江木欣々 – Wikipedia

江木 欣々(えぎ きんきん、1877年(明治10年)1月30日 – 1930年(昭和5年)2月20日)は、明治期の法律学者・江木衷の妻。本名は栄子。号を欣々、または欣々栄と称した。生年は1879年(明治12年)説(墓誌)がある。父は初代愛媛県知事関新平、母は関家の女中藤谷花(花子とも。麹町の袋物屋「大和屋」の娘)。異父弟にシャープ創業者の早川徳次、異母妹(新平の正妻の子)に、ませ子(万世子)がいる。九条武子、柳原白蓮と並んで大正三美人と称された。

関が大審院判事として東京へ単身赴任中、女中の藤谷に手を付け栄子が生れた[1]。栄子は京橋区木挽町の古道具屋に養女に出されたのち、5歳ごろに本所緑町の顔役(親分)の田岡某にもらわれ、16歳で栄子を生んだ母親とは生涯会うことはなかった[2][1]。養父の病死で養家が困窮したため、新橋の花街で半玉となった[2]

栄子は16歳で九州の細川家の元家老職で50代の有吉立愛男爵(1840-1893)に落籍され正妻となった[1]。しかし夫は1年あまりで病没。栄子は有吉家を出されて再び花柳界に戻り、神田明神下の講武所で芸者となった[2](講武所で半玉となり、夫の没後、新橋の置屋「松屋」の芸者ぼたんとなったとする説も[1])。

栄子は講武所の美貌芸者として名をはせ、明神下の開花楼で開かれた弁護士たちの宴会で19歳年上の江木衷と出会い、間もなく衷と結婚した。二人はもともと顔見知りで、衷が東大法科生のころ、下宿先に洗濯屋の御用聞きに来ていた美少女が栄子だった[3]。結婚後は自宅で関係者を集めてパーティを開き、そこが自ずから社交場となった。栄子は詩、書、画、篆刻、謡曲と広い趣味と才人ぶりを見せて花形となった。

1925年(大正14年)に夫と死別。1930年(昭和5年)、大阪の早川の家で首吊り自殺した(知人だった長谷川時雨は、場所を京都の宿としている[2])。

異母妹に悦子、藤子、ませ子がおり、悦子は関場不二彦と離婚後、江木鰐水の子で江木写真館を創設した江木保男の後妻となる。ませ子は美人画家の鏑木清方の傑作「築地明石町」のモデルとして知られ[2]、江木保男の先妻(鶴田皓の娘)との子で農務省役人の江木定男に嫁ぎ、子に猪谷妙子(猪谷善一妻)、双子の江木武彦・文彦がいる。妙子の子には、戦後の国際女優・谷洋子がいる。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]