ナンシー・ローパー – Wikipedia

ナンシー・ローパー(Nancy Roper, 1918年 - 2004年10月5日)は、イギリスの著名な看護師、看護学者。イングランドのカンバーランド (現在のカンブリア州) 生まれ。1950年以降、教員に転じて看護専門学校で15年間教員を務め、1960年代から著述に専念。エジンバラ大学で修士号を取得。以後、チャーチル・リビングストン社とかかわりを深め、同社から著述を刊行。ウィニフレッド ・ローガン、アリソン・J・ティアニーと共に、エジンバラ大学で人間の生活行動に基づいた看護のローパー–ローガン–ティアニーモデルを構想したことで知られている。1974年から1978年まで、スコットランド家族・保健省で最初の看護研究専門官を務めたほか、WHOのヨーロッパ事務所でも研究活動を担当している。2004年10月5日、87歳でエジンバラで死去。 生活行動による看護モデル[編集] ローパー、ローガン、ティアニーの看護モデルの出発点で、また同時に看護理論の起点となっているものは人間行動から考えを展開していくモデルで、著者たちの頭文字をつないで、RLTモデルとも呼ばれている。人は日々、あるいはその生涯を通してこのような行動を営んでおり、それが12項目に整理できるという。これが生活行動である。他の研究者たちのものは、日常生活行動というが、ローパーの場合は、「死ぬ」という行為も含まれており、そのため「日常」という表現がはぶかれている。この12項目は次の通りである。 安全な環境へ配慮する。 コミュニケーションをとる。 呼吸する。 飲食を採る。 排泄する。 清潔な身なりをし、衣服を身に着ける。 体温の調節をする。 自分で動くことができる。 仕事をし、余暇を楽しむ。 自身を男性として、女性として意識し、そのように振舞う。 睡眠をとる。

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横浜市立深谷台小学校 – Wikipedia

横浜市立深谷台小学校 国公私立の別 公立学校 設置者 横浜市 設立年月日 1973年 閉校年月日 2017年3月31日 共学・別学 男女共学 学期 2学期制 所在地 〒245-0067 神奈川県横浜市戸塚区深谷町1312番1号 北緯35度23分17.8秒 東経139度29分48.1秒 / 北緯35.388278度

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一ノ坂遺跡 – Wikipedia

一ノ坂遺跡(いちのさかいせき)は、山形県米沢市矢来に所在する縄文時代前期の集落遺跡。 1997年(平成9年)7月28日、国の史跡に指定された[1]。 座標: 北緯37度54分34.0秒 東経140度4分53.5秒 / 北緯37.909444度 東経140.081528度 / 37.909444; 140.081528 長さ44メートル、幅4メートルの超大型住居を検出したことで知られる。同じ縄文時代前期の三内丸山遺跡(青森県青森市、長さ32メートル×幅10メートル)、杉沢台遺跡(秋田県能代市、長さ31メートル×幅8メートル)とならび縄文時代最大級の建造物で、長さだけからすれば日本最大規模を有する[2]。 大型住居の性格や使用目的はさまざまに議論されているが、一ノ坂遺跡の場合は、多量の石器の未製品・半製品も出土したことから石器工房の跡であるとの見方も有力である。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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三百六十五歩のマーチ – Wikipedia

「三百六十五歩のマーチ」(さんびゃくろくじゅうごほのマーチ)は、1968年11月10日に発売された水前寺清子のシングル。歌詞にも登場する「ワン・ツー・パンチ」というサブタイトルが付けられていた。 それまで演歌の本流とも言える楽曲をリリースし続けた水前寺がリリースした歌謡曲ナンバーで、題名の通り一日一歩ずつ歩み続ける人生を励ますマーチ(行進曲)調の曲である。ジャケット写真もそれまでの着流し姿から一転、マーチングバンドのドラムメジャー姿になった水前寺がポーズを決めたものとなっている。 水前寺は楽曲提供を受けた当初は演歌歌手としてヒット曲を連発したプライドから英語の「ワンツー」という歌詞がある本曲に「冗談じゃない。わざとイメージに合わない曲で私を辞めさせる気だ」と疑心暗鬼になったという[1]。作詞した星野哲郎によると、「息の長い歌手でいるには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない」との思いもあってこのような楽曲を作ったとのことである[2]。 このように水前寺が不本意ながらリリースした楽曲であるが、「日本が自信に満ちた時代だった」(日本クラウン元ディレクターの長田幸治談[1])という高度経済成長の時流にマッチし、累計では100万枚を越える売り上げ(ミリオンセラー)となり[1]、結果的に水前寺の最大のヒット曲にして水前寺の代表曲となった。水前寺はヒットとファンからの熱い手紙に歌への気持ちが大きく変わり、「最初は歌いたくなかった曲が、今では誇りです」と語っている[1]。 翌1969年には、本曲を題材とした映画として、松竹版コント55号シリーズ第3弾『コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ 三百六十五歩のマーチ』(監督:野村芳太郎)が製作公開された。 発売から12年後の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅白初歌唱された。また、対戦相手は同じく初歌唱となった「チャンチキおけさ」を歌う三波春夫で、初歌唱対決となった)、翌1969年には第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選ばれたほか、年間チャートでも第36位に入る。同年末には第11回日本レコード大賞大衆賞、第2回日本作詩大賞大衆賞を受賞した。 ちなみに水前寺本人は2番の歌い出しの歌詞を好んでいるという[1]。 楽曲の広まり[編集] その後においても本曲は水前寺を語る上では欠かせない曲と言え、また人生の応援歌とも言えるこの曲は数々のCMやテレビ番組などで取り上げられることとなる。 その他、水前寺本人や第三者の歌唱による替え歌により多数のCMに採用されている。 2016年10月には、熊本地震からの復興を目指す地元を紹介するミュージックビデオのために、歌詞の一部を変えたものが制作された。水前寺自身も出演している[7]。 2017年7月には、兵庫県警察音楽隊が本作の替え歌として「サギ犯にワン・ツー・パンチ! 〜歌ってなくそうサギ被害〜」を制作した。内容は特殊詐欺の代表的な手口や対処方法を盛り込んだもので、全体で9番まである[8]。 2018年には、スズキが本作の替え歌として「スズキの初売りオンパレード」のテレビ・ラジオCMが流された[9]。 2018年のアクト・アゲインスト・エイズイベント『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』で桑田佳祐がカバー[10]。翌年に発売されたこの公演を収めたライブビデオにも収録された。 オリジナル(1968年)[編集] (17cmEP CW-886

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蕨小島 – Wikipedia

蕨小島(わらびこじま)は、長崎県五島列島の久賀島の北東に浮かぶ島である[1]。全島が長崎県五島市に属する。面積は約0.03km2で、日本最小の有人島である。 五島列島の久賀島の蕨集落の北東700mに位置する。 面積 – 0.03km2 周囲 – 1.8km 標高 – 44m 人口 – 6人[2](2019年) 島の人口は6人(2019年現在)。水道は久賀島から海底送水により供給されている[3]。全員が「小島」姓の親戚で、カトリック信徒である。[要出典][4] 警備安全 島内に交番・消防署などは設置されていない。[5]そのため、救急の場合などは島外に出て通報しなくてはならない。 産業 ハマチ養殖などの漁業。島の全戸が共同で営んでいる。[6] 交通

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本多まつ江 – Wikipedia

本多まつ江(ほんだ まつえ、1889年(明治22年)12月25日 – 1969年(昭和44年)4月26日。教師であり、僧侶夫人、司法保護司、教誨師。晩年『死刑囚の母』と呼ばれた。旧姓は赤羽。 長野県東筑摩郡神林村字下神(現・松本市)に赤羽吉弥の五女として誕生する。神林尋常小学校卒業。長野県立松本高等女学校を卒業したのち、東京九段の和洋女子専門学校(現和洋九段女子中学校・高等学校)に進学。卒業後は、市立松本女子職業学校、新潟県立長岡高等女学校経て、埼玉県立久喜高等女学校に奉職。久喜高女時代は、国立療養所多磨全生園で、見習い看護婦として勤労奉仕をしている。 川島芳子の養父で、同郷の川島浪速に請われ、1916年(大正5年)4月に芳子の家庭教師となる。当時、東京・赤羽(現在の十条あたり)にあった川島邸に、まつ江は住み込みで芳子の教育にあたった。家庭教師を始めた頃、芳子は、豊島師範附属小学校に入学している。 1921年(大正10年)川島一家が東京の家を引き払い、浪速の故郷である信州松本に転居した年の3月、まつ江は名古屋市中村区岩塚町「林高寺」の住職・本多恵孝と結婚。本多まつ江となる。しかし、挙式後1ヶ月した頃にアメリカのコロンビア大学に単身留学をし、3年後の1924年(大正13年)に帰国するまで、夫とは別居生活をする。 1933年(昭和8年)、「大日本連合女子青年団満州視察団員」として中国大陸へ渡り、芳子と再会している。日中戦争の間は、アジアからの留学生の援助をしていた。1938年(昭和13年)、司法保護司を委嘱される。 1960年(昭和35年)、名古屋拘置所の教誨師となり、晩年は『死刑囚の母』として讃えられた。癌性腹膜炎のため、79歳で逝去。 人物とエピソード[編集] 川島芳子に対し、利害関係なく愛情を注いだ数少ない人物である。 芳子からは『赤羽のお母様』と呼ばれて親しまれ、芳子が甘えられる数少ない人物であった。 利発な芳子のことを考え、単なる家庭教師には終わりたくない気持ちもあり、まつ江は謝金を断ったという。 芳子は食事の時、まつ江の好物が膳に乗っていると、「わたし、これ嫌いだから赤羽のお母様召し上がって」と言って押し付けたという。芳子は何でも気のつく優しい子供だったそうが、ひねくれた愛情を見せる子だったのであろう。 まつ江は、当時にしてはインテリな女性であり、また国際的視野を持つ人物と思われる。 結婚直後に3年間の留学生活に入るという、行動力の裏には、僧侶である夫の絶大な信頼関係があったからであり、その信頼関係は終生変わらなかったという。 1933年(昭和8年)の再会の時は、芳子は事前にまつ江に手紙を出し、「久しぶりにお母様に会へると思ふと、飛びあがりたくなるようにうれしゆうございます。お出での時には、栄泉堂の最中と甘納豆をドッサリ買って来てね」と書いている。 戦後、逮捕された芳子の獄中からの書簡の中に、「このわたしが死んだと聞いて、悲哀の涙にかきくれ、心から歎いて下さるのは、赤羽のお母様だらう」という、赤羽まつ江に関する記述がある。 蔣介石夫人の宋美齢とは、コロンビア大学で同じ留学生クラブだった。 芳子が戦後、軍事裁判で漢奸として処させると知るや、芳子の助命活動を始める。まずは松本の浅間温泉にいた芳子の養父・川島浪速を訪ね、散在している松本高女の卒業生を訪ね、東奔西走ののち、3千名以上の署名を集めた。その趣旨は「芳子はすでに日本人であるから、漢奸として扱うべきではない」というものだった。食糧難、交通難の中、親戚友人から寄せられた資金で上京。長年親交のある大妻コタカを訪ねて落ち着くと、政界の各方面に足を運んで援助を要請した。まず社会党の松岡駒吉、長野・愛知県選出の国会議員、川島浪速と懇意の頭山満の三男・頭山秀三、GHQの幹部などに再三訪問した。しかし、多大な協力によりいよいよ北京へ飛ぶ段取りがついた時、ラジオ放送で芳子の処刑を聞いて、精根尽き果てたまつ江は卒倒したという。

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高定 – Wikipedia

高 定(こう てい) 『封神演義』に登場する崇黒虎の武将。 唐の官吏、学者。『経通』(易経)の著者のひとり。 清前期の反乱軍の指導者。康熙帝の代に反乱を起こした。 下記の本項を参照。 高 定[1](こう てい、? – 225年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。益州南部の越巂郡の出身。タイ系叟族の王である(「後主伝」)。『三国志』蜀志や『華陽国志』南中志に記されている。 新道県を包囲したが、李厳が援軍に駆けつけたため敗走した(「李厳伝」)。 223年、建寧郡の有力者である雍闓が呉と通じ、太守を殺害したり捕縛するなど反乱を起こした。同年夏には牂牁郡太守(又は郡丞)の朱褒も雍闓に呼応した。このような状況下、高定も再び越巂郡で反乱を起こし、太守である焦璜を殺害したという(『華陽国志』)。 呉より永昌太守に任じられた雍闓と共に、蜀漢の永昌郡に侵攻したが、呂凱らが人心を統率し郡境を閉ざしたため、落すことができなかった(「呂凱伝」)。 225年春3月、諸葛亮が南征の軍を起こすと、雍闓との間に確執が生じ、高定の部下が雍闓を殺害した(「呂凱伝」)。 高定は諸葛亮・李恢が率いる討伐軍と戦うも再び敗北、捕らえられて晒し首に処された(『華陽国志』)。 越巂郡はこうして平定されたが、諸葛亮の帰還後も異民族の反乱が再発し、その度に李恢が鎮圧にあたったという(「李恢伝」)。 越巂太守は龔禄という人物が殺害されて以降、任地に赴くことすらできず統治がままならない状態であったが、張嶷が太守の時代に蜀漢の支配が回復した(「張嶷伝」)。 三国志演義での高定[編集]

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赤面 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “赤面” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年6月) 赤面(せきめん)は、人間の無意識な行為の一種で、他人と対話する際などに顔が紅潮してしまう現象をいう。対処法については、「赤面#対処法」を参照。 赤面をするとき[編集] 赤面をする場合には次のような理由が挙げられる。 感情的理由(恥ずかしい・嬉しい・激怒している・泣く・好意を寄せている・興奮状態…etc..) 生理的理由(発熱などの体調不良、飲酒) 環境的理由(暑い) 赤面は顔の血管に血液を貯めることによって起こる。その際、血圧が下がって心拍数が上がり、心臓に負担がかかる。 赤面恐怖症[編集] 赤面恐怖症(単に、赤面症ともいう)は、生涯有病率(生涯に一度でもかかる人の割合)が7~13%である社交不安障害の代表的な症状の一つである[1]。 他人とのコミュニケーションが比較的活発な人でもこの症状を持つ者がいるが、深層心理から、表面上は活発的にコミュニケーションを行ってはいるものの、実際には克服できていない対人恐怖症の症状としても挙げられる。根本的に対人関係を苦手・苦痛としている者が起こるのが前提である。しかし、医学的には何故赤面が起こるのかという合理的な解明はされていない。酷い場合は交友相手と普通に会話するだけでも赤面することがある。 赤面症が生じる場面としては、以下のような急な対人ストレスを感じる場面で起こる[2][3][4][5][6]。

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Midtown Madness – Wikipedia

Midtown Madness(ミッドタウンマッドネス)は、マイクロソフト社から発売されたレースゲーム。 続編に、Midtown Madness 2とMidtown Madness 3がある。 シリーズ[編集] 舞台がサーキットではなく公道で、マップ中を縦横に走行できるシステムは当時としては珍しく、一般車、歩行者、パトカー等を交えた自由度の高いスタイルは、レースゲーム好きのプレイヤーに衝撃を与えた。ゲームモードは主に「サーキットレース」「チェックポイント」「タイムトライアル」「シティドライブ」などがある。またPC版は数多くのオリジナルファイル作成がファンによってなされ、マップ、車、追加MOD等がインターネットからダウンロードできる。そのため、発売から長い年月が経っている1、2作目でさえ、未だに数多くのファンが存在する。また、それらの車はデフォルト車よりも凝った作り込みがされている場合が多く、ドライバー、エンジン音、ダッシュボードなどがリアルに再現されており、プレイステーションなどのゲーム機のソフトに負けず劣らずのグラフィックとなっている。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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交友クラブ – Wikipedia

大正初期の衆議院院内会派で政党の「公友倶楽部」あるいは貴族院院内会派の「交友倶楽部」とは異なります。 交友クラブ(こうゆうクラブ)は、自由民主党の派閥。通称、川島派→椎名派。 1962年10月、岸派で一定の勢力を持っていた川島正次郎が結成。20人程の規模を維持し、中間派として影響力を持った。1970年に川島が死去した後は、椎名悦三郎が派閥を存続させたが、椎名の引退で解散した。現在は川島正次郎を大叔父に持つ甥である平山秀善が再興した。 この派閥から、領袖である川島や椎名が党副総裁に就任している。 この派閥に所属していた主な議員として赤城宗徳、荒舩清十郎、藤枝泉介、浜田幸一、綿貫民輔がいる。 20人程度の勢力を維持していたのは、拡張しようとして出来なかったわけではなく意図的なものである。川島は「資金集めが大変だから」という理由で、希望者が続出したにもかかわらず、川島派の議員数を20名程度にとどめていた。派閥構成員17人ぐらいで大臣ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわすことができ、ポストを巡る争いが少なくなって派の結束も維持しやすいことを川島は知っていたのである。 関連項目[編集] 前身: 自由党・日本民主党   保守本流 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派

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