光善寺 (枚方市) – Wikipedia

光善寺(こうぜんじ)は大阪府枚方市にある真宗大谷派の寺院[1]。山号は淵埋山(えんまいざん)、本尊は阿弥陀如来[2]

河内名所図会「出口光善寺」

文明7年(1475年)、吉崎御坊を退去した蓮如は河内国茨田郡の出口村(現・枚方市出口)に移り住んだ。当時、出口はわずか9戸の寒村であったが[3]、蓮如はここに出口御坊の建立を進めるとともに3年間在住し、近畿一円の教化を進めた[4]。山号の淵埋山は当時この地にあった大きな池を埋め立てて諸堂を建立したことに由来し[5]、寺号の光善寺は出口に草庵を建てて蓮如を支えた門弟の御厨石見入道光善から取られたものとされる[2]。御坊の建立に伴って周辺には多くの門徒が移り住み寺内町が形成された[3]

文明10年(1478年)、蓮如が山科本願寺の建立のため山科に移る際に長男の順如を住職に指名[5]。順如は大津の顕証寺(現・本願寺近松別院)から当寺に移り住んで2世住職となった[6][注 1]。また、蓮如は出口御坊を近畿一円の御坊の筆頭格とした[5]

文明15年(1483年)に順如が早世すると、蓮如は外孫の光淳を次の住職とするなど浄土真宗の寺院においては重要な寺であったが、天文3年(1534年)火災によって焼失。一時、摂津国島下郡鳥飼(現・摂津市)や、河内国茨田郡大場などを転々としたのち、慶長年間(1596年 – 1615年)に再び出口に戻って再建された[5][6]。この頃に光善寺の寺号を賜るとともに院家に補されたという[6]

6世の顕勝は石山本願寺での合戦において功績があり、慶長年間に起きた本願寺分立に際しては准如に従って西本願寺の側についた[6]。7世の准勝は恵光寺5世の良超らと共に一旦は東本願寺に移ったが、間もなく西本願寺に降った[6]。8世の准玄は本堂を再建、西本願寺の学寮において能化職を務めたが[6][7]、元禄9年(1696年)に10世の寂玄が東本願寺に属して現在に至るという[6]

境内には本堂など江戸時代の建築物が複数現存しており、寺域は2010年(平成22年)4月1日、枚方市の文化財(史跡)に指定された[8]

  • 本堂 – 天明2年(1782年)に再建された21.5メートル四方の本堂は入母屋造、本瓦葺で、江戸時代後期の真宗本堂の特徴をよく示すものとされる[9]
  • 山門 – 四脚門の形式で、切妻造・本瓦葺。17世紀中頃(慶安から寛文頃)の建築と考えられている[9]
  • 脇門 – 薬医門の形式で、妻飾りや屋根の架構に特色がある。山門と同時期の建築とされる[9]
  • 太鼓楼 – 入母屋造、本瓦葺で下層板張りの二層構造。妻飾りの木連格子などは寛政頃の様式とされる[9]
  • 鐘楼 – 入母屋造、本瓦葺で一般的な鐘楼に比べて柱高が高く、屋根勾配が強い縦長の形状となっている[9]
  • 書院 – 520年余前の蓮如在住当時の姿を残しているとされる[9]
  • 庭園 – 裏庭に当たる光善寺庭園は石川丈山の手によるもの[9]

境内のサイカチは樹齢200年から250年、幹回り2.5メートル、樹高12メートルの巨木で、蓮如と龍女の伝説が残る[9]。1975年(昭和50年)3月31日に大阪府指定文化財(天然記念物)に指定された[10]

その他、建立に際して池を埋め立てるために走谷の加茂健豆美命神社の裏手から土取りをした時に出土したと伝わる石棺が境内に置かれている[9]

また、境外の南の町中には、蓮如が当時の村民らに仏法を説いた際に腰かけたと伝わる「蓮如上人腰掛石」がある[5][11]

  1. ^ 公式サイトでは初代としているが、「真宗大辞典」においては2世としており、本記事では同じ資料を基にその後の住職にも言及するためこちらで記述する。

参考文献[編集]

  • 岡村周薩 編 「真宗大辞典 第1巻」、発行人 永田宗太郎、発行所 永田文昌堂、1936年2月20日初版、1972年11月1日改訂
  • 堀由蔵 編「大日本寺院総覧 上巻」、名著刊行会、1966年12月1日
  • 全日本仏教会・寺院名鑑刊行会 編・発行「全国寺院名鑑」、1969年3月1日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]