平清盛 – Wikipedia

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の日本の武将・公卿。

伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。

伊勢平氏の嫡男[編集]

永久6年1月18日[注 1](1118年2月10日)、伊勢平氏の棟梁である忠盛の嫡男として生まれる。出身地は山城国京(現在の京都市)という説が有力である。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性(『中右記』によると保安元年(1120年)没)である可能性が高い。『平家物語』の語り本系の諸本は白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている(いわゆる白河院落胤説)が、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている[注 2]。また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』[2])は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している[注 3]。清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。

大治4年(1129年)正月、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任。これについて中御門宗忠は驚愕している[注 4][注 5]。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが[注 6]、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず[注 7]、令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえといわれる。

若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟であった。高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。

保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。

久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。

この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが、郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の平家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。

しかし、久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・頼盛は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、経盛・教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた。安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。

保元の乱、平治の乱[編集]

保元元年(1156年)の保元の乱では義母・池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。

信西と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗・葉室惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。

平家納経のうち、観普賢経の見返し部分

『平家納経』のうち「観普賢経」の見返し部分


平家一門の繁栄を願って発願された『平家納経』は、長寛2年(1164年)、厳島神社に奉納された。平家納経の見返しは豪華さで知られる。『観普賢経』は『法華経』の結経。
月岡芳年の武者絵。音戸の瀬戸における日招き伝説を描いている。

芳年武者旡類よしとしむしゃぶるい平相国清盛たいらしょうこくきよもり
月岡芳年が手掛けた縦大判東錦絵揃物『芳年武者旡類』の一図。1883年(明治16年)刊行の武者絵。


権勢を誇り、沈む日輪までも意のままにせんとする清盛。描かれているのは、音戸の瀬戸(1165年)の日招き伝説。

全盛期[編集]

継室の時子が二条天皇の乳母であったことから清盛は天皇の乳父として後見役となった。また時子の妹平滋子(建春門院)は後白河上皇お気に入りの寵姫であり、院との間にも強いパイプを持つこととなった。検非違使別当・中納言に昇進した上に院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。久寿2年(1155年)、時子との間に徳子(後の建礼門院)が生まれた。後の承安元年(1171年)には後白河法皇の猶子として入内することになる。

応保元年(1161年)9月、後白河上皇と滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、滋子の弟平時忠・平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して平時忠を出雲へ左遷、後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、6月には平時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。

院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院(三十三間堂)を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。

後継者の六条天皇は幼少であり、近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。

永万2年(1166年)7月26日、摂政・藤氏長者の近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・松殿基房が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は近衛家の家司藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。

仁安2年(1167年)2月、清盛は太政大臣になるが[注 8]、太政大臣は福原開拓のために、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

厳島神社の海上社殿

厳島神社 客神社祓殿
仁安3年(1168年)、清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。

仁安3年(1168年)2月7日に清盛は病に倒れ、3月に出家する。『玉葉』によると病名は「寸白(すばく)」であり、一ヶ月以上も病の床についた。寸白は中国では元来条虫症を指すが、当時の日本では様々な症状の病気が寸白と呼ばれていた。清盛に付いたのは本人の証言に基づけば絛虫(さなだむし)であった[要出典]。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願であった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。

嘉応元年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にした。『平家物語』では義弟の時忠が「この一門にあらざる者は皆人非人なり」と言ったとしており、これは「平家にあらずんば人にあらず」という慣用句で知られる。

平氏に対する不満[編集]

ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、安元2年(1176年)の建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。

治承元年(1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、藤原成親は重盛の悲願によって死罪は免れ備前国へ流罪[注 9]、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある[注 10]

治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。(近衛基実の正室は盛子であったため、基実の死後領地を所有していた。)さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。

11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。しかし、院政停止後の政権構想は拙いものであった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛・花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・四条隆季・土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。

治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政であったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになった。

反乱の狼煙[編集]

平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵であった。以仁王は優秀であったが、平氏方である建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺もこの動きに同調した。この計画は未然に発覚し、清盛の手早い対策により、検非違使で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。

しかし、寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれて平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月に一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)を臨む地への遷都を目指して、福原行幸を強行する。

しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。これに対して、清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。

この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は平安京に還都する。

12月になると、清盛は平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。清盛は背後の脅威を一掃することを決め、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺を焼き払った。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、この南都焼討では数千もの市民を犠牲とし、同地方にある大仏の殆どを焼失させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。

最期[編集]

月岡芳年の武者絵。謎の熱病で死にゆく清盛の前に閻魔大王らが立ち現れ、清盛は身をよじって苦悶する。

月岡芳年『平清盛炎焼病之図たいらのきよもりひのやまいのず[注 11][注 12]
縦大判三枚続揃[9]東錦絵。1883年(明治16年)刊行の武者絵。


原因不明の熱病に臥せった清盛は三日三晩に亘ってうなされ悶え苦しみ、重ねてきた悪行のために成仏できそうにない己の顛末を想う。そこに閻魔大王が司命・司録と閻魔卒[注 13] を引き連れて清盛の病褥に顕現し、生涯の善行と悪行を一つとて漏らさず記録してきた倶生神(※中央奥にいる閻魔の向かって右にいる女神と左奥にいる赤ら顔の男神)の報告を受けている。司命は審理の書を、司録は板塔婆を、すでに手にしている。右端で看取るのは三男・宗盛。

治承4年(1180年)末までには、平氏の勢力基盤である西国においても伊予国の河野通清・通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国の緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢国・志摩国においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった佐竹秀義などが頼朝によって討伐される。

このようななかで、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに、越後国の城資永と陸奥国の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かうことが決められていたが、清盛は27日に病に倒れ、閏2月4日、鴨川東岸にある盛国の屋敷(※後述)で死亡した。享年64。

九条兼実の日記『玉葉』では、2月27日に「禅門(清盛)頭風を病む」という記述があり、閏2月1日には早くも重態となっている。藤原定家の日記『明月記』では、その死に際して「動熱悶絶の由」という噂があったと記録されている。『百錬抄』では「日来所悩有り、身熱火の如し」であったとして、東大寺と興福寺を焼いた報いであったと記述されている。『平家物語』延慶本では、「病付き給ひける日より,水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中へ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希也。宣ふ事とては、「あたあた」と計り也。(病についた日から水も飲めないようになり、体が火のように熱くなった。病室に入った者は熱さに耐えられないので、近くによるものもなかった。清盛は「熱い熱い」というばかりであった)」とし、「「悶絶躃地して、七日と申ししに、終にあつち死にに死にけり(悶絶して7日のうちに、あっち死に[注 14]してしまった)」としている。これらの描写から、江戸時代の『誹風柳多留』初編で「清盛の医者ははだかで脈を取り」と揶揄されたように、清盛の死因は熱病であったと考えられてきた。

現代の小説家である吉川英治の『新・平家物語』では、「潜伏瘧(間欠熱、マラリア)」であるとしており、森村誠一も同様に見ている。「頭風」に着目した海音寺潮五郎や吉屋信子は脳出血ではないかとしている。一方医学界では、医学史研究家の服部敏良が風邪が原因の肺炎であるとしており、若林利光は風邪から髄膜炎を起こしたのではないかとしており、篠田達明は溶血性レンサ球菌感染症ではないかとしている。中世史家の元木泰雄は、清盛と親しかった藤原邦綱が同時期に発病して死んだことから、何らかの感染症であったのではないかとしている。

死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残したとされる。『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した[注 15]

清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政方も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。

清盛の死没地については『吾妻鏡』の記す「九条河原口盛国家」が最も重要な拠り所であり、これを根拠として、鴨川東岸にあった平盛国の屋敷であると、長らくそのように語られてきた。

しかし、平成元年(1989年)、「九条河原口盛国家」の「盛国家」は平盛国邸ではなく権大納言・藤原邦綱の父・右馬権助盛国(藤原盛国)の屋敷であるとの説を、上横手雅敬が提唱した。

次いで平成17年(2005年)、今度は高橋昌明が、鴨川東岸の平盛国邸が憲仁親王(高倉天皇)の生誕地でもあることを手掛かりに照合した結果、「九条」は「八条」の誤記であろうとの見解を表明した。八条河原口であれば、鴨川を挟んだ対岸に後白河院御所(法住寺殿御所)、西に西八条第(清盛邸。別称:八条亭)、北北東に六波羅が位置しており、また、西八条第および六波羅とはほぼ等距離にあるため、平氏の家政を預かる盛国の屋敷としては最適所と言える。

なお、『平家物語』「慈心坊」の巻6 には、清盛の葬送の夜、拍子をとって舞い踊りながらどっと笑う2、30人の声が法住寺殿のほうからしたとの記述がある。また、『百錬抄』の養和元年閏2月4日条には、より具体的に、法住寺殿の最勝光院から今様乱舞の声が聞こえてきたとある。八条河原口からはそれを確かに聴くことができるが、九条河原口では距離がありすぎてこの逸話は成立し得ない。

菊池容斎が描いた清盛の挿絵
  • 『平家物語』において、清盛は日本・中国の中でも飛び抜けた「おごれる人」「たけき事」の代表格として扱われている。冨倉徳次郎は、『平家物語』における清盛の悪行は王法への悪行と、仏法に対するものであるとしている。冨倉は王法への悪行として「殿下乗合事件」「鹿ヶ谷の陰謀における法皇と側近への処罰」「以仁王の殺害」「福原遷都」といった、旧来の王権を無視した行為を挙げている。仏法への悪行である「南都焼討」については清盛の意思ではない偶発的なものであったと描写されているが、寺社が焼けたことに対する悔いのような表現は一切ない。作中では清盛の熱病は南都の寺社を焼いた罪で熱病となったと人々が噂しており、妻時子が見た夢では、東大寺盧舎那仏像を焼いた罪により無間地獄に落ちると明言されている。清盛は死にあたっても堂や塔を建てることを望まないなど、一貫して現世のみに関心がある人物として描かれており、その遺言は「罪ふかけれ」と評されている。
  • 現在では実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものであったともいわれている。(実際、後の源頼朝や源義経など義朝の遺児を殺さずに伊豆への流罪、仏門入りで済ませたことが災いして後に平家を滅ぼすことにもなった。しかしこれは池禅尼、もしくは彼女の背後の上西門院や頼朝の母方の実家の熱田大宮司家の意向も働いていると言われている。)
    • 『十訓抄』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせた」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。
    • 清盛の非道を示す有名なエピソードである殿下乗合事件での松殿基房への報復については、『平家物語』では清盛が指示したこととされているが、『愚管抄』の記述から重盛が指示したとする説が有力であるが、異論も存在する[23]
    • 『平家物語』においても若い頃に世話になった藤原顕時の息子である葉室行隆が苦境に陥っていることを知って援助を申し出るなど、義理堅い一面が描かれている。
  • 九条兼実は『玉葉』において、南都を焼いた清盛を厳しく批判しているが、一方でその死後に天下が乱れることを憂いている。
  • 慈円は『愚管抄』において、清盛の人物像を以下の様に描写している。平治の乱前後では如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになると、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、悪評も増えていった。
  • 『源平盛衰記』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、経が島では清盛が人柱を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。
  • 政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、経が島築造に見られる公共事業の推進、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、(貴族的要素が強いとは言え)日本初の武家政権を打ち立てるなど、優れた功績も残している。松本新八郎は音戸の瀬戸を開いたという伝説や大輪田泊を築いたことから先見性のある人物であったと評している。
  • 軍記物で政治上手の戦下手と書かれることも多いが、平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており「洗練された戦法(評:元木泰雄)[どこ?]」を得意とする優秀な武将でもあったとされる。
  • 京都・奈良で大きな勢力を持ち始めていた仏教勢力の抑制に努めた。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったが、強大な武力をもつ宗教勢力が重大な政治問題に関わることを阻止した意義は無視できない。皮肉なことに、この政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていった。
能福寺の平相国廟
六波羅蜜寺の平清盛塚

六波羅蜜寺の平清盛塚

ここでは、清盛の墓所と伝えられている場所を記載する。

兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1に所在[gm 1]。清盛の薨去によって能福寺寺領内に墓所として平相国廟が造立されたといわれる[26]。現在ある平相国廟は、1980年(昭和55年)2月に執り行われた平清盛公800回大遠忌に再建されたもの[26]
  • 切戸 清盛塚 石造十三重塔 [27][28]
兵庫県神戸市兵庫区切戸町1に現存する[gm 2]、供養塔としての十三重石塔[27]。「弘安九」「二月日」の銘があり、「西大寺の叡尊が弘安8年8月14日(1285年9月14日)に兵庫で清盛の石塔供養に臨んだ」との旨の記録と関連があると考えられている[28]。そのことから、係る石塔が「清盛塚」と呼ばれた供養塔と目される[28]
京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町に所在。[gm 3]
祇王寺は、京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町に所在する大覚寺(旧・嵯峨御所大覚寺門跡)の塔頭寺院。[gm 4]
山口県下関市彦島江の浦町4-15に所在[gm 5]。寿永3年(1183年)、時の中納言・平知盛は亡き父・清盛の遺骨を携えて彦島に入り、平家最後の砦・根緒城(彦島城)の築城に取りかかり、砦と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立したとされる[29]

清盛は山城国の京都または伊勢国の産品(うぶしな)の生まれとされる。桓武天皇の孫・平高望(たかもち)の子孫で、坂東の桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏の一族。

桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-平国香-平貞盛-平維衡-平正度-平正衡-平正盛-平忠盛-平清盛

平忠盛の長男。『公卿補任』の記事から逆算すると、元永元年(1118年)の誕生となる。『中右記』保安元年(1120年)7月12日条の「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事により忠盛の妻が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房であったことがわかり、この女性が清盛の母である可能性がある。語り本系の『平家物語』は、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている(いわゆる落胤説)。しかし、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。同じ『平家物語』でも読み本系の延慶本は、清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている。また、明治26年(1893年)に発見された滋賀県・胡宮神社所蔵の『仏舎利相承系図』(文暦2年(1235年)の日付を持つ)には、清盛の母「女房」は祇園女御の妹であり、姉の祇園女御が清盛を「猶子」として白河院所有の仏舎利を清盛に伝えたことが記されている[注 16]

若一神社の清盛立像

伝清盛塚(音戸の瀬戸)(広島県呉市音戸町鰯浜1、元暦元年(1184)建立、宝筐印塔は室町時代)

平清盛公日招像(音戸瀬戸公園)(広島県呉市警固屋町、昭和42年(1967)7月建立)

平清盛像(厳島神社)(広島県廿日市市宮島町858‐2、2014年3月除幕)

清盛塚(彦島)(山口県下関市彦島江の浦町4‐15)

関連作品[編集]

作品に当たらない、日記、研究書、研究書的文献などは、「史料」「参考文献」「関連文献」のいずれかに記載する。

近世以前[編集]

ここでは、近世以前(江戸時代以前)に著された全ての関連作品のうち、特筆性の高いものを挙げる。

文芸

文芸の分野の作品で、ここに挙げるものは全て軍記物語である。

造形
国の重要文化財。鎌倉時代初頭(13世紀)[32]。像高117cm。宝物館収蔵。
寺は京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町に所在[gm 8]。境内には清盛塚(清盛の供養塔)もある (cf.)。

明治以降[編集]

ここでは、明治時代以降に著された全ての関連作品から、平清盛を主題とした創作性の高い作品に絞って記載する。

絵画
  • 月岡芳年『芳年武者旡類 平相国清盛』(よしとしむしゃぶるい たいらしょうこくきよもり)
1883年(明治16年)刊行の武者絵。■右側に画像と詳説あり。
  • 月岡芳年『平清盛炎焼病之図』(たいらのきよもりひのやまいのず)
1883年(明治16年)届出の武者絵。■右側に画像と詳説あり。
小説
映画
テレビ番組(実写ドラマ)
人形劇
アニメーション
戯曲
歌謡曲
  • 『長編歌謡浪曲 清盛天下を射る』(三波春夫)
  • 『長編歌謡浪曲 神戸を拓く清盛』(三波春夫)
漫画
ゲーム

注釈[編集]

  1. ^ 九条道家の日記『玉蘂』建暦元年3月14日条に「正月十八日」と誕生日が書かれている。
  2. ^ 佐々木八郎は、初めの頃はその中﨟女房の腹であったとして語られたのが、語られてゆくうちに祇園女御の腹であるというように変化していったのであろうと推断している[1]
  3. ^ 高橋昌明は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している[3]
  4. ^ 「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」『中右記』大治4年正月24日条。
  5. ^ 通常、武士の任官は三等官の尉から始まり、二等官の佐に任じられるのは極めて異例であった。
  6. ^ 『中右記』3月16日条。
  7. ^ 院近臣の昇進限界は大納言までとされていた。
  8. ^ これにより後世において「平大相国(へいだいしょうこく)」と尊称される。
  9. ^ 7月9日に食物を与えられず殺害される。
  10. ^ 河内祥輔は治承元年事件(鹿ケ谷の陰謀)は具体的な陰謀があったものではなく、平清盛からみて後白河法皇の延暦寺攻撃命令そのものが平家と延暦寺と争わせるだけでなく、平家を「仏敵」にして延暦寺攻撃の仏罰によって滅亡に追い込むための陰謀と解されたとする。
  11. ^ 平清盛炎焼病之図』 – 国立国会図書館デジタルコレクション。※良質な画像もあり。
  12. ^ 月岡芳年の三枚続絵『平清盛炎焼病之図』”. みんなの知識 ちょっと便利帳. 2020年5月18日閲覧。※良質な画像もあり。
  13. ^ 司命(しみょう)と司録(しろく)は、閻魔庁(えんまのちょう)の書記官。閻魔卒(えんまそつ)は、閻魔に仕えて罪人を責める獄卒。つまりは、閻魔付きの鬼。
  14. ^ 古典史研究では、悶え死にとされる
  15. ^ 『玉葉』による。
  16. ^ 高橋昌明は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している[31]
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出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]