメリカ側はこのことについて、旗事件によって偏見を持たれたようだと感じた。しかし、ローズはこの大会でも砲丸投で金メダルを獲得し、オリンピック2連覇を達成した。ローズは綱引きにも参加したが、メダル獲得には至らなかった。 1909年には砲丸投で史上初めて50フィート(15.24m)を超える51フィート(15.54m)の世界新記録を樹立する。この記録はその後16年にわたり破られなかった。 1912年ストックホルムオリンピックにも出場し、この大会だけ行われた砲丸投(両手投げ:予選で左右3投ずつ、上位3人が決勝進出し、左右3投ずつ投てきする)でトータル27.70mの記録で金メダルを獲得。通常の砲丸投では、3大会連続表彰台となる銀メダルを獲得。そのほか、ハンマー投で9位、円盤投では11位だった。翌1913年10月16日、ローズはチフスのため28歳で死去した。 外部リンク[編集]

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グランド・セフト・オートIII – Wikipedia

『グランド・セフト・オートIII』(グランド・セフト・オートスリー、英名:Grand Theft Auto III)は、アメリカのニューヨークにあるロックスター・ゲームズ社(GTAIIIの制作はスコットランドのロックスター・ノース)から発売されたオープンワールド型クライムアクションゲームである。グランド・セフト・オートシリーズの第3作目(メインタイトルでは第3作目、ナンバリングタイトルでも第3作目)にあたる作品である。略称は『GTAIII』『グラセフIII』。 前作『グランド・セフト・オート2』などは、アラビア数字(『GTAII』とは書かれない)だったが、今作『GTAIII』から今後のナンバリングタイトルの作品(『グランド・セフト・オートIV』、『グランド・セフト・オートV』など)は、全てローマ数字に統一された。また、『GTA』、『GTA2』は見下ろし型となっていたが、今作から現在のGTAの様にTPS視点(一部例外あり)となった。今作のパッケージのタイトルロゴは今後のGTAシリーズ、全てに使用される事になった。また、次回作から現在まで『GTAIII』を基本とし、今後のGTAシリーズが構築されていく事になった。 PS2版は、北米版が2001年10月22日に発売され、その後2003年9月25日に日本版が発売された。 PC版は、2002年5月20日に北米版が発売され、日本版は2003年9月25日にPS2版と同時発売された。 Xbox版は、2003年10月31日に北米版が発売された。日本版は2004年7月29日に発売された。 ios/Android版は、2011年12月15日に全世界同時有料配信となった。 PS3版は、北米版が2012年9月25日に発売されたが、日本版は未定である。 2021年11月11日、オリジナル版と比べてグラフィックやシステムの大幅な改善が施された、リマスター版『グランド・セフト・オート・トリロジー』が発売された。 北米において2001年10月22日にPlayStation 2で発売。後にPCやXboxにも移植され、世界中で1450万本を売り上げる大ヒット作となった。日本でも2003年秋にカプコンよりCEROレーティング18歳以上対象ソフトとしてPlayStation 2版とXbox版(続編であるGTA:VCとのセットでのみ)が発売[7][8]され、当時の海外製ゲームとしては異例の30万本、廉価版を含めて40万本のヒットを記録[9]した。 シリーズで初めて3Dシステムを採用している。街全体がオープンワールドで構築され、前作、前々作に比べ自由度は大幅に向上した。架空の街「リバティーシティ」の中をプレイヤーが自由に行動できることが人気の要因となった。それと同時に暴力描写や犯罪思想、特にチートを使用することで体がバラバラになる描写が問題となり[10]、青少年による暴力や無差別殺人事件を続発させたとして批判され、神奈川県では有害図書に認定されている。また、発売された同年リバティーシティのモデルであるニューヨークではアメリカ同時多発テロ事件が発生したため、作中内で飛行機が高層ビルに近いところを飛ばないようにするなどの修正を行った[11]。 日本版とドイツ版は一部表現が規制されたバージョンであるが、しばらくして解除パッチが非公式に出回った。 『GTAIV』や『GTAV』、『GTACTW』とは世界観が全く違う。 発売から10周年を記念して、2011年12月にAndroid版、iOS版がリリース[12][13]された。 CEROレーティング制度において[編集] CEROの旧レーティング制度における審査では「18歳以上対象」となっていて、厳密に購入制限されることはなかった。しかし現在施行されているレーティング制度では「CERO:Z(18歳以上のみ対象)」となり購入規制の対象となる。

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ヨジー・バーテル – Wikipedia

ヨジー・バーテル(Joseph (“Josy”) Barthel、1927年4月24日 – 1992年7月7日)は、ルクセンブルクの陸上競技選手。1952年ヘルシンキオリンピック男子1500mで獲得した金メダルは、夏冬通じてルクセンブルクがオリンピックで獲得した唯一の金メダルである。 バーテルの中距離選手としての能力は第二次世界大戦中に見出される。1947年に行われたミリタリー世界選手権の800mで勝利し、その名を知られるようになった。翌年のミリタリー世界選手権では800mと1500mの2冠を達成した。 1948年にはロンドンオリンピックで1500mに出場したが、9位という結果に終わっている。 1949年の世界学生選手権では1500m、1951年の世界学生選手権では800m、1500mの2種目制覇を果たした。 バーテルがもっとも輝いたのは1952年のヘルシンキオリンピックである。この大会で彼は1500mに出場。力強いフィニッシュで3分45秒1の記録を出し、金メダルを獲得した。彼は1956年メルボルンオリンピックにも出場したが途中棄権している。この大会の後引退した。 1962年にはルクセンブルク陸連の会長、1973年から1977年にかけてルクセンブルクオリンピック委員会会長、1977年からルクセンブルクの運輸・環境大臣となった。 1992年死去。1993年、彼の功績を称え、ルクセンブルク市の競技場「スタッド・ミュニシパル」がスタッド・ヨジー・バーテルに改称された。 外部リンク[編集]

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河野健一 – Wikipedia

河野 健一(かわの けんいち、1982年9月15日 – )は、三重県名張市出身の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 2010年、所属クラブの公式サイトで引退を発表した。[1] 引退後は熊本県内のタクシー会社である大阿蘇大津タクシーで運転手として働く傍ら、少年サッカークラブの指導に携わっている。[2] 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] 国内大会個人成績 年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算 出場 得点

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大谷光勝 – Wikipedia

大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如[1]」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主[2] 。真宗大谷派管長。子に四男・大谷光瑩、九男・大谷勝信、次女(水谷川忠起の妻)、六女・梭子(おさこ。岩倉具経の妻)ら。 本ページでは、年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つ為、天保14年12月29日(1844年2月17日[3] )までは、寛政暦表示。天保15年1月1日(1844年2月18日)から明治5年12月2日(1872年12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年1月1日)からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。 文化14年3月7日(1817年4月22日[3] )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。 文政6年(1823年)、東本願寺、両堂宇を焼失する。 文政7年(1824年)、東本願寺、仮堂宇を立てる。 文政11年(1828年)3月18日、得度する。院号を「霊心院」、法名を「逹住」、諱を「朗澄」と名乗る。長浜別院 大通寺と姫路別院本徳寺の住職を兼職する。 同年12月10日、寶如の死去により法嗣となる。法名を「嚴如[1]」と改める。 弘化3年5月23日(1846年)父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。 嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。 明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。 明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。 明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。(⇒詳しくは「本願寺道路」の項を参照)

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箭内仁 – Wikipedia

箭内 仁(やない ひとし、1974年[1]10月27日 – )は、日本の男性声優。賢プロダクション所属。千葉県出身。 太字はメインキャラクター。 テレビアニメ[編集] 2006年 2007年 2008年 銀魂(2008年 – 2011年、隊士A、マコ / 司会者、警官、陰陽師B、店員) 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年

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スティーブン・ドリュー – Wikipedia

スティーブン・オリス・ドリュー(Stephen Oris Drew, 1983年3月16日 – )は、アメリカ合衆国ジョージア州ラウンズ郡ハヒラ(英語版)出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 兄が2人おり、8歳上の長兄はセントルイス・カージナルス、ボストン・レッドソックスなどに所属した外野手のJ.D.ドリュー。5歳上の次兄はクリーブランド・インディアンス、モントリオール・エクスポズなどに所属した投手のティム・ドリュー(英語版)。 プロ入り前[編集] 2001年のMLBドラフト11巡目(全体324位)でピッツバーグ・パイレーツから指名されたが、契約せずフロリダ州立大学へ進学[1]。 プロ入りとダイヤモンドバックス時代[編集] 2004年のMLBドラフト1巡目(全体15位)でアリゾナ・ダイヤモンドバックスから指名を受けた。長兄のJ.D.ドリューは、1998年のMLBドラフト1巡目(全体5位)でセントルイス・カージナルスから、次兄のティム・ドリュー(英語版)も1997年のMLBドラフト1巡目(全体28位)でクリーブランド・インディアンスからそれぞれ指名されており、三兄弟でドラフト1巡目入団を果たしている。次兄のが先にプロ入りしているのは、1人だけ高卒のため[2]。 2005年6月4日にダイヤモンドバックスと契約した[1]。 2006年にオールスター・フューチャーズゲームに選出され、7月13日にレギュラー遊撃手のクレイグ・カウンセルが故障者リストに入った後、7月15日にメジャーデビューする。59試合に出場し、3割を上回る打率を記録。シーズン終了後、球団はカウンセルとの契約は更新しなかった。 2007年、ダイヤモンドバックスはドリューをレギュラーの遊撃手とした[3]。 2008年はナ・リーグ遊撃手として初めてシーズン40二塁打・10三塁打・20本塁打を達成[4]。9月1日のカージナルス戦ではサイクル安打を達成。同日、エイドリアン・ベルトレも達成し、1920年9月17日のボビー・ビーチとジョージ・バーンズ以来の、1日に2選手のサイクル安打達成となる[5]。 2012年は足首を痛め故障者リスト入りし、6月27日まで出場出来なかった。 アスレチックス時代[編集] 2012年8月20日、ショーン・ジェイミーソンとのトレードで、オークランド・アスレチックスへ移籍した[6]。11月3日にFAとなった。 レッドソックス時代[編集] 2012年12月26日にボストン・レッドソックスと950万ドルの1年契約を結んだ[7]。

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イドリースィー – Wikipedia

イドリースィー1154年製作の世界地図。上が南方向となっている。 ムハンマド・アル=イドリースィー(アラビア語: أبو عبد الله محمد الإدريسي; 、Abū ‘Abd Allāh Muhammad al-Idrīsī。1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?)は、中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。 イドリーシー、イドリーシまたエドリーシ、エドリーシー(Edrisi)とも表記される。 タブラ・ロジェリアナ,はルッジェーロ2世の為に1154年にイドリースィーによって描かれた。古代の世界地図の中でももっとも先進的なものの一つである。現在に残るものは、オリジナルの地図を見開き70葉(140頁)にまとめたもの(地図の下が北) ムラービト朝治世下にあったアフリカ北部のセウタ(現在はモロッコ内スペイン領の飛び地)で生まれ、コルドバで勉学に勤しみ、アンダルスや北アフリカの各地を旅した[1]後にルッジェーロ2世統治時のシチリアに招かれた。彼の死地は生誕地でもあったセウタだと言われている。今日まで伝わる学問的な業績とは裏腹に、イドリースィー個人の事績はキリスト教徒の側にもムスリムの側にもあまり伝わっておらず、正確な生没年すらわかっていない。例えば、ルッジェーロ2世の死後に息子のグリエルモ1世に仕えたのかについてさえ、諸説あって明確にわかってはいない。 彼は「イドリースィー」というクンヤ(出身名)が示す通り、マグリブの地方政権であったイドリース朝(789年 – 985年)の末裔のひとりで、すなわち預言者ムハンマドの子孫であるためアル=シャリーフ・アル=イドリースィー al-Sharīf al-Idrīsī

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