Month: December 2017

テスケロサウルス科 – Wikipedia

テスケロサウルス科 Thescelosauridae (テスケロサウルス類)は、小型鳥盤類のクレードあるいは科の一つで、以前はヒプシロフォドン類や鳥脚類に含まれていた。 Thescelosauridae テスケロサウルス科 Orodrominae オロドロメウス亜科   Thescelosaurinae テスケロサウルス亜科     このクラドグラムは2013年のブラウンによるものである[1]。 ヒプシロフォドン類は1990年代初頭に自然分類群として解釈されていた[2][3]が、この仮説は今では支持を失っており、ヒプシロフォドン類は、イグアノドン類と近縁な様々な動物からなる側系統であったことが判明している[4][5][6][7][8]ヒプシロフォドン科やヒプシロフォドン類は、正確なクレードとしてではなく進化段階を説明するためだけの非専門的な用語として理解された方が良い。テスケロサウルスはヒプシロフォドン類の中で非常に基盤的、または非常に派生的、その両方として考察されてきた[3][6]。テスケロサウルスを分類することを潜在的に妨げている問題は、 テスケロサウルス・ネグレクトゥスとして割り当てられた化石のすべてが必ずしもその種のものであるわけではないということである[9]。 クリント・ボイド Clint Boyd らはテスケロサウルス属が別の属を含んでいることに気づき、ブゲナサウラ Bugenasaura を記載した。また、テスケロサウルス属には少なくとも3種が含まれているかもしれず、かつてネグレクトゥス種に分類されていたいくつかの標本は、まだ種として記載されていなかった[4]。それらはパルクソサウルスに近縁であると思われる[4][6][7][10][11]。 ヒプシロフォドン科の解体に伴い、テスケロサウルス科の設立が行われた。この類の恐竜の系統樹は歴史的に研究が不十分であることによって複雑化していたが、ボイドらの論文[4]とブラウンらの論文[10][11] は特にテスケロサウルス科について対応するものとなった。彼らはそれぞれ2009年と2011年に2つの互いに近縁な分類群が白亜紀のヒプシロフォドン類に含まれていることを指摘した。一つはオロドロメウスやオリクトドロメウス、ゼフィロサウルスを含むもの、もう一つはパルクソサウルスやテスケロサウルスを含むものである[4][10]。ブラウンらは2013年に、オロドロメウスを含むクレードに新たにアルベルタドロメウスを、そしてテスケロサウルスのクレードに以前はジェホロサウルス科に含まれていたアジアの新属をそれぞれ加えることにより、説を補強した[5]。

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テレビ – Wikipedia

テレビは、電気通信により、映像を遠方へと送り、テレビ受信機で再生する技術である[1]。テレビジョンの略語であり、TVと表記することもある。主に放送や遠隔監視などに利用されている。 語源・定義[編集] 「テレビジョン」は直接的にはフランス語のtélévision(テレヴィジオン())に由来する。なお、tele-(τηλε)はギリシア語の「遠く離れた」、「vision」はラテン語で「視界」「像」の意味である。 日本の電波法では「テレビジョン」は「電波を利用して、静止し、又は移動する事物の瞬間的影像を送り、又は受けるための通信設備」と定義されている[2]。また放送法ではテレビジョン放送は「静止し、又は移動する事物の瞬間的影像及びこれに伴う音声その他の音響を送る放送(文字、図形その他の影像(音声その他の音響を伴うものを含む。)又は信号を併せ送るものを含む。)」と定義されている[3]。 中国語では電信・電話に倣って電視と呼ばれる。 テレビの歴史[編集] 開発史[編集] 19世紀[編集] 20世紀[編集] 1907年 – ロシアのボリス・ロージング、ブラウン管によるテレビ受像機を考案し特許出願。 1908年 – イギリスのキャンベル・スウィントン、撮像側にも陰極線管を使った電子式走査法の概念を科学雑誌『ネイチャー』に発表。全電子式テレビジョンを示唆。 1911年 – ロシアのボリス・ロージング、世界で初めてブラウン管を用いたテレビの送受信実験を公開。撮像に機械式のニプコー円板を、受像に電子式のブラウン管をそれぞれ用いた。簡単な図形の輪郭の受像に成功。しかし実用レベルの受像に至るには撮像側の電子化が求められ、映像を電気信号に変換する撮像管の開発や、映像信号を増幅する真空管の発達を待たねばならなかった。 1923年 –

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隠蕃 – Wikipedia

隠 蕃(いん ばん、209年? – 231年)は、中国後漢末期から三国時代の魏・呉の政治家。青州の人。 隠蕃は魏の雄弁家で知られていた。黄龍2年(230年)、隠蕃は間諜として呉に投降し、孫権に上書し、「臣(私)は、紂王が無道を行ったとき、微子がまず先だって国を離れ、漢の高祖が寛大で公明な施策を行ったとき、陳平がまっ先に漢に身を寄せたと聞いております。臣は、年は22歳でございますが、みずからの領地を棄て、誘導の主君のもとに命を託さんとし、天の霊妙なご加護のもとに、つつがなく呉の国にやってまいることができたのでございます。しかし、臣が貴国にまいりましてより日数も経ったのでございますが、掛りの役人からは捕虜同然の扱いを受け、臣が単なる囚われ人ではない事についてお分かりいただいておりません。その結果、臣が申し上げたく思っております言葉や気持ちも、殿の御耳に入れることができず、胸を詰まらせ嘆息して、心の憂いの止むときがないのでございます。謹んで御門のもとに参って上章をさし上げ、お目通りを賜るようお願いする次第であります」。 孫権はこの上書を読むと、すぐに隠蕃を召し入れた。隠蕃は孫権に感謝の上言をし、孫権の質問に答えるとともに、当面の政治的問題についても論じたが、その言葉も態度もなかなかなに立派であった。 孫権はのちに隠蕃の答弁について、隠蕃との面会時にその場に居合わせていた胡綜に意見を求めた。胡綜は、「隠蕃の上書は、誇大なことを述べております点では東方朔に共通するところがあり、巧妙な詭弁は禰衡に似てますが、才能の点では両者のどちらにも及びません」と答えた。孫権は、「隠蕃にはいかなる官職が務まるであろうか?」と問うと、胡綜は、「すぐには民衆の統治にあたらせることができませんから、ひとまずはお膝元で小さな官職を与えてお試みになられるのがよろしいでしょう」と答えた。孫権は、隠蕃がさかんに司法のことを論じたことから、隠蕃を廷尉監に任じた。 隠蕃が官位を得てから、呉の大臣を離間させ謀反に導こうと計画し、ひとかどの人物たちと親交を結び、衛将軍の全琮をはじめとした多くの人物が隠蕃に心を寄せて尊重した。人々は隠蕃の屋敷に車馬を連ねて隠蕃と親交を結ぼうとし、賓客は座敷にあふれんばかりとなったという。特に左将軍朱拠と廷尉郝普は隠蕃の人物を賞賛していたという。しかし、太子中庶子羊衜と宣詔郎楊迪だけは隠蕃と付き合おうとしなかった[1]。また、潘濬は子の潘翥が隠蕃と付き合うのを知ると、大いに腹を立てて潘翥を叱りつけたという[2]。 やがて隠蕃の謀反の計画が発覚して、隠蕃は逃亡しようとして失敗し、逮捕されて陰謀に加わった仲間について尋問されたが、隠蕃は何も答えなかった。のちに孫権が隠蕃を御前に連れてこさせて聞いた。「どうして自らの肉体の苦しみを忍んでまでも、他人の庇い立てをするのか?」隠蕃は言った。「孫君よ、大丈夫が事を成さんとするとき、ともに事を計る者がいないはずがない。しかし烈士は、死んでも他人をまきぞえにしたりはせぬのだ」。そのままついに隠蕃は仲間のことについて口を割らずに死んだという[3]。 事件後、隠蕃を賞賛した朱拠は禁錮になり長い間孫権に謁見するのを禁じられ、郝普は譴責され自殺した。一方、胡綜は先見の明を評価され偏将軍に昇進し、隠蕃と付き合わなかった羊衜・楊迪・潘濬らは衆人から信服されたという。 参考文献[編集] ^ 韋昭著『呉書』 ^ 韋昭著『呉書』 ^ 『呉録』

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在日韓国民主統一連合 – Wikipedia

在日韓国民主統一連合韓統連 各種表記 ハングル: 재일한국민주통일연합한통련 漢字: 在日韓國民主統一聯合韓統聯 発音: チェイラングンミンジュトンイルリョナプ(チェイルハングンミンジュトンイルリョンハプ)ハントンニョン テンプレートを表示 在日韓国民主統一連合(ざいにちかんこくみんしゅとういつれんごう)は、「大韓民国(韓国)の民主化と祖国統一」をスローガンとする在日韓国人の運動団体。略称は韓統連(かんとうれん)。 韓国民主回復統一促進国民会議(かんこくみんしゅかいふくとういつそくしんこくみんかいぎ、略称:韓民統、かんみんとう)として発足し、1989年の組織改編により現在の形となった。本部所在地は東京都千代田区。 韓国では大法院の判決により、北朝鮮政府、及び朝鮮総連と共に「反国家団体」との判断が確定している[1]。 韓統連は、在日本大韓民国民団[2](民団)の元団員を中心メンバーとし、金大中の韓国民主化運動と反「軍部独裁」政権運動を支持・援助する事を目的に結成された。 1961年の5・16軍事クーデター後、民団では本国の朴正煕政権を支持する中央執行部(従属派)と、四月革命の完遂を目指す在日韓国青年同盟(韓青)を始めとする一部の団員(民主派)が対立していた[3]。両者の対立は1969年の3選改憲を機に激化し、大韓民国中央情報部(KCIA)の介入もあって、一部民主派団員の民団からの除名や韓青の民団からの追放(1972年7月)が行なわれた[4]。だが、それでも民主派勢力は民団内から完全に駆逐されず、1972年の南北共同宣言の発表を機に「祖国統一の推進」を名目として朝鮮総連と公に接触するようになっていった[5]。 そのような中、当時アメリカへ亡命していた金大中が、韓国国外の反体制的な韓国人を糾合する団体の設立を呼びかけた。それに対し日本では韓青や民主派の民団団員が呼応し、1973年に金大中を議長へ推戴する韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)を結成することで合意した。だが、結成1週間前の8月8日に金大中事件が発生したため、8月15日の結成宣布大会以降は在日韓国人の金載華が代表代行を務めることになった。結成後、韓民統は韓国の反維新体制運動支援(韓国国外における反韓の世論喚起)、に金大中を始めとする韓国国内の政治犯釈放運動、及びに全泰壱の紹介による等韓国の労働運動支援等を展開した。しかし1978年に韓国の裁判所から学園浸透スパイ団事件(北朝鮮によるスパイ活動)の首謀組織として認定されると、韓民統は国家保安法における「反国家団体」に指定されて[6]関係者の韓国への帰国が事実上不可能となった[7]。 粛軍クーデターと光州事件を経て全斗煥政権(第五共和国)が誕生すると、韓民統は上記の活動に加え、「自主・平和・民族大団結」をスローガンとする朝鮮統一 運動の支援、在韓米軍の対北朝鮮軍事演習に対する反戦運動・平和運動と韓国における反米活動の支援、全斗煥訪日(1983年)後の日韓関係に対する批判を行うようになり、社会主義インターナショナルとも協力するようになった。その後、1987年の民主化宣言を経て第六共和国体制が成立すると、韓国の民主化が一応は達成されたことで組織の活動内容が大きく変わるようになった。そのため、1989年に韓民統を在日韓国民主統一連合(韓統連)に改編し、在日韓国人の団体としての性格を強めたうえで、活動の主軸を韓国の民主化から朝鮮統一問題の解決へと移していった。しかし、韓国国内の統一運動支援に関連させる形で、韓統連は1990年に韓国の裁判所から国家保安法における「反国家団体」に再度指定され、[8]関係者の韓国帰国は引き続き不可能となった。 1990年代を通じ、韓国における韓統連の扱いは国家保安法に反する「犯罪集団」のままだった。だが1998年に金大中が大統領に就任すると、2003年に団体構成員の一時帰国が韓国政府から初めて認められ、構成員の合法的な韓国帰国が可能となった。その後、2004年には訪韓した団体構成員が金大中と再会し[9]、韓民統は金大中・盧武鉉の両政権時代に何度か訪韓を繰り返した。しかし、李明博政権になった2009年には韓国大使館から訪韓幹部への出頭要請や、訪韓する会員への入国時の取り調べ実施を通告されるようになった。11月19日の東京新聞によると、これは裁判所の1990年の判断を根拠に韓国政府が「韓統連は国家保安法上の捜査対象の組織」との立場を堅持しているためで、金大中、盧武鉉、政権時代に入国時の取り調べを行わなかったことを「当時の政治的判断」としているという[10]。以降、韓統連構成員の自由な訪韓は事実上不可能な状態が続いている。 活動内容[編集] 韓統連の公式ページにおける団体の主要な活動内容は、下記の通り[11][12]。 デモ[編集]

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坂田公夫 – Wikipedia

さかた きみお 坂田 公夫 生誕 (1947-01-06) 1947年1月6日 日本 死没 (2017-07-18) 2017年7月18日(70歳没) 出身校 上智大学理工学部機械工学科卒業上智大学大学院理工学研究科機械工学専攻修了 職業 宇宙航空研究開発機構(JAXA)元理事・総合技術研究本部長SKYエアロスペース研究所元所長 受賞 瑞宝小綬章日本ガスタービン学会論文賞科学技術庁長官賞日本可視化情報学会賞日本ガスタービン学会功労賞 坂田 公夫(さかた きみお、1947年1月6日

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不完全遺伝子系統仕分け – Wikipedia

不完全遺伝子系統仕分けの概念図。G0,G1が対立遺伝子を示す。 不完全遺伝子系統仕分け(ふかんぜんいでんしけいとうしわけ、Incomplete lineage sorting[1][2][3][4]またはdeep coalescence, retention of ancestral polymorphism, or trans-species polymorphism)とは、祖先集団で遺伝子多型が存在する場合に、その遺伝子が種が分岐する以前に分岐していたり、種分化の途中で多型対立遺伝子のどちらかが失われたりする現象である[5]。不完全な系統仕分けなどども呼ばれる[6]。この現象により、単一の遺伝子によって生成された系統樹は、個体群または種レベルの系統樹とは異なり、不一致な系統樹が生成されてしまう。種の系統樹の連続するノード間で保持された遺伝子多型の不完全仕分けによって引き起こされる影響は、hemiplasyと呼ばれる。メカニズムがどうであれ、結果として、生成された種レベルの系統樹は、評価に使う選択された遺伝子によって異なる可能性がある[7][8]。逆に、遺伝子によって生成された系統樹が、個体群または種レベルの系統樹と同じである現象を、「完全遺伝子系統仕分け(complete lineage sorting)」という。どちらも系統分析の一般的な結果だが、遺伝子、生物、およびサンプリング手法によって結果は異なる。 現生人類集団での例[編集] 現生人類は出アフリカ後、アラビア半島の縁を経由してイラン付近に至り、そこから南ルート(インドを経由して東南アジア、オーストラリア、オセアニアへ)、北ルート(アルタイ山脈付近を経由して北アジア、東アジア、東南アジア、オセアニア、アメリカへ)、西ルート(西アジアを経由してヨーロッパ、北アフリカへ)の3方向に拡散し、それぞれ南アジア人、オセアニア人、東ユーラシア人、西ユーラシア人を形成した[9][10]。それぞれのルートにおけるY染色体ハプログループおよびミトコンドリアDNAハプログループはその系統に関係なく3分されており、これは各人種における不完全遺伝子仕分けの顕著な例である。 移動ルート 集団 Y染色体 非出アフリカ

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信用区間 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “信用区間” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 信用区間(しんようくかん、英: Credible interval, CI)または確信区間(かくしんくかん)とは、ベイズ統計学で母集団の真値が含まれることが、かなり確信できる数値範囲のことである。例えば95%CIとは、この範囲に95%の確率で母集団の値が存在すると、確信できることを意味する。 数学的には、θ の 100(1-α)%信用区間とは、 P{C|X=x}=1−α{displaystyle P{C|X=x}=1-alpha } を満たすような部分集合C

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緋櫻陽子 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “緋櫻陽子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年10月) 緋桜 陽子(ひざくら ようこ、本名:笹川 順子)は、元宝塚歌劇団娘役。大阪府豊中市出身。宝塚時代の愛称は順ちゃん。宝塚入団時は緋櫻 耀子であった。 姉は八千草露子(本名:笹川和子)と笹舟陽子(本名:笹川雅子)。 1940年に宝塚音楽舞踊学校(現在の宝塚音楽学校)に入学する。 1943年、30期生として、宝塚歌劇団に入団。 初舞台公演演目は『太陽の子供達』。 1952年?から1953年?まで雪組副組長を務める。 1953年に宝塚歌劇団を退団。

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北海道立オホーツク流氷公園 – Wikipedia

この項目では、北海道紋別市の道立都市公園について説明しています。北海道網走市にある道立都市公園については「北海道立オホーツク公園」をご覧ください。 北海道立オホーツク流氷公園(ほっかいどうりつオホーツクりゅうひょうこうえん)は、北海道紋別市にある公園。 「試みて進化する広域公園」をコンセプトに、環境共生型の公園として住民参加による緑豊かな手作り公園を目指している。また、「流氷を望み 潮騒が聞こえる 大いなる風景 緑豊かな手作り公園」として園内をAからDの4ブロックに分けて整備している(Aブロックは紋別市管理)。公園はオホーツク海に面しており、国道238号を挟んだ向かいにはオホーツク紋別空港(紋別空港)がある。1月から3月の積雪期は4ブロックを全通した1周約5kmの歩くスキーコースが整備され、用具の無料貸し出しも行われる。 2009年(平成21年) 11月15日、あおぞら交流館など一部供用。 2010年(平成22年) 5月1日、ピクニック広場開園。 8月7日、海と大地の遊び場開園。 2011年(平成23年) 7月9日、紋別市エリアのオホーツクラベンダー畑開園。 2013年(平成25年) 7月28日、まきばの広場(丘のサロン・紋別市パークゴルフ場)開園。 9月30日、野草広場開園。 2014年(平成26年) 7月16日、はらっぱの丘・海のサロン・ふれあい苗圃園などが開園し全面供用[3]。 Aブロック(楽しみの場所)[編集] オホーツクラベンダー畑

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