上杉持房 – Wikipedia

 

凡例

上杉持房

時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 延徳2年2月10日(1490年3月1日)?
別名 持憲、通称:三郎
戒名 常衍大成
官位 中務少輔
幕府 室町幕府
主君 足利義持→義教
氏族 犬懸上杉家→四条上杉家
父母 父:上杉禅秀、養父:上杉氏朝
兄弟 憲方、憲秋、憲春、持房、快尊、禅欽蔵主、教朝、岩松満純正室、那須資之室、千葉兼胤室
教房、憲秀
テンプレートを表示

上杉 持房(うえすぎ もちふさ)は、室町時代中期の武将。足利将軍家の家臣。

上杉禅秀の乱を起こしたことで有名な関東管領・上杉氏憲(禅秀)の子として誕生。幼少の頃に京都における犬懸上杉家の分家・四条上杉家の当主を務める叔父・上杉氏朝の養子となっていたため、父が4代鎌倉公方・足利持氏の排斥に失敗し自刃した後も難を逃れ、命を長らえた。

その後は室町幕府4代将軍・足利義持に仕えてその偏諱を受け持房(または持憲(もちのり))と名乗る。義持死後も6代将軍となった義持の弟・足利義教に仕え、共に仕えた弟・教朝や子・教房が偏諱を受けている。義教には特に重用されたようであり、永享10年(1438年)の永享の乱とそれに続く同12年(1440年)の結城合戦では、弟の教朝や斯波氏、土岐氏と共に幕府軍を率いて参加し、関東管領・上杉憲実や管領代行の上杉清方を支援した。

享徳3年(1455年)から享徳の乱が勃発すると、子の教房が上杉方として参戦したが、長禄3年(1459年)の太田庄の戦いにおいて持氏の子の古河公方・足利成氏の軍に敗北し戦死している。

持房本人は長命で、一説に延徳2年(1490年)2月10日に没したとされているがはっきりとしない。

注釈・出典[編集]