樋野和寿 – Wikipedia

樋野 和寿
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県松山市
生年月日 1951年
身長
体重
174 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • 愛媛県立松山商業高等学校
  • 明治大学
  • 日本鋼管

樋野 和寿(ひの かずひさ、1951年 – )は、愛媛県松山市生まれのアマチュア野球選手(内野手)。

来歴・人物[編集]

松山商業高校では2年生時の1968年、投の二本柱であった同期の中村哲(丸善石油)、井上明を擁し、一塁手、五番打者として夏の甲子園に出場。3回戦で三重高の上西博昭に抑えられ敗退[1]

翌1969年は遊撃手として夏の甲子園に連続出場。準々決勝では静岡商の松島英雄から大会第6号本塁打を放ち、準決勝で若狭高を降し決勝に進出した。決勝は井上と三沢高の太田幸司との投手戦となり、延長18回0-0の引き分けで終了。当時の大会規定によって、勝負は翌日の再試合に持ち込まれた。井上、太田とも再試合に先発登板、太田から1回に先制の大会第9号本塁打を放つ。井上は本調子とは言えず中村の救援を仰ぐが、4-2のスコアで優勝を飾る[1]。8月末からは井上、太田らとともに全日本高校選抜の一員としてブラジル・ペルー・アメリカ遠征に参加する。秋の長崎国体では、準決勝で静岡商に延長12回裏サヨナラ負けを喫した。その他高校同期には三塁手の谷岡潔、捕手の大森光生らがいた。

1969年のドラフト会議で阪神タイガースからドラフト6位指名を受けたが、これを拒否し井上、大森とともに明治大学へ進学[2]。東京六大学野球リーグでは1年生から遊撃手として起用され、1973年秋季リーグで優勝、ベストナイン(遊撃手)に選出される[3]。同年の第2回日米大学野球選手権大会日本代表となる[4]。リーグ通算99試合出場。95安打、打率.271、11本塁打を記録した。その他大学同期にエースの上田芳央、捕手の今久留主邦明がいる。

1973年のドラフト会議で中日ドラゴンズからドラフト5位指名を受けたがこれも拒否。1974年に日本鋼管に入社[5]、三塁手として起用される。1975年からインターコンチネンタルカップ日本代表に3回連続で選出された。前川善裕らと打の主軸となり、1976年の都市対抗に出場。準々決勝では日本鉱業佐賀関の萩野友康(新日本製鐵八幡から補強)から2点本塁打を放つ。決勝に進み、梶間健一と明大先輩の前保洋が北海道拓殖銀行を完封しチーム2度目の優勝を果たす[6]。同大会の橋戸賞を獲得し、社会人ベストナイン(三塁手)にも選出された。同年からアマチュア野球世界選手権にも2回連続出場。1978年の都市対抗でも木田勇が好投。決勝に進出するが、東芝の黒紙義弘に完封負けを喫し準優勝にとどまる[6]。同年の社会人ベストナイン(三塁手)にも選出されている。

現役引退後は社業に戻り、JFEグループのリバースチール株式会社取締役、建設・鉄鋼部長をつとめた[7]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 過去のドラフト 第5回(1969年) – ドラフト会議 : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. 2020年6月23日閲覧。
  3. ^ ベスト9 | 野球部紹介 | 明治大学野球部公式サイト”. meiji-bbc.net. 2020年6月23日閲覧。
  4. ^ 第2回 オールジャパンメンバー”. www.jubf.net. 2020年6月23日閲覧。
  5. ^ 過去のドラフト 第9回(1973年) – ドラフト会議 : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. 2020年6月23日閲覧。
  6. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  7. ^ 会員訪問記-アマチュアイズムに徹した樋野和寿氏を訪ねて」全国紫明クラブ 2012年7月

関連項目[編集]

  • 明治大学の人物一覧