於大の方 – Wikipedia

於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) – 慶長7年8月28日(1602年10月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」、または「太」「たい」[注釈 1]。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。

緒川城址の傳通院於大出生地碑(愛知県知多郡東浦町)

於大の方が菩提寺に定めた善導寺(東浦町)

松平広忠との離縁後に住んだ椎の木屋敷にある於大の方由緒地の碑(愛知県刈谷市)

享禄元年(1528年)、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた(青山政信の娘で忠政の養女であったという説あり)。

父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ(於富の方所生とされる子達の出生年からこれを否定する説もある)、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した。

天文12年2月3日、三河国妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念した。

忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文13年(1544年)に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城(現刈谷市)に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。

ただし、近年では天文13年当時まだ対立が本格化していない今川氏や織田氏との関係よりも、水野氏と松平氏の関係自体に離縁の理由が求められている。そもそも、於大と広忠の婚姻自体が、広忠の叔父で「名代」として実権を握っていた松平信孝が推進した外交政策に基づくもので、天文12年(1543年)頃に広忠や重臣たちと対立した信孝が追放されたことで、信孝と関係が深かった水野氏に対する広忠の外交政策が変化したと考えられている[3]。また、信元の正室は広忠と家督を争った松平信定(広忠の大叔父)の娘であったため[4]、信定と敵対関係にあった松平氏に対する信元の外交政策が変化したことも考えられる。

於大は天文16年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には3男3女を儲ける。また、この間にも家康と音信を絶えず取り続けた。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。天正3年12月(1576年1月)、於大の兄の水野信元が謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。また家康の下へ行かずに、尾張国の久松家の所領を継いで織田家に仕えていた久松俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子で、於大の子ではない)も信長に謀反を疑われて大坂四天王寺で自害し、所領は没収された。於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した[5]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。慶長7年(1602年)には、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示した。

同年8月28日、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は伝通院殿光岳蓉誉智光。

なお、於大の出生地・東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。

  • 『松平記』(巻5)によると、水野忠政は2人の娘のうち、姉の於丈を形原松平家の松平家広に、妹の於大を松平宗家の松平広忠に嫁がせていたが、後を継いだ信元が今川方から織田方に転じた時に家広と広忠はこれに同調せずに信元と縁を切ってそれぞれの妻を実家に送り返すことにした。ところが、岡崎領と刈谷領の境界に来た時に、於大は付き添ってきた松平家の家臣にここから岡崎城に帰るように命じた。家臣たちはそれでは広忠の主命に背くことになると述べたが、於大は信元が送ってきた松平の家臣を辱める振舞いに出て両家に遺恨が生じるかもしれないから是非帰るように指示をすると、近くにいた水野家側の領民に於大を載せた輿を託して岡崎城に帰還していった(『松平記』の著者はその時の侍の中に自分の父が居たと述べている)。その後、於丈を送り届けた形原松平家の家臣たちは城内にて信元に討ち取られたと伝えている[8]。ただし、形原松平家については、実際には松平家広は信元に同調して離縁せずに織田方に転じ、後に広忠や今川氏と戦ったと考えられている[9]
  • 松平広忠との間の子
  • 久松俊勝との間の子

登場する作品[編集]

テレビドラマ

注釈[編集]

  1. ^ 実名は江戸初期編纂『寛永諸家系図伝』「水野氏」の忠政の女子に「御太方(たいはう)」とあり、同時期寛永18年(1641年)に幕府に提出された「水野勝成覚書」には甥の勝成が「たいほう」と冒頭系図に書き記している。朝廷から贈られた名前「大子」も読みは「たいこ」であろう。

出典[編集]

  1. ^ 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.
  2. ^ 新行紀一 「第3節 戦国領主 水野信元」、刈谷市史編さん編集委員会編 『刈谷市史 第2巻 本文(近世)』、1994年。/所収:大石泰史編 『今川義元』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年、183-200頁。ISBN 978-4-86403-325-1 2019年、184-185.
  3. ^ 「由緒・沿革」浄土宗西山深草派 楠林山和合院 安楽寺
  4. ^ 新行紀一「戦国領主 水野信元」(初出:『刈谷市史 第2巻 本文(近世)』第3節、1994年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P185-186.
  5. ^ 小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P42-43.

参考文献[編集]

  • 中村孝也 『徳川家康公傳』 東照宮社務所、1965年。 

関連項目[編集]

徳川家康の系譜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16. 松平長親

 

 

 

 

 

 

 

8. 松平信忠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17. 松平近宗娘

 

 

 

 

 

 

 

4. 松平清康

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

18. 大河内満成

 

 

 

 

 

 

 

9. 大河内満成娘

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 松平広忠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20. 青木教方

 

 

 

 

 

 

 

10. 青木貞景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5. 青木貞景娘

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 江戸幕府初代将軍
徳川家康

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

24. 水野賢正

 

 

 

 

 

 

 

12. 水野清忠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6. 水野忠政

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3. 於大

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7. 華陽院