レオ・カイリー – Wikipedia

レオ・パトリック・カイリーLeo Patrick Kiely , 1929年11月30日 – 1984年1月18日)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州出身のプロ野球選手(投手)。

実働1ヶ月ながら、日本プロ野球史上初の現役メジャーリーガーの外国人選手である[1]

来歴・人物[編集]

1948年にボストン・レッドソックスと契約。1951年にメジャーリーグに初昇格し、同年は7勝7敗[2]・防御率3.34の成績を挙げるも、翌1952年に兵役に就き、進駐軍として来日し朝霞基地(キャンプ東京)に配属される。

毎日オリオンズの二軍が練習試合として朝霞基地のアメリカ兵チームと対戦していたが、しばしば敗戦を喫しており、その時に投げていたのがカイリーであった(カイリーは在京球団の二軍相手に18勝1敗であったともいう)[3]。1953年に投手不足に悩んでいた毎日オリオンズは、メジャーリーグで投手経験を持つカイリーに目を付けた[4]。監督の若林忠志が知人の在日米軍関係者を通じて、カイリーに毎日でのプレーを要請[5]。最終的に毎日の球団代表・黒崎貞次郎がカイリー獲得を決定。しかし、軍を除隊させてまで入団させるわけにはいかないので、同じ基地勤務だったチャーリー・フッド(フッドはメジャー経験なし)と共に、軍に籍を置きながら休日とナイトゲームのみ出場という、いわばアルバイトでの選手契約を交わした。なお、カイリーの報酬は1日10万円という破格の待遇であった[6]

同年8月8日の西鉄ライオンズ戦でリリーフとして初登板すると4回3失点と打たれるが、三宅宅三が逆転打を放ち初勝利を飾る。この試合ではウォーミングアップ不足のためか、コントロールに欠け、捕手との折り合いもつかず、苦心の投球だった[7]。しかし、以降はほとんど危なげない投球で、8月だけで6試合に登板して6連勝(うち完封1)を挙げ[2]、防御率も1.80と抑えた。外国人投手による来日初登板からの連勝記録としては、長らくこの6連勝が最高記録であった(2015年に福岡ソフトバンクホークスのリック・バンデンハークが更新)。打撃面でも19打数10安打、打率.526を記録しており[2]、登板した試合以外でも代打でも1試合に出場している。チームに合流するのは試合の当日だけだった。遠征の時はアメリカ軍のヘリコプターに乗ってやってきて球場のグラウンドに着陸し、ちょっとブルペンで投球練習して、すぐ試合に投げる感じだったという[3]

もともと、閉幕までプレーを予定していたが、この年の7月に朝鮮戦争の休戦協定が調印され、在日アメリカ軍のの兵力が削減されていく中、9月3日にカイリーに除隊命令が出て立川航空基地から空路で帰国することになり、突然の退団となった[8]。退団にあたってチームメイトに挨拶する余裕もなく、球団経由で「日本で野球を楽しませてもらったことは、僕のよい思い出になるだろう」とのコメントを残している[9]。なお、カイリーの活躍が極めて顕著だったため、カイリーの帰国後に雇用形態に問題があるという建前で、1954年2月5日付で福井盛太コミッショナーより「進駐軍選手のアルバイト登板禁止」の通達が出される事となった[2]

1954年にレッドソックスでメジャー復帰し、先発陣に入って5勝(8敗)を挙げる。翌1955年からリリーフに移り、1958年には自己最多の12セーブを記録した。1960年にカンザスシティ・アスレチックスに移籍し、同年限りで現役引退。

1984年1月18日に癌のため死去[10]。54歳没

プレースタイル[編集]

左腕からのサイドスロー気味の少し変則的な投球フォームだが、腕がしなって球が出てくるのが遅く、投球が見づらかった。右打者の外角、左打者の内角を突く、スクリューボールに威力があった。バッテリーを組んだ土井垣武によると、スクリューボールと言うよりは直球が自然に変化している感じだった、またサインは直球とカーブの二種類だけだったという[11]。速球派ではなく、球の切れで勝負するタイプであったとみられる[12]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]

記録[編集]

NPB
  • 初登板・初勝利 1953年8月8日 対西鉄戦(甲府)
  • 初先発・初完投勝利 1953年8月11日 対東急戦(後楽園)
  • 初完封 1953年8月30日 対東急戦(西京極)

背番号[編集]

  • 25 (1951年)
  • 50 (1953年)
  • 19 (1954年 – 1956年)
  • 17 (1958年 – 1959年)
  • 32 (1960年)
  • 34 (1960年)
  1. ^ #大道 p.69
  2. ^ a b c d #千葉 p.47
  3. ^ a b 『プロ野球助っ人三国志』225頁
  4. ^ #千葉 p.46
  5. ^ #大道 pp.69-70
  6. ^ 『プロ野球助っ人三国志』226頁
  7. ^ スポーツニッポン1953年8月9日記事
  8. ^ 日本文芸社『2000年優勝記念号巨人軍歴史新聞』25頁
  9. ^ 『プロ野球助っ人三国志』229頁
  10. ^ 『プロ野球助っ人三国志』230頁
  11. ^ 『プロ野球助っ人三国志』227頁
  12. ^ 『プロ野球助っ人三国志』228頁

参考文献[編集]

  • 千葉功「途中入団外国人の活躍度を検証する」『決定版 日本プロ野球外国人選手大鑑』ベースボール・マガジン社、2002年、46-51頁。ISBN 4-583-61191-9。
  • 大道文「ハワイ日系二世組全盛からメジャーへ目を向け始めた時代」『決定版 日本プロ野球外国人選手大鑑』ベースボール・マガジン社、2002年、68-75頁。ISBN 4-583-61191-9。
  • 小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]