ジャン・オーレル – Wikipedia

ジャン・オーレル
Jean Aurel
生年月日 (1925-11-06) 1925年11月6日
没年月日 (1996-08-26) 1996年8月26日(70歳没)
出生地 ラストリッツァ
死没地 パリ
国籍 フランスの旗 フランス
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ジャン・オーレルJean Aurel、1925年11月6日 ルーマニア・ラストリッツァ – 1996年8月26日 パリ)は、フランスの映画監督、脚本家。フランソワ・トリュフォーの脚本家として知られる。

  • 1925年11月6日、ルーマニア・ムレシュ県ラストリッツァを走る寝台車のなかで生まれた。
  • 1951年、アナトール・ドーマン製作のもと短編映画『L’Affaire Manet(マネ事件)』を撮る。数本の短編映画を演出。平行して、週刊誌『アール Art』に執筆をし、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーの時代、つまりヌーヴェルヴァーグ揺籃期の『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集者となり、とりわけ7歳下のトリュフォーと親交を深く結ぶ。
  • IDHEC卒。1955年、その教育課程の一環で、アウグスト・ジェニーナ監督の遺作となる『フルフル Frou-Frou』の助監督についた。同作の撮影監督はアンリ・アルカン(Henri Alekan)。同年、カルミネ・ガローネ/レンツォ・メルーシ共同監督の『La Fille de Mata Hari(マタハリの娘)』の脚本を書き、つづいてルネ・クレールやミシェル・ボワロン、ジャック・ピノトー、ジャック・ベッケル、ロジェ・ヴァディムらを支える脚本家へ。
  • 1963年、第一次世界大戦についてのドキュメンタリー映画『14-18』で長編監督デビュー。1965年の米国アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネート。同作のプロデューサーでもある。
  • 1979年、フランソワ・トリュフォー監督『逃げ去る恋』の脚本に参加、以来『隣の女』(1981年)、遺作『日曜日が待ち遠しい!』(1983年)と最晩年の3本に、いずれもシュザンヌ・シフマンとともに脚本参加。
  • 1996年8月26日、パリで死去。70歳。
  • フィクションの演出を試みたが、大きな成功は得られなかった。ドキュメンタリーの演出、とくに『14-18』(1963年)や『La Bataille de France』(1964年)といった2つの世界大戦はらくにできたようである[1]
  • 19世紀小説を数本映画化したが、むしろすぐれているのは『Staline』(1985年)やボリス・スヴァーリン(Boris Souvarine)の伝記の映画化であった[1]

フィルモグラフィー[編集]

脚本[編集]

監督[編集]

  • Joan Miro 1949年 共同監督シャルル・エチエンヌ、短編
  • Les Fêtes galantes (Watteau) (1950) ナレーションジェラール・フィリップ
  • L’Affaire Manet (1951) 脚本も
  • Le Cœur d’amour épris du roi René (1952)
  • Les Aventures extraordinaires de Jules Verne (1952) 脚本も
  • La Bride sur le cou (1961) 脚本も
  • 14-18 (1963) プロデューサーも ※長編デビュー作
  • La Bataille de France (1964)
  • スタンダールの恋愛論 De l’amour (1964) 脚本も
  • Lamiel (1967) 脚本も
  • 恋のマノン Manon 70 (1968) 脚本も
  • 女性たち Les Femmes (1969) ビデオ邦題、脚本も
  • Êtes-vous fiancée à un marin grec ou à un pilote de ligne? (1971) 脚本も
  • …Comme un pot de fraises ! (1974)
  • Staline (1985) 脚本も

出演[編集]

  1. ^ a b 仏語版Wikipedia Jean Aurelの項の記述より。

外部リンク[編集]