この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “シジズモンド・ディンディア” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年9月) ポータル クラシック音楽 シジズモンド・ディンディア(Sigismondo d’India, 1582年頃 – 1629年4月19日)はルネサンス音楽末期から初期バロック音楽の作曲家で、クラウディオ・モンテヴェルディの最も洗練された同時代人である。 おそらく1582年にシチリア島のパレルモにて貴族の家庭に生まれた。1600年になるまでの生い立ちについて詳しいことは分からない。 17世紀前半におそらくイタリア各地を遍歴し、いろいろな作曲家と出会い、様々な貴族の宮廷に庇護者を求めたり、地域ごとに異なる音楽様式を吸収したりした。当時は音楽史における過渡期であり、後期ルネサンス音楽のポリフォニー様式が、初期バロック音楽の多種多様な慣例に道を譲った時期であった。そしてディンディアは、どうやら比べもののないほど幅広く、イタリアにおける作曲様式の実状を完全に知り尽くしていたらしい。ルカ・マレンツィオの表情豊かなマドリガーレ様式、ヴェネツィア楽派の複合唱様式、ローマ楽派の保守的なポリフォニー様式、古典古代の音楽を復活させ、それによってより大きな表現手段であるオペラを新たに発展させようとしたフィレンツェのモノディ様式、そしてナポリのカルロ・ジェズアルドの濃密な情緒をもつ半音階によるマネリスム様式である。 ディンディアはオペラ誕生の地フィレンツェや、モンテヴェルディが仕官していたマントヴァにいたことが知られている。ナポリではおそらくジェズアルドに会っており、1610年までにパルマやピアチェンツァに滞在していた。翌1611年、サヴォイア公国に指揮者として雇われ、1623年までトリノに過ごした。この頃が最も創造力旺盛で、1600年から1610年までに聞き知り、吸収した様々な種類の音楽を融合させ、ディンディア独自の統一のとれた様式を編み出していった。 明らかに政治的陰謀のためにサヴォイアからの出国を余儀なくされると、トリノを去ってモデナに行き、後にローマにも足を運んだ。モデナで最期を迎えたらしい。晩年についての詳細もまた生い立ちと同様に乏しい。バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の宮廷に雇われたとする記録が1点残っているが、ディンディアが同地にいたという確証は存在しない。現地入りしてすぐ亡くなったのかも知れない。 作品と作風[編集]
Continue reading
Recent Comments