隣組 – Wikipedia

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隣組による炊き出し

隣組(となりぐみ)は、概ね第二次世界大戦下の日本において[1]各集落に結成された官主導の銃後組織である。大政翼賛会の末端組織町内会の内部に形成され、戦争総動員体制を具体化したものの一つである。

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もともと江戸時代に五人組・十人組という村落内の相互扶助的な面もある行政下部組織が存在していて、この慣習を利用したものでもある。

日中戦争やヨーロッパで始まった第二次世界大戦に対応して行われることになった国家総動員法、国民精神総動員運動、選挙粛正運動[2]と並び、前年に決定し、1940年(昭和15年)9月11日に内務省が訓令した「部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)」(隣組強化法)によって制度化された。5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。

また、思想統制や住民同士の監視の役目も担っていた。戦後の1947年、連合国軍最高司令官総司令部により禁止されたが、その後も町内会等は現在に至るまで多くが残存し、回覧板など隣組の活動形式を色濃く残している。

地域により、隣保、組、班、最寄などの呼び方がある。

実質的に町内会の下部組織であり、各組(班)毎に町費の徴収を行ない、区長に町費を納めている。

列車における隣組[編集]

空襲時における車内の秩序維持、混乱防止のため車内隣組が結成された。1両ごとに、乗客中で軍人や官吏、年長者から隣組長(1名)副隣組長(1名ないし2名)が車掌によって指名され、指名された者は紙製の腕章をつけ、座席にはその旨が掲示された[3]

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組長は乗車マナーや防諜を他の乗客に指導するほか、警報が発令されると車掌から組長に伝達され組長は車内に通知し、組長は乗客へ支持を伝達する[3]。乗客は窓を開け鎧戸やカーテンを締め荷物は落下防止のため網棚からおろし鉄兜や防空頭巾を着用し腰掛けをはずして窓に立てかけ低い姿勢で防御する。停車した時もみだりに下車せずに、係員の指示に従うようにされた[4]

  1. ^ 1938年(昭和13年)5月には「交隣相助、共同防衛」の目的をもった隣組制度が制定された。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 164ページ)
  2. ^ 1935年(昭和10年)、岡田内閣の選挙粛正運動の下部組織として隣保組織の整備が支持されたのが手始めである。兵士の壮行行事、遺族・留守家族への救援活動などを通して、町内会・隣組の組織と機能が強められた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 164ページ)
  3. ^ a b 佐藤美知男『鉄道物語 はじめて鉄道に乗ったあの日』 河出書房新社 2002年 ISBN 4-309-72719-0 P.92~93
  4. ^ 運輸省鉄道総局業務局指導「旅と防空」『科学画報』1945年1月号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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