相川春喜 – Wikipedia

相川 春喜(あいかわ はるき、1909年(明治42年)8月15日 – 1953年(昭和28年)4月29日)は、科学史家、社会運動家。本名は矢浪 久雄。第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退[1]

新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年(昭和3年)6月の学生ストライキの責任者となる。

1929年(昭和4年)、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。同年3月上京してプロレタリア文化運動に参加。同年、早稲田第一高等学院を除名される。 1930年(昭和5年)、第一ラミー紡績争議に参加。その後、産業労働調査所に就職。1932年(昭和7年)、プロレタリア科学研究所に転職。同年、唯物論研究会に参加し、研究組織部副部長に就任。1933年(昭和8年)、『日本資本主義発達史講座』に「農村経済と農業恐慌」を発表。同年、大宅壮一の媒酌でさだ夫人と結婚。

1935年(昭和10年)、『歴史科学の方法論』、『技術論』を発表。1936年(昭和11年)、コム・アカデミー事件で起訴される。1940年(昭和15年)、『現代技術論』を発表。1941年(昭和16年)、『技術論入門』を発表。1942年(昭和17年)、『産業技術』、『技術の理論と政策』を発表。1943年(昭和18年)、同盟通信社嘱託、明治大学講師に就任する。1944年(昭和19年)、日本技術文化研究所を設立。同年、召集後、関東軍のソ連国境東寧独立兵団に配属され満州へ赴く。1945年(昭和20年)、終戦時には炊事兵を務めていた。

その後、戦線逃亡し、老骨山でソ連軍に投降する。4年半シベリアに抑留される。1946年(昭和21年)、ハバロフスクの日本新聞社の日本人側編集責任者となり、ハバロフスク地方捕虜民主運動に参加する[2]。1949年(昭和24年)、帰国する。

1950年(昭和25年)、日本共産党宣伝教育部に所属し、党本部引揚対策に参加、また、「帰還者同盟」及び「帰還者の友」に参加。1952年(昭和27年)、『発明発見図説』を共著として刊行。また、雑誌「ソヴェト同盟」の仕事を手伝う。

1953年(昭和28年)、在華同胞帰国協力会の総務となる。日本共産党本部で選挙活動中に倒れ、死去。

  • 農村経済と農業恐慌(岩波書店、1933年(昭和8年))
  • 歴史科学の方法論(白揚社、1935年(昭和10年))
  • 技術論(三笠書房、1935年(昭和10年))
  • 現代技術論(三笠書房、1940年(昭和15年))
  • 技術論入門(三笠書房、1941年(昭和16年))
  • 技術の理論と政策(紀文社、1942年(昭和17年))
  • 産業技術(白揚社、1942年(昭和17年))
  • 東南亜の資源と技術(三笠書房、1943年(昭和18年))
  • 技術及び技能管理(東洋書房、1944年(昭和19年))
  • 文化映画論(霞ケ關書房、1944年(昭和19年))
  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。
  2. ^ 相川は「在ソ民主運動」と自称した。
  • 相川春喜小傳刊行会編『相川春喜小傳』1955年(昭和30年)

外部リンク[編集]