ハインリッヒ・エルンスト・シュミット – Wikipedia

ハインリッヒ・エルンスト・シュミット(Heinrich Ernst Schmidt, Henry Ernest Schmid,1834年 – 1926年)は、米国聖公会から日本に派遣された宣教医(medical missionary)。近世日本の布教史における最初の宣教医である[1]

1859年2月、米国聖公会は、日本ミッションを開設することを決議し、中国・上海で活動していた宣教師のジョン・リギンズ、チャニング・ウィリアムズとともに、日本に医療宣教師を派遣することを決定する。

1859年11月、シュミットは日本へ派遣される医療宣教師に任命され、1860年8月に長崎に来日した[2]

シュミットは、長崎で診療所を開設して、無償で医療活動を行うとともに、地元の医師に西洋医学と英語を教えた[3]
高度な医療が評判となり、多くの患者を治療した。1000人近い患者に2回以上の診療を行っている[2]。家庭訪問で垣間見た日本の家族の生活に感銘を受けている。
疲労から体調を崩し、1861年11月に日本を離れた[4]

米国に帰国後、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ホワイトプレインズ(White Plains,Westchester County)に住み、1926年に亡くなるまで、開業医、病院の設立者、病院長、医師会会長などを務め、地元の医療の発展に力を尽くした[1]

シュミットの日本における医療活動は、有効性が認められ、その後の米国聖公会による聖バルナバ病院や聖路加国際病院の開設や、立教大学への医学部開設の動きに繋がっていくこととなった。

  • 1834年5月1日 – プロイセンの地方都市クヴェーアフルト(Querfurt)に生まれる。
  • 1846年から1851年 – ハレ市(Halle / Saale)の有名なラテン語学校で学び、プロテスタントの敬虔主義に根差した高等教育を受ける。
    1851年までに、ドイツ諸邦すべてで革命派は制圧され、若きハインリッヒ・エルンストはアメリカへの移住を決意する。
  • 1853年10月8日 – ニューヨークに到着し、入国許可を得る。
    バージニア大学で古典学の修士号を、さらにペンシルべニア大学で医師免許を取得した。在学中に米国聖公会との密接な関係を築いたとされる。
  • 1859年 – 医師免許と合衆国の国籍を取得し、米国聖公会により宣教医(medical missionary)として日本に派遣されることが決まる。
  • 1860年8月 – 長崎に来日。チャニング・ウィリアムズとともに崇福寺広徳院に滞在。診療所を開設し、医療活動と英語教育を行う。
  • 1861年7月 – ウィリアムズとシュミットは整備された東山手居留地に引っ越す[注釈 1]
  • 1861年11月 – 日本を離れる。
    米国に帰国後、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ホワイトプレインズ(White Plains,Westchester County)に住む。
  • 1926年に亡くなるまで、開業医、病院の設立者、病院長、医師会会長などを務め、地元の医療の発展に力を尽くす。

出典[編集]

注釈[編集]

  1. ^ シュミットの住む四番館に隣接する三番館には幕府の「済美館」と佐賀藩の「致遠館」で英語などを教える宣教師グイド・フルベッキが居住していた。1866年に中国・日本伝道主教に任じられたウィリアムズは五番館を借りた。