タバリー – Wikipedia

10世紀にタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語版を著したバルアーミーの写本の挿絵(14世紀頃) タバリー(アラビア語 الطبري al-Ṭabarī ,アラビア語ペルシア語 ابو جعفر محمد بن جرير الطبري Abū Ja‘far Muḥammad b. Jarīr al-Ṭabarī、838年 ‐ 923年)は、アッバース朝時代のバグダードで活躍したウラマーである。カスピ海南岸のタバリスターン地方(現在のマーザンダラーン州)の州都アーモルの出身。ハディース学とクルアーン解釈学(タフスィール学)で優れた業績を修めており、『諸使徒と諸王の歴史』と『クルアーン章句解釈に関する全解明』の2著作は、後世の歴史学とタフスィール学の基礎的文献として現在でも重要である。かれはシャーフィイー学派から独立してジャリール学派(タバリー学派)という独自の学派を形成したが、シャーフィイー学派やハンバル学派と対立し衰微した。 タバリーはペルシア語で、フルネームをアブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・ジャリール・アッ=タバリーと言う。ジャアファルの父、ムハンマドは預言者ムハンマド、ジャリールの息子、タバリスターン州からそれぞれ来たものである。タバリーを首祖とするジャリール学派(:en)は彼のクンヤであるこの「イブン・ジャリール」(

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クラウジオ・サントロ – Wikipedia

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はフランコ、第二姓(父方の姓)はデ・サ・サントロです。 クラウジオ・サントロ クラウジオ・フランコ・デ・サ・サントロ(Claudio Franco de Sá Santoro、1919年11月23日 – 1989年3月27日)はブラジルの作曲家。 アマゾナス州マナウス出身。リオデジャネイロで学んだ後、パリでナディア・ブーランジェに師事。1939年からリオデジャネイロ音楽院の作曲の教員となった。1951年から1953年まで放送局の音楽ディレクターを務め、1962年から1965年までブラジリア大学の教授を務めた。1970年からはマンハイム音楽・舞台芸術大学で教鞭をとった。 作品には6つのバレエ、14の交響曲、多数の管弦楽曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、2つのピアノ協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、オラトリオ、カンタータ、映画音楽などがある。 首都ブラジリアで没。 Stanley Sadie; Alison Latham (1994). The Grove Concise

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ヴィッテン・ヘァデッケ大学 – Wikipedia

ヴィッテン・ヘァデッケ大学の主要建築物 ヴィッテン・ヘァデッケ大学(ドイツ語: Universität Witten/Herdecke)は、1980年に設立、1982年に博士号や大学教授資格の授与権を持つ「総合大学(Universität)」として連邦政府の認可を受けたドイツではじめての私立大学。現在においても、私立大学としてはドイツ唯一の総合大学である。ドイツ西部のノルトライン=ヴェストファーレン州ヴィッテン市に所在する。学長は、マーティン・ブツラフ(Prof. Dr. Martin Butzlaff)。 健康学部(2010年8月に旧・医学部が看護学専攻および歯学部を統合したもの。医学科、歯学科および看護学科から成る。)、経済学部、文化省察学部(旧・教養学部)があり、2011年8月現在の学生数は1,350名、常勤の教職員数は444名(うち教授44名、その他の教員191名、事務職員209名)である。志願者には、アビトゥア資格のほか独自の入学試験が課される。入学者数(博士課程を含む)は年間約270名、学部卒業生数は年間約150名、博士号(Doktor)取得者年間約90名、教授資格(Habilitation)取得者数は年間平均9名である。なお、卒業・修了生数は、2011年8月までで2,635名である。 健康学部は、主にルドルフ・シュタイナーの考えを色濃く宿した人々により設立されたヘルデッケ病院との提携により、特徴的な医学教育を行っていることでも知られる。 予算規模は年間約2,900万ユーロで、うち州助成金が23.2%、付属歯科医院収入が15.4%、受託研究費収入が13.9%、授業料収入が13.7%、寄付金が13.4%、その他の収入が20.4%となっている。恒常的な財政難に悩まされているが、教育・研究の両面で評価が高く、例えば経済学部は2007年のフォーカス誌の全独大学ランキングで4位に入っている。 日本人卒業生[編集] 外部リンク[編集]

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片耳豚 – Wikipedia

片耳豚(かたきらうわ)は、鹿児島県奄美大島に伝わるブタの妖怪。奄美の民俗研究家・恵原義盛の著書『奄美怪異談抄』に記述がある[1]。 名前通り片耳の無いブタの姿をしており、人間がこれに股の下をくぐられると魂を抜かれて死んでしまい、かろうじて命が助かったとしても、性器を損傷して一生腑抜けになってしまうという、沖縄のマジムンに似た伝承がある[1]。 現れる場所は一定しており、中でも名瀬市(現・奄美市)の市役所付近が最も知られ、ほかにも永田川など、2、3か所の出没地があったという[1][2]。ウサギのように飛び跳ね、ウサギのように素早く動くために捕らえることはできず、濃いクレゾールのような、雄のヤギの強い匂いのような嫌な匂いがするという[3]。 ほかにも、両耳のないブタの姿をした耳無豚(みんきらうわ)が伝えられており、同様に人間の股をくぐって魂を抜き去るという。また、奄美出身の民俗学者・田畑英勝の著書『奄美物語』にも、徳之島阿布木名の、目が一つしかないムィティチゴロ(片目豚の意)の記述があり、同様に股をくぐられると死ぬといわれる妖怪とされる[3][4]。 これらの妖怪は、目や耳など体の一部が欠損したブタの姿という外見が特徴とされる。また、なぜか光を当てても影ができないので、これにより普通のブタと区別することができる[5]。もし出遭ってしまった場合、咄嗟に両脚を交差させてこれを避けると良いといい[1]、阿布木名でムイティチゴロが現れるといわれた場所では、股をくぐられないように両脚を交差しながら歩いたという[4]。また、この種の妖怪は女性の1人歩きか2人連れの前によく現れたともいわれる[1]。 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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突然死型乳頭糞線虫症 – Wikipedia

突然死型乳頭糞線虫症(とつぜんしがたにゅうとうふんせんちゅうしょう)とは乳頭糞線虫(Strongyloides papillosus)感染を原因とする子牛の感染症。1978年の鹿児島、続く1983年の宮崎県にて、毎年8-9月に同じ農場において仔牛の突然死が発生、原因不明のため、子牛のポックリ病と呼ばれていた。1986年、突然死した子牛の糞便内に多数の乳頭糞線虫卵が、そして小腸に多数の乳頭糞線虫の成虫が確認されたことから、死の原因病原体としてとして乳頭糞線虫の関与が疑われた。1990年、子牛を用いた実験的再現実験が実施され、体重100kg当たり同感染子虫100万匹以上を暴露(皮膚への接触感染)すると、暴露後10-14日後に突然死が発生することが立証され、突然死型乳頭糞線虫症 Sudden death type of Strongyloidiasisと命名された。 乳頭糞線虫の実験感染試験により、成虫の多数寄生によって突然死が再現できたことから、成虫の大量寄生が原因であるが、死のメカニズムは不明である。舎飼いで集団飼育する子牛に発生する。オガクズ牛舎での発生が特に多い。 従来の寄生虫病の概念とはことなる。前駆症状は皆無であり、元気な子牛に突然発生する。死の経過は、心臓停止が先行し、その結果として呼吸速迫、瓦解、全身の痙攣が起こり、死に至る。 乳頭糞線虫の駆虫には、ベンゾイミダゾール系薬剤、イベルメクチン系薬剤が有効であり、突然死型乳頭糞線虫症の発生予防として、子牛に応用されている。同寄生虫の濃厚感染子牛でも発症の一日前までなら突然死は防止できる。発症牛は治療の対象にならない。 定期糞便検査による乳頭糞線虫卵数、即ち糞便1gに見られる虫卵数(EPG)を経時的に調べ、多数の虫卵が認められたら、駆虫薬を投与する。発生牛房は、通風が悪いが、見た目は綺麗なオガクズ敷料である場合が多い。乳頭糞線虫卵のEPGの上昇があれば子牛群へ駆虫薬を投与する。 関連項目[編集] 参考文献[編集] 石井敏雄 『獣医寄生虫学・寄生虫病学(2)蠕虫 他』 講談社サイティフィク 1998年 ISBN 4061537172 獣医臨床寄生虫学編集委員会編、「獣医臨床寄生虫学(産業動物編)、文英堂(1995)。

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宇城広域連合 – Wikipedia

宇城広域連合(うきこういきれんごう、英:Uki wide area union confederation)は、熊本県の中央に位置する広域連合である。1998年2月1日に全国で8番目、熊本県内では最初の特別地方公共団体として発足した。 主に介護保険認定事業やふるさと市町村圏基金事業等を行っていたが、2007年4月より宇城広域消防衛生施設組合、宇土・富合清掃センター組合、宇城広域清掃施設組合、宇城広域火葬場組合及び下益城火葬場組合の5つの一部事務組合を統合し、常備消防、ごみ処理及び火葬の業務を行うこととなった。 構成自治体[編集] 変遷[編集] 現在[編集] 宇土市 宇城市 下益城郡美里町 隣接している自治体[編集] 広域連合長:守田 憲史(宇城市長) 副広域連合長:元松 茂樹(宇土市長) 副広域連合長:上田 泰弘(美里町長) 常備消防事務[編集] 以下の情報は2020年4月1日現在[1]。 組織図[編集] 消防本部

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神宮外苑花火大会 – Wikipedia

画像提供依頼:旧国立競技場、秩父宮ラグビー場、絵画館前、テニスコート、会場外の周辺地域、それぞれのアングルから見た花火の画像の画像提供をお願いします。(2015年8月) 神宮外苑花火大会(じんぐうがいえんはなびたいかい)は、毎年8月に東京・明治神宮外苑で開催される花火大会。日刊スポーツ新聞社が主催している。 大会綱要[編集] 第1回は1980年(昭和55年)8月1日に明治神宮鎮座60年記念として神宮球場で開催され、球場バックスクリーン横から打ち上げられる3000発の花火、110mのナイアガラ花火に、当日詰め掛けた多くの観客が酔いしれた[1]。以後、毎年の恒例となり、神宮球場をはじめ、国立霞ヶ丘競技場、秩父宮ラグビー場、軟式球場の4会場で開催されている。隅田川花火大会と並ぶ東京の代表的な花火大会のひとつでもある。 打ち上げ花火は、1981年(昭和56年)の第2回から(開催中止の年を挟んで)約38年間神宮第二球場から打ち上げてきた[1]。また仕掛け花火は神宮球場で披露される(レフト外野席の一部分を利用。他会場でもスクリーンで上映)。総打ち上げ数は例年約10,000発だが、節目の年(『○回記念』『日刊スポーツ創刊○周年』など)の記念大会の場合は10,000発以上になることもある。2009年(平成21年)以降は最多となる12,000発が打ち上げられている。なお2019年(令和元年)の第40回では軟式球場からの打ち上げとなり、これと入れ替わる形で第二球場が会場に加わり、これに伴う形で花火の見える位置が大幅に変更された。 毎年、4会場延べ15万人前後が来場する人気の花火大会だが、神宮外苑周辺の花火見物可能エリアを含むと100万人前後に達する。 花火大会としては珍しく都心部で行われるため、神宮外苑周辺から1km以内にある住宅やマンション、ビルなどからも観覧することが可能[注 1]。 本大会で打ち上げる花火にはそれぞれ協賛スポンサーがつく[注 2]。なお主催である日刊スポーツ提供の花火は最後に打ち上げられる。 正式名称は「日刊スポーツ主催 (西暦)神宮外苑花火大会」だが、節目の年(「○回記念」「明治神宮創建○周年」「日刊スポーツ創刊○周年」など)にはタイトルの一部分が変更される。 東日本大震災のあった2011年(平成23年、第32回)以降は被災地復興支援のチャリティー大会となり「東日本大震災復興チャリティー」をタイトルに追加、大会キャッチコピーも「日本を元気にする花火」となり、以後毎年使用している。さらに2016年(平成28年、第37回)[注 3] は熊本地震が発生したことから、同年より追加タイトルが「東日本大震災・熊本地震復興チャリティー」に改められた。なお、入場料収益の一部は東日本大震災および熊本地震の被災地に義捐金として寄贈される。 2021年東京オリンピック・パラリンピックの開催(2020年開催予定を1年延期)を控え、2014年より国立競技場が改築工事に入ったため(2019年に完成)、2015年より神宮、秩父宮、軟式球場の3会場を中心に開催してきたが、2019年のみ上述の打ち上げ場所変更に伴い、軟式球場と入れ替わりで第二球場が正式な会場となった。 初開催から40周年の節目の2020年(令和2年)は元々東京五輪・パラ大会が予定されていた関係で、当初より8月は開催しない事になっていたため、その後の開催の目途が立ち次第改めて告知する事を公式サイトにてアナウンスしていた[2] が、新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、プロ野球の試合日程が変更となった事なども関係し、2020年は最終的に開催が見送られた。また、東京五輪・パラ大会が開催された2021年(令和3年)も同様に開催はなくなり、これにより2年連続で開催されない格好となった。ただ、2022年(令和4年)以降もプロ野球の日程に加え、今後の明治神宮地区の再開発[注 4] 進捗の関係などもあり、花火大会自体の存廃も含めて動向は不明である。

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天童市立第三中学校 – Wikipedia

天童市立第三中学校(てんどうしりつ だいさんちゅうがっこう、英: Tendo Civic 3rd Junior High School)は、山形県天童市にある公立中学校。略称は天三(てんさん)、天童三中、天童市内では三中(さんちゅう)とも呼ばれている。 この節の加筆が望まれています。 天童市内の4つの小学校区(蔵増小・高擶小・寺津小・長岡小)から編成されている。天童市中心部から西へ約3㎞のところにあり、1969年(昭和44年)に開校した。 年度 男子 女子 計 2011 226 244 470 2010 227

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小学館ライトノベル大賞 – Wikipedia

回数 賞 タイトル(刊行時表題) 著者(刊行時筆名) 第1回(2006年) 大賞 愛と殺意と境界人間(マージナル) 神崎紫電 ガガガ賞 学園カゲキ! 山川進 佳作 携帯電話俺 水市恵 Re:ALIVE 〜戦争のシカタ〜 壱月龍一 期待賞 緑の闇(カラブルワールド) 香月紗江子

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分レバイパス – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “分レバイパス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年3月) 分レバイパス(わかれバイパス)は、岩手県滝沢市を通る国道4号および岩手県道16号盛岡環状線のバイパス道路である。 国道4号[編集] 県道16号[編集] 起点:滝沢市木賊川(木賊川交差点) 終点:滝沢市巣子(分れ南交差点・国道282号・国道4号との交点) 滝沢市の分レ交差点はかつて複雑な五差路で、交わるすべての道路が片側1車線だったこともあって渋滞が激しかった。 この渋滞を緩和すべく、1991年(平成3年)より現分レ交差点の南東側に分離帯付き片側2車線のバイパス工事に、さらに県道側も分レ交差点の手前西側にある急カーブを解消する片側1車線のバイパス工事にそれぞれ着手し、1993年(平成5年)に開通。分レ交差点の南側に分れ南交差点が新設され、これにより分レ交差点から渋民方面へ延びていた旧4号北半分は封鎖され、分レ交差点は単純な十字路交差点となった。同時に県道16号旧ルートは村道に格下げされ、国道282号の分岐点も分れ南交差点に変更。また、岩手県立大学の開校に合わせて、国道4号の片側2車線区間は岩手産業文化センター入口の北側まで延伸され、接続道路も拡幅された。 なお「分レ」・「分れ南」両交差点名はバス停(岩手県北バス・JRバス東北)の名称にもなっている。ただし、岩手県北バス「分レ南」停留所とJRバス東北「分レ」停留所が同位置(分れ南交差点の盛岡方)にあり、岩手県北バス「分レ」停留所は分レ交差点の西根方にある。 関連項目[編集]

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