Month: March 2022

田原晃司 – Wikipedia

田原 晃司(たはら こうじ、1975年2月26日 – )は、大阪府泉南市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投左打。 来歴・人物[編集] 泉州高校(現:近畿大学泉州高等学校)では2年の夏からベンチ入りしている。3年生時には主将を務め、夏の甲子園大阪府予選では準決勝で春日丘高校に敗れた。なお、1学年上には谷中真二がいた。1992年のドラフト6位で西武ライオンズに入団。 地面スレスレまで腰を落として捕る、独特の捕球体勢が特徴。これは非常に柔らかい股関節の賜物である。長い間二軍生活を送り、プロ9年目の2001年に一軍初出場、11年目の2003年に一軍初安打を記録するという遅咲きの選手である。 伊東勤の引退後はその間の豊富な経験を生かしたリードが武器となり、若手で経験の浅い細川亨、野田浩輔、炭谷銀仁朗らのサポート役として一軍での出番が多くなり、守備固めでの起用が多かった。 2005年、正捕手の細川がリーグ最多の捕逸を記録したこともあり、主に守備固めとして自己最多の46試合に出場。6月9日の対東京ヤクルトスワローズ戦(インボイスSEIBUドーム)で、13年目にしてプロ初本塁打を放った。そしてヒーローインタビューの選手として選ばれたが、これも初めてのことである。 2006年は炭谷の加入で3・4番手捕手となったが、6安打で4打点と少ないチャンスで確実に貢献した。 2007年は細川が正捕手として安定して活躍したこともあり、5年ぶりに一軍出場なしに終わった。 2008年も引き続き一軍出場なしに終わり、11月9日に戦力外通告を受け、現役を引退した。 引退後[編集] 西武にブルペン捕手として残留した。 詳細情報[編集] 年度別打撃成績[編集] 年度別守備成績[編集] 年度 捕手

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井田制 – Wikipedia

井田制(せいでんせい、拼音: jǐngtián zhì)とは、中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 1里四方、900畝の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。以上のような内容が孟子によって語られているが、ほとんど伝説上の制度といってよく、その実態は依然として不明である。1920年には胡適が疑古の立場から架空の制度であると主張し、論争になった[1]。 なお、畝(ほ)というのは中国で用いられた土地面積の単位で、10歩平方の土地、すなわち100方歩を意味する。1歩は6尺であるから、1畝は600尺四方とも言うことができる。尺の長さは時代によって変わるため畝の表す広さも一定ではないが、周代の頃の1畝をメートル法に換算すると、およそ1.82aであると考えられている。よって井田制における一区画は100畝(182a)の面積を有することになる。 儒教を旨とし、周(特に周公旦)の政治を理想とする政治家や儒家によってしばしば参考にされている。 また、日本の奈良時代に行われた条里制もこれを参考にしたものといわれている。 日本での井田制[編集] 岡山藩・友延新田(とものぶしんでん)[編集] 江戸時代、岡山藩主の池田光政・綱政親子は、重臣の津田永忠に命じて干拓地に友延新田(現在の備前市)を造成する際、古代中国に倣って井田制を適用した。友延新田は、南北に長い長方形の上井田(かみいた、1670年完成)と、正方形の下井田(しもいた、1688年完成)とから成り、後楽園内にもこれを模した100分の1規模の井田が設けられている。 儒教の理想的仁政を実現すべく、上井田の造成当初は9田に1田を公田とする運用で開始したが、やがて藩の財政危機や飢饉に見舞われて他の農地と同等の租税率に引き上げたため、実際には井田制として機能した期間はごく短い。下井田は、庶民の教育施設として創立した閑谷学校の財政基盤を支える校田に割り当てられた。 その他の土地制度[編集] ^ 楊寛著、西嶋定生監訳、高木智見訳 『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史学者の軌跡』 東京大学出版会、1995年。ISBN 978-4-13-023044-5。 52頁。

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アメリカヤマアラシ科 – Wikipedia

アメリカヤマアラシ科(アメリカヤマアラシか、Erethizontidae)は、齧歯目に分類される科。 新世界と旧世界のヤマアラシは、広い範囲を網羅する齧歯目のヤマアラシ亜目に属しているが、近縁の種ではない。 北アメリカ大陸(カナダ、南東部を除くアメリカ合衆国、メキシコ南部以南)、南アメリカ大陸北部[2] カナダヤマアラシは体長86cm、体重18キログラム[2]。オマキヤマアラシ類は体長30センチメートル、体重0.9キログラム[2]。オマキヤマアラシ属やキノボリヤマアラシ属は、物に巻きつけられる長い尾をもつ[2]。自らの体を棘で覆い身を守るのが特徴である。棘は長く丈夫で柔らかい毛と混合して生えている。 足裏には肉球や襞があり、表面積を広げ掴む力を強くしている[2]。オマキヤマアラシ属やキノボリヤマアラシ属は、後肢の第1趾が退化して肉球と癒合し、より表面積を広げ掴む力を強くしている[2]。 歯列は、 1.0.1.31.0.1.3{displaystyle {tfrac {1.0.1.3}{1.0.1.3}}} であり、旧世界ヤマアラシのものと類似している。 旧世界ヤマアラシとの違い 臼歯の歯根を持つこと、鎖骨の形状、上唇全体、足裏の肉球、前足の第一つま先の足跡が無いこと、そして4個の乳頭に違いがみられる[訳語疑問点]。 ホソオヤマアラシをアメリカトゲネズミ科に分類する説もあった[1][3]。 以下の分類・英名はMSW3(Woods & Kilpatrick, 2005)、和名は(今泉, 1986)に従う[1][4]。 Chaetomyinae亜科 ホソオヤマアラシ属

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リチャードホール – Wikipedia

『リチャードホール』は、フジテレビ系列で放送されていたコント中心のお笑い番組である。『ロバートホール水』の後継番組で、製作局のフジテレビでは2004年10月20日から2005年9月3日まで放送。実際に使用していたタイトルロゴは「RICHARD HALL」であるが、番組表上では本項の表題通りにカタカナで表記されていた。 リチャードファミリー[編集] リチャードファミリーとは、出演者とスタッフという意味合いを持つ。また、番組見学者たちもリチャードファミリーの一員である。コントでのキャラクターは、ファミリーそれぞれの素質を活かしたものや、何かをモデルにして作られたものが多かった。 レギュラー出演者[編集] くりぃむしちゅー 上田晋也 ファミリーのリーダー役。しかし演技の臭さ、スタジオでの偉そうな態度などを散々弄られていた。「四MEN楚歌」では他メンバーに蔑ろにされるキャラを演じたが、収録後の帰りのタクシー内で真剣にヘコんだ。誘い笑いの天才で真似するメンバーも多く、ポジションは脇役ながら森三中に「名俳優」と評されたほどである。ある種、番組の雰囲気を作った。 有田哲平 ファミリー一番組を愛する男。『ロバートホール水』時代より、かねてからアンタッチャブルの番組出演をプッシュしていた。コントではむちゃぶりや、実在プロレスラーのオマージュキャラを得意とした。また、リハーサル中に調子に乗ってしまい、コントの設定自体を変えてしまうこともあった。 中川家 中川剛 コントでは犯人役や生徒役など、番組内では脇役に徹していた。 中川礼二 コントではおっさん、おばちゃんなど得意のものまねを活かしたキャラを演じた。 おぎやはぎ 小木博明 『ロバートホール水』開始当初は、そのクールな性格から演者やスタッフに一目置かれていたが、「フタを開けてみたら、まあ空っぽ」(有田談)だったことが判明。後期には体を張ったコントに出演することが多かったが、頑張りすぎてリアルにハプニングを起こしてしまい、よくディレクターに怒られていた。そのため、小木主要のコントは1回で終わるというジンクスが出来上がった。 矢作兼 コントでは純朴なキャラを演じることが多かったが、本番中に本気で怒りを発してしまうことがたびたびあった。

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埼玉県道8号川越入間線 – Wikipedia

主要地方道 埼玉県道8号川越入間線 起点 川越市砂 終点 入間市宮寺 宮寺交差点 接続する主な道路(記法) 国道254号国道463号国道16号 ■テンプレート(■ノート ■使い方) ■PJ道路 埼玉県道8号川越入間線(さいたまけんどう8ごうかわごえいるません)は、埼玉県川越市新河岸駅付近の国道254号交点から、入間市宮寺交差点までの県道(主要地方道)である。狭山市内の中新田交差点付近から入間市内の藤沢交差点付近にかけては、「茶つみ通り」とも呼ばれている。 目次 1 歴史 2 地理 2.1 通過する自治体

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汁粉 – Wikipedia

粒あんの汁粉 西日本ではぜんざいと呼ばれる 汁粉(しるこ)は、小豆などを砂糖で甘く煮た汁の中に、餅や白玉団子、栗の甘露煮などを入れた食べ物。「おしるこ」とも呼ばれる。関東では漉(こ)し餡を用いたものも粒餡を用いたものも区別せず汁粉と呼ばれるが、関西では漉し餡を用いたもの汁粉と呼び、粒餡を用いたものはぜんざいと呼び分けるのが通例である[1][2]。 粒餡、漉し餡ともに汁粉と呼ぶ地方では、餡(あん)の違いによって区別される。 田舎汁粉 – つぶし餡を用いたもの。小倉汁粉とも呼ぶ。 御前汁粉 – 漉(こ)し餡を用いたもの。 また、江戸時代以前より即席汁粉としての展開もみられる。 懐中汁粉 – もなかの皮の中に粉末の漉し餡とあられを入れた日本古来のインスタント食品。湯を掛けて溶いて食べる。 お湯を注いで作る個包装の粉末汁粉やカップ汁粉、缶入りでそのまま飲むことができるおしるこ缶なども販売されている。 おしることぜんざいの違い[3][4] 関東(すなわち角餅) 関西(すなわち丸餅) 汁気あり つぶあん おしるこ(田舎汁粉または小倉汁粉)

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順天市 – Wikipedia

順天市(スンチョンし)は大韓民国全羅南道東南部の市。16世紀末に日本軍が築いた順天倭城が残る。2013年に順天湾国際庭園博覧会(朝鮮語版)(国際園芸博覧会)が開催されている。 朝鮮半島南海岸地帯に位置し、東は全羅南道光陽市・求礼郡、西は和順郡・宝城郡、北は谷城郡、南は麗水市と接する。南は一部、順天湾及び光陽湾に面する。順天湾は干潟が広がりナベヅルなどの飛来地になっており、ラムサール条約にも加盟している。 人口は2000年に27万に達した後は横ばいである。外国人人口は約1600人で、うち約700人が中国人。日本人は約60人(2009年現在)。 なお、朝鮮民主主義人民共和国平安南道にはハングル表記が同じ順川市があり、翻訳時に漢字表記が混同されることがある。 順天市[編集] 昇州郡(順天郡)[編集] 757年 – 昇平郡設置。 940年 – 昇州に改称。 1309年 – 昇州牧(地方長官所在地)に昇格。 1310年 – 順天に改称し、府に降格。 1350年(忠定王3年) –

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ザーブ郡区 (ペンシルベニア州ノーサンバーランド郡) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ザーブ郡区” ペンシルベニア州ノーサンバーランド郡 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) 州内のノーサンバーランド郡の位置。 郡内のザーブ郡区の位置。 ザーブ郡区(Zerbe Township)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ノーサンバーランド郡にある郡区である。2000年現在の人口は2,021人。 アメリカ国勢調査局によると、ザーブ郡区の総面積は30.0km2で、すべて陸地である。 2000年の国勢調査によると、ザーブ郡区の人口は2,021人であり、871世帯、561家族が居住している。人口密度は 1平方キロメートルあたり67.3人である。946軒の家があり、1平方キロメートルあたり31.5軒の家が建っている。町の人種構成は、98.71%が白人、0.15%が黒人ないしアフリカ系アメリカ人、0.05%がアメリカ先住民、0.15%がアジア人、0.00%が太平洋諸島系、0.15%がその他の人種であり、0.79%は混血である。人口の0.40%はラテン系である。 全世帯の25.3%には18歳未満の子供が同居しており、52.4%は夫婦で一緒に生活している。8.4%は夫のいない女性が世帯主であり、35.5%は独身である。全世帯の31.8%は一人暮らしであり、16.5%が65歳以上である。平均世帯人数は2.32人、平均家族人数は2.92人である。 ザーブ郡区の人口は、21.2%が18歳未満、18歳以上24歳以下が7.0%、25歳以上44歳以下が27.6%、45歳以上64歳以下が23.8%、65歳以上が20.3%である。年齢の中央値は42歳である。女性100人に対して男性は100.5人であり、18歳以上の100人の女性に対して男性は95.1人である。 町の1世帯あたりの平均収入は31,964ドルであり、1家族あたりの平均収入は38,000ドルである。男性の平均収入が30,236ドルに対し、女性の平均収入は18,207ドルである。1人あたりの収入は15,780ドルである。人口の8.6%(全家族の6.0%)が極貧層である。18歳以下の住民の7.8%、65歳以上の住民の13.5%は貧しい生活を送っている。

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佐々木誠 (野球) – Wikipedia

佐々木 誠(ささき まこと、1965年10月3日 – )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、野球指導者、野球解説者。現役引退後は、NPBと社会人野球でのコーチを経て、2018年から鹿児島城西高等学校の硬式野球部監督を務める。 横浜DeNAベイスターズ外野手の佐野恵太は、甥に当たる(佐々木の実妹が佐野兄弟の実母)[1]。 プロ入りから南海・ダイエー時代[編集] 水島工業高校時代は投手として活躍、1983年春季中国大会県予選では準々決勝に進むが、岡山朝日高に0-1で惜敗。打者としての才能を見込まれ、1983年ドラフト会議で南海ホークスから6位指名を受けて外野手として入団。4年間プレーして通用しなかったら野球をやめるつもりだったという[2]。 1年目は高校生気分が抜けきらない面があった[3]ものの、山本一義や長池徳士らコーチ陣のもとで厳しい練習を積んだ[2]。 1985年には早くも一軍で54試合に出場した。 1987年には6月30日の日本ハム戦で、リーグ10人目となる2試合連続初回先頭打者ホームランを達成する[4]など、レギュラーとなって125試合に出場し、リーグ9位の打率.288を記録している[2]。 1988年は初めてオールスターゲームに出場。夏場にダイエーへの球団売却が決まり言葉にできないほどショックを受けた[3]ものの、同年の大阪スタヂアム公式戦最終試合やシーズン最終戦でともに本塁打を放つなどの活躍で、人気選手となっていった[2]。さらにオフの日米野球では翌年から本拠地となる平和台球場で同年のワールドシリーズMVPのオーレル・ハーシハイザーから本塁打を挙げている。ダイエーホークスのユニフォーム発表会では加藤伸一とともにモデルを務めるなど注目を集め、監督の杉浦忠からも全国区のスターになれると評された[3]。なお、新ユニフォームの写真を用いた垂幕広告が、博多駅の井筒屋の壁面に飾られた。 約80%の大幅増となる年俸3,200万円(推定)[5]で契約更改し、結婚して[6]迎えた1989年は、ハーシハイザーから打った本塁打からのイメージを引きずり、長打を狙って打撃のバランスが崩れ、打率が.235と大きく悪化し三振も激増した[2]。 1990年は、開幕から2番打者を任されたが、バントやエンドランなどを打席で考えすぎてパニックに陥ったという[7]。後に打順は1番に変わり、同年はリーグ最多の33二塁打を記録。日米野球では21打数9安打の活躍で敢闘賞を受賞した[8]。 1991年は初の3割となる打率.304を記録し、1番打者ながら21本塁打を放った。また、初のゴールデングラブ賞とベストナインに選ばれている。 前年の成績で自信を付けた[9]1992年は、開幕戦での初回先頭打者本塁打を達成し[10]、オールスターゲームでは第3戦で北別府学からソロ本塁打を放つなどの活躍で、優秀選手賞を受賞した[11]。同年は 1964年の広瀬叔功以来NPB史上2人目となる首位打者と、盗塁王を同時獲得し[10]、前年に続いてゴールデングラブ賞も受賞など、走攻守三拍子揃った外野手として活躍。なお、同年の平和台球場における西武ライオンズ戦でレフトへの打球がワンバウンドして外野フェンスと上部の金網との間に挟まり、三塁まで到達したもののボールデッドのため二塁に戻るよう塁審から指示が出されてベース上でへたり込んだシーンがプロ野球珍プレー・好プレー大賞で取り上げられた。オフの契約更改では3,300万円増でチーム最高となる年俸9,800万円(推定)となっている[10]。 1993年は、前年苦手にしていた渡辺久信から開幕戦で猛打賞を記録する[12]など好調なスタートを切ったが、5月22日に打撃練習で右肋間筋に挫傷を負い、一軍登録を抹消された[13]。同年のオールスターゲームでは第1戦で決勝点となる本塁打を含む3安打を挙げ、好返球による補殺もあって優秀選手賞を受賞している[14]。レギュラーシーズンでは3年連続でゴールデングラブ賞とベストナインを受賞した一方、この年から本拠地になった福岡ドームの広さにチーム全体で苦しみ、佐々木も本塁打はわずか7本に終わる。 西武時代[編集] 1993年オフに秋山幸二、渡辺智男、内山智之との大型トレードで村田勝喜、橋本武広とともに西武ライオンズへ移籍し、2,200万円増の年俸1億2,000万円(推定)で契約を更改した[15]。このトレードに際しては、チームが求めている長打力のある左打者で[16]、かつ秋山と同等の守備能力を持ち[17]、年齢が若くFA権取得まで2年ある点[16]などが西武側から評価されたという。一方、佐々木は目標とする外野手である秋山とのトレードという点で驚いたが[7]、リーグ4連覇中の強豪に移籍する事を前向きに受け止めたという[18]。秋山については1年後にFA宣言して移籍する可能性も指摘されており、村田と佐々木という若い主力選手を獲得した西武側にメリットが大きいトレードだとも言われた[16]。 1994年はそれまで2番打者のレギュラーだった平野謙の退団もあり、監督の森祇晶は1番・辻発彦に続く2番を任せる構想を持っていた[7]。実際には佐々木が2番で出場したのは数試合のみで、3番打者を任されることが多く、同年のオールスターゲーム第1戦では斎藤雅樹から2ラン本塁打を放ち、優秀選手賞を受賞した[19]。前年まで9年連続30本塁打を記録していた秋山と同様に、一発長打を期待する一部のファンからの野次も受けたが[20]、俊足好打が持ち味である佐々木は自分の役割を果たすことを心がけ、自己最多の84打点を挙げて2度目の盗塁王も受賞した。同年の日本シリーズでは6試合全てに3番・中堅手として先発出場し、第1戦では2安打4打点[21]、第4戦でも3安打2打点を挙げた[22]が、チームは巨人に敗れて日本一を逃した。オフには5,000万円増の年俸2億円(推定)で契約を更改し、NPB日本人選手で5位タイの高額年俸選手となった[23]。一方、同年は初のリーグ優勝の喜びと勝利へのプレッシャーが絡み合い、複雑な思いがあったという[20]。

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松本亨の株式必勝学 – Wikipedia

『松本亨の株式必勝学』(まつもととおるのかぶしきひっしょうがく)は、1988年にイマジニアから発売された、株式投資シミュレーションゲーム。後に続編『松本亨の株式必勝学II』(1989年)も発売された。 経済評論家で株式投資に関する書籍も手がけていた、松本亨(以下松本)が本作の監修を務めた。キャラクターデザインは当時のヤングジャンプ連載漫画「かっとびハート」の作者・山科けいすけ。 松本への弟子入り条件として課せられた課題「2年間で100万円を1億円以上に増やすこと」が目的。株式だけなく、不動産・中国ファンド・定額保険・定期預金などが金融商品として登場する。株価の動きはプレイ毎に多少のズレはあるものの一定なので、プレイを重ねて動きを覚えれば容易に資産を増やすことができる。 一度ゲームをクリアすると、クリア後の特典としてタイトル画面にある「SPECIAL」が選択可能となり、日刊ゲンダイに記載された暗号を入力することで、松本からの実際の投資情報を聞くことができた。 ゲーム内容[編集] システム[編集] プレイ期間は1988年1月1週から1989年12月4週までの2年間だが、月曜から金曜までを1週間として扱い、土日及び祝日・休日の概念はない[注釈 1]。1日は8:30からスタートし、11:00から13:00までの間は昼休みのため株価は変動しない。時間は分単位のリアルタイムで進み、株式売買コマンドなどを選択している間でも時間は停止せず、16:00になるかカレンダーコマンドを選ぶと翌日に進む。現金の計算中も時間が進むため[注釈 2]、株式売買で億単位の現金移動が発生するとそれだけで1日が経過する。 プレイヤーのパラメータとしてLE(レベル)・HP(ヘルスポイント)・LP(ライフポイント)の3種があり、2週間毎のHP・LP増加量に伴いレベルがあがり、1日に取引できる回数が増えるほか様々なメリットが増える。 HP・LPが0になる、銀行・医者からの借金を弁済できない、証券会社から取引停止処分(後述)を受けるとゲームオーバーになるが、松本の力添えで1回だけコンティニューできる。 バッテリーバックアップ機能搭載でゲームデータのセーブは毎日自動で行われるが、リセット押下によるバッドイベント回避を防ぐため、セーブ画面以外で電源を切ったり、リセットを押したりすると、現金資産が半額になるペナルティが課せられる。 株式売買[編集] 松本が選んだ東証100銘柄のみで取引を行い、ジャスダックや大証などは登場しない。売買注文は画面上の株式ボードを切り替え、直接銘柄を指定する形で行われ、証券コードはゲーム中には登場しない。この他、売り板・買い板が無い、信用取引の仕組みが実際のものと異なるなど、ファミコンユーザー向けに売買システムの簡略化がなされている。 なお現物買いが約定した場合、その場で代金を全額支払わねばならず[注釈 3]代金が不足していると売買不成立となり、3回目で「信用失墜」とみなされ証券会社から取引停止を通知されゲームオーバーとなる。 現物取引 指値・成り行き2つの方法が可能。指値の場合、指定した株価になれば自動的に約定するが、成り行きの場合、プレイヤーが任意のタイミングでAボタンを押せばその株価で約定となる。(押さない限り約定しない) 信用取引 買い玉・売り玉合わせて3銘柄までしか保有できない。実際の信用取引と異なり、現金・現物株式を担保として差し出す必要がないため追証は発生しない。指値のみの注文で、注文時に指値×株数の30%を委託保証金として支払うが、注文不成立の場合、保証金は全額返還される。建て玉は6ヶ月後(指定銘柄の場合3ヶ月後)に反対売買[注釈

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