Month: December 2019

青首大根 – Wikipedia

青首大根(あおくびだいこん)は、ダイコンの品種。青首系の宮重大根をベースにした一代雑種で、2013年の時点で日本国内の市場に流通する大根の90%以上を占めている[1]。 畑で栽培される青首大根。根部が地表からせり上がるため、上部に葉緑体ができて淡緑色になる。また、引き抜くのが容易である。 成長すると根の上の胚軸が地表から大きくせり上がるのが特徴で、日光が当たった表面部分には葉緑体ができて淡緑色になる[2]。このため青首大根という名称がつけられ、せり上がるため引き抜きやすく収穫が楽な点も大きな特長である[2]。 円筒形で水分が多く、根の上部は特に甘味が強く、下部はほどよい辛味があるとされる[3][4]。また、葉にはビタミンB1やC、カルシウムが多く含まれる[4]。日本では全国的に栽培され、年間を通じて市場に出回っている[3]。 1974年に、主に西日本で栽培されていた青首系の宮重大根などを基に、タキイ種苗によって耐病総太りという病気に強い品種が開発された[3][5]。 交雑のベースとなったダイコンは、以下の4系統である[6]。 宮重長太大根:青首、耐病性が強くすが入りにくい 黒葉みの早生大根:白首、暑さに強い 宮重総太大根:青首、根の止りが良い 宮重以外の雑種 1.と2.の雑種をまず固定し、3.と4.を固定したものをさらにかけ合わせた四元交配種である[6]。親品種が多いため遺伝子が多様性を持っており、形が揃いにくく均一性に欠ける短所の一方で、雑種のため生命力が強く種子が大量に採れるという長所があった[6]。また、成長に3ヶ月かかっていた在来種に対して2ヶ月で成長し、収穫適期を過ぎてもすが入りにくく、収穫時に引き抜きやすい点が生産者に評価された[6][3]。 これが現在の青首大根の始まりであり、甘くて柔らかく大きすぎない点が消費者に評価され、白首大根が主流だった東日本でもシェアを伸ばした[3]。三浦大根の生産が盛んだった三浦市でも、1979年10月に発生した大型台風20号で大きな被害を受けたのを契機に、蒔き直しが可能で栽培が容易な点などからわずか2 – 3年で青首大根が生産の主流になっている[7]。なお、耐病総太りは不揃いで箱詰めに支障を来すことから、後に新たな一代雑種が主流となった[6]。 栽培地域[編集] 近年は北海道が都道府県別の収穫量で全国1位となっており、冷涼な気候を活かして主に7 – 9月に出荷される[2]。同2位の千葉県では銚子市を中心に生産が盛んであり、10月 – 6月にかけて出荷される[2]。西日本では、徳島県産のものが11

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孫暁剛 – Wikipedia

孫 暁剛(そん しょうがん、英語: Sun Xiaogang、中国語: 孙 晓刚、1973年2月 – )は、日本の人類学者(生態人類学・人文地理学・アフリカ地域研究)。学位は博士(地域研究)(京都大学・2005年)。静岡県立大学国際関係学部准教授。 1973年2月に生まれ[1]。1998年3月筑波大学第三学群国際関係学類卒業後、筑波大学大学院環境科学研究科環境科学専攻に進学。2001年3月に修士課程を修了し、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程に進学。2005年3月に博士課程を修了。博士論文のタイトルは「Continuity and dynamics of pastoral subsistence among the Rendille in northern

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ポーリーン・ブラック – Wikipedia

ポーリーン・ブラック ポーリーン・ブラック、サンフランシスコで2005年に撮影。 基本情報 出生名 Belinda Magnus 生誕 (1953-10-23) 1953年10月23日(68歳) イングランドロンドンラムフォード ジャンル スカ、2トーン 職業 歌手、女優、著作家 担当楽器 ボーカル 活動期間 1979年 – 現在

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戸田公明 – Wikipedia

日本の政治家 戸田 公明 とだ きみあき 生年月日 (1949-05-07) 1949年5月7日(72歳) 出生地 岩手県大船渡市吉浜 出身校 東北大学工学部建築学科 所属政党 無所属 第9代 岩手県大船渡市長 当選回数 3回 在任期間 2010年12月3日

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ムゥタズィラ学派 – Wikipedia

ムゥタズィラ学派(アラビア語: المعتزلة‎、al-muʿtazilah)とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀初頭から10世紀にかけてのイスラーム世界で大きな影響力を持ち、分散して少数派となった後も思想の一部はシーア派に継承された[1]。 ムゥタズィラ学派は8世紀前半にイラクのバスラで創始された[1]。ワースィル・イブン・アター(699年 – 748年)が創始者とされているが、独自の学説が確立されたのはアブー・フザイル(751年 – 849年)の時代以降だと考えられている[1]。アッバース朝のカリフ・マアムーンが設立した知恵の館での翻訳活動などの異文化の思考法の積極的な摂取、体系的思考を求める時代を背景にムゥタズィラ学派の思想が確立された[2]。アリストテレスなどのイスラーム世界外の思考法を部分的に借用したムゥタズィラ学派は思弁による解釈を進めていった[3]。827年にマアムーンがムゥタズィラ学派が主張する「クルアーン(コーラン)創造説」を公認すると宮廷で権勢を振るうようになり、833年にミフナ(異端審問)を開いた。ムゥタズィラ学派が初期アッバース朝の保護を受けて繁栄した一因として、四代目の正統カリフ・アリーの即位に対して曖昧な立場をとったアッバース家を擁護し、ウマイヤ家を弾劾した点が挙げられている[4]。ワースィルはアリーを三代目の正統カリフ・ウスマーンより上の立場においたがアリーの至上論を認めず、4人の正統カリフに優劣を付けることを避けていた[4]。 ムゥタズィラ学派の行き過ぎた理論は批判を受け、カリフ・ムタワッキルの時代に入ると正統派知識人の勢力が盛り返した[5]。合理主義の徹底によって伝統的な世界観を揺るがすムゥタズィラ学派に対して法学の分野ではイブン・ハンバルが創始したハンバル学派、神学の分野ではかつてムゥタズィラ学派に属していたアシュアリーが創始したアシュアリー学派が現れ、ムゥタズィラ学派の思想に反駁した[6]。11世紀末に成立したホラズム・シャー朝の学者の中にムゥタズィラ学派の伝統は残っていたが、13世紀初頭のモンゴル帝国のホラズム征服の中で学統は失われた[4]。 学派の名称である「ムゥタズィラ」は他称であり、この学派に属する人間は「タウヒードとアドルの徒」を自称していた[7]。「ムゥタズィラ」は「退いた人」を意味する言葉で、創始者のワースィルが師であるハサンが属するハワーリジュ派の一派から身を退いたことに由来すると言われている[5]。ムゥタズィラ学派は大罪を犯した人間を信徒と認めないハワーリジュ派と、罪を犯しても信仰を保ちさえすれば信徒であるとするムルジア派の両極端な主張から身を退いた中間の立場をとっていた[8]。ほか、「ムゥタズィラ」を保守的な思想家から距離を置いた「離れ去った人々」の意味とする説[9]、カリフ・アリーの即位に中立的な立場をとるためだとする説もある[4]。この学派に属する人間は「ムゥタズィラ」の呼称を好み、進んで自称していたと言われている[9]。 ムゥタズィラ学派に属するグループは、バスラ、バグダードを中心に六派に分かれていたと言われる[3]。ムゥタズィラ学派の著作は正統派から禁書として扱われ、イスラーム世界の主要な文化地域からムゥタズィラ学派の著作が失われた状態が長らく続いていた[10]。このため、ムゥタズィラ学派の理論の復元を試みるイスラーム世界とヨーロッパの学者は、シャフラスターニーやイーズィーなどの著作の断片的な記述に頼っていた[10]。1929年から1930年にかけて、ヘルムート・リッターがイスタンブールで発見したアシュアリーの『イスラーム諸学派の所説』が出版されると、資料が不足していた状況が好転する[10]。1951年にサナアで発見されたアブドゥルジャッバールの『神学大全』の写本は初期・中期ムゥタズィラ学派の思想を伝える重要な資料となっている[11]。アシュアリーは同時代のムゥタズィラ学派に共通する思想として、以下の5つを挙げている[7]。 タウヒード アドル(神の正義) 天国への約束と地獄への脅し 信者と不信者の中間の立場 勧善懲悪 ムゥタズィラ学派はカラーム(議論、思弁)を取り入れた最初の神学者の一派であり[7]、イスラーム史上初めて体系的な神学論を構築した初期のムゥタズィラ学派はタウヒードを合理的な思惟で擁護した[7]。この学派に属する人間はイスラーム世界における神、人間、世界の関係を人間の視点から理性による説明を試みた[12]。理性による説明は行為の分析を介した人間の自由意志の確認が前提となっており、ムゥタズィラ学派は「行為の創造者」という自立した立場から神の合理的解釈を行った[3]。人間による行為の創造は性質が全く異なる意識的行為と無意識的行為に二分され、前者の行為について神は人間に行為を選択・実現する権利を授け、人間は様々な行為の可能性に対して正しい選択を行わなければならないとする「選択の権利」が説かれていた[13]。人間の行為の責任は当人に帰すると考えるため、最後の審判の時に預言者ムハンマドが罪を犯した信徒の罰を極力軽いものにする「執り成し(shafā’ah)」の信仰を認めていなかった[14]。 ムゥタズィラ学派の特徴として「神の属性の否定」、「クルアーン創造説」がある。正統派のウラマーが神の属性を認めていたのに対し、神が本質以外の外部の属性に依拠することはタウヒードに矛盾するとして、神の属性を認めなかった[7]。神を不可視の存在とする点で学派内の意見は一致していたが、心眼で見ることができるか否かで議論が交わされていた[15]。「クルアーン創造説」は、学派の創始者であるワースィルの弟子の中でも異端的な人間だったジャフム(? – 746年)によって提唱された[4]。ウラマーはクルアーンを「神とともに永遠の存在である神の言葉」と見なしていたのに対して、唯一の神の他に永遠の存在を認める矛盾を指摘し、クルアーンは神によって創られたものだと説いた[7]。そして、クルアーンを伝統的ハディースに頼ることなく、個人の思惟で解釈する立場を取った[16]。 ムゥタズィラ学派の説く抽象的な神の解釈は一般市民に拒絶され、スンナ派多数派から反論を受けた[7]。しかし、極端な宿命論の否定と人間の自由意志とそれに伴う責任に関する議論[7]、そして伝統に囚われない発想によって科学的進歩を導いた点[16]は高い評価を受けている。ムゥタズィラ学派の思想はアッバース朝支配下のユダヤ教徒にも影響を与え、ラビ・ユダヤ教神学形成の一翼を担った[1]。

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李春岩 – Wikipedia

李 春岩(李春巖、リ・チュナム、리춘암/イ・チュナム、이춘암)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家。本名は李範奭[注釈 1]。別名は李欽、潘海亮。 1905年12月28日、黄海道鳳山郡沙院面に生まれる。義烈団に入団し、1926年11月、中国広東省東山で開催された義烈団大会で中央執行委員候補に選出された。闘争路線に限界を感じた義烈団は大衆闘争に転換し、団員は正規の軍事教育を受けるため黄埔軍官学校に入学することに議決した。 1929年2月、黄埔軍官学校第6期歩兵科卒業[2]。 南京憲兵司令部首都郵電検査所に勤務。日中戦争が勃発し、中国政府が南京から撤退するまで首都郵電検査所将校として勤務しながら、藍衣社と義烈団の連絡、朝鮮革命軍事政治幹部学校の学生募集と応募者身元確認、南京市内の義烈団の拠点と隠れ家の運営、朝鮮革命軍事政治幹部学校訓練生の郵便物保安検査、金九など独立運動家の連絡と身辺保護、義烈団の秘密通信処の役割を果たした。 1935年4月から9月まで朝鮮革命軍事政治幹部学校第3期政治教官[5]。自らの特務工作経験、ソ連関連資料、藍衣社教官の講義資料を総合・編集した「情報学概論(情報學槪論、정보학 개론)」を作成し、教材として使用した。 1935年7月、民族革命党が結成されると、民族革命党検査局の情報工作員養成責任者となり、翌年2月に中央委員兼特務部長を務め、中国、満州、朝鮮各地に隊員を派遣して情報収集、暗殺、破壊活動を指導し、同時期に民族革命党の「特務工作要項」を作成した。 1935年9月11日、陸軍歩兵上尉[8]。 1936年3月26日、陸軍憲兵上尉[9]。 1936年5月、民族革命党華南支部組織責任者。 1937年12月、朝鮮民族戦線同盟経済部長。 1938年10月、朝鮮義勇隊の結成に参加し、1940年2月に人事主任。1941年、朝鮮義勇隊第1、3混成支隊副支隊長として部隊を率いて華北に移動。 1942年7月、朝鮮独立同盟が結成されると本部執行委員に選出された[10]。 1943年8月、朝鮮独立同盟延安支部盟員及び中央執行委員として活動。 1945年12月、帰国。 1946年8月、朝鮮労働党創立大会で中央委員に選出。以後、黄海道保安部長兼黄海道党副委員長が最後に確認された経歴であり、1950年代後半に粛清されたものと推測される。 ^ 同じく独立運動家であり、韓国国防部長官を務めた李範奭と同名である。このため独立運動関連の資料ではこの2人を混同した例がいくつか見られる。

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磯又右衛門 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年10月) 磯 又右衛門(いそ またえもん、天明6年(1786年)または文化元年(1804年) – 文久3年7月15日(1863年8月28日))とは、天神真楊流の流祖である。前名は岡本八郎治、名は正足(まさたり)である。号は柳関斎(りゅうかんさい)[1]。 正足の生年は、正足が嘉永6年(1853年)に作成した磯家『由緒書』に「磯又右衛門 丑歳五十」と記しているので、文化元年(1804年)となるが、天明6年(1786年)生まれとする説もある[1]。しかし、文化元年だと修行年数が合わなくなることや、78歳で没したという説もあり何年に生まれたのかはっきりしない。 伊勢国松坂(現三重県松阪市)で紀州藩士の家に生まれる。幼年のころから武術を好み、文政元年(1818年)に江戸に出て一柳織部義路について楊心流柔術を数年学んだ。しかし、義路の死にあい、ついで本間丈右衛門環山正遠について真之神道流を学んで奥義を極めたのち、武者修行に出て、諸藩の柔術名家と試合をしたが一度も不覚を取ることがなかった。 武者修行中のこと、近江国草津(現滋賀県草津市)に滞在して柔術を教授していたとき、たまたま人を助けるために、百余人の悪者どもと闘わなければならないことがあった。このとき、高弟西村外記之輔と二人で、多年修練の秘術を尽くしてこれを追い散らし、被害者を救った。 この闘いで、真剣勝負では真の当て身を体得していなければ、勝利を得ることが困難であることを悟り、その後はもっぱら当身の工夫を行って新しい分野を開いた。 主な弟子に近江国草津で百余人の悪者と戦ったときに磯と共闘した西村外記之輔や、他流試合で三人同時に相手にした松永清左衛門、彰義隊の今泉八郎(真蔭流)などがいる。 西村外記之輔 (にしむらげきのすけ) 寺崎認之 西鎌太郎 上田権平柳玉斎清 藤田銀八郎(柴真楊流) 富山登(柳心介冑流) 谷鹿之助 磯又一郎正光 松永清左衛門(磯正智)

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残存者たち – Wikipedia

『残存者たち』(ざんぞんしゃたち、Remmants)は、アメリカの作家フレッド・チャペルによる短編ホラー・SF小説。 2010年のアンソロジー『Cthulhu Reign』に発表された。続いて2014年に『ラヴクラフトの怪物たち』に再録され、2019年に単行本と共に邦訳された[1]。 初出アンソロジーは「クトゥルフ支配下の世界」を舞台にした作品を集めたという特徴があり[1]、邦訳単行本下巻の帯にて菊地秀行は「現在のクトゥルー神話は、オーガスト・ダーレスの意図と想像を超えた新次元へと突入してしまった」と紹介する[2]。ダーレスは旧支配者の脅威を警告し復活させまいとしたが、新世代作家は旧支配者復活後までも書くようになったのである。 収録単行本『ラヴクラフトの怪物たち』にて、怪物「古きものども」「ショゴス」を担う[3][4]。ラヴクラフトが創造した古のものが、邪悪な侵略エイリアンとして描写されている。 紹介・解説[編集] 翻訳者は「サバイバル冒険物語と往年のパルプSFを融合させた印象の、ヤングアダルト小説の味わいがある中篇。ラヴクラフトの『狂気山脈』と『超時間の影』」を踏まえたうえで、独自の解釈を加えている点も興味深い。なお、作中にある自閉症への言及は正確とは言えないが、作者に差別的な意図はないと念のため付記しておく」と解説する[1]。 東雅夫は単行本解説にて「これまた怪作として名高い『暗黒神ダゴン』で知られるフレッド・チャペルの意外な一面が堪能できる力作」と紹介し、他の作品と共に「なによりクトゥルー神話の新たな可能性を追求してやまない覇気に満ちている」と述べる[5]。 ステファン・ジミアノウィッチは単行本序文にて「地球を支配した異生物の建造物に人間が覚える「違和感」を通して、ラヴクラフトが恐怖小説には必須のものであると主張した、人知の限界を超えた異世界の感覚を伝えてくれる」と解説している[6][注 1]。 あらすじ[編集] 物語以前[編集] と呼ばれる種族がいた。彼らは凶暴な侵略エイリアンであり、占領した惑星の知的生命体を全滅するまで殺し尽くす。古代の地球にも降り立ち、クトゥルーやミ=ゴと領土を争う。1930年代にオーストラリア大陸で、多細胞生物が発生するよりも古い「10億年前」の岩石から、超古代生物の存在を示す証拠が見つかるも、その知識は地球防衛に役立つことはなかった。やがて再来したスターヘッドは、地球を占拠する。月は改造され、赤い幾何学要塞と化す。 一方、宇宙では、対スターヘッドという科学者団が生まれていた。ある星が滅ぼされたとき、同盟が救出した残存者はたったの4名であった。同盟上層部は、彼ら4人を救助要員として太陽系第三惑星に派遣する。 地上[編集] とショゴスが地上を制圧し、街の人間は殺される。逃れたごくわずかな人たちは、山中の洞窟に身を隠す。すると、自閉症者達が超感覚的な能力に覚醒するようになる。ピースリー家の3人も同様に、なんとか隠れ住んで生活していたが、あるとき何者かが長女エコーにテレパシーで地図の映像を送ってくる。長男ヴァーンは、相手の意図をいぶかしむも、全員で地図の場所に出かけることを決める。 ヴァーンたちは、滝の洞窟を出て、川沿いに山を下り、南下する。数キロ遠くからは、甲高いショゴスの鳴き声が聞こえてくるため、警戒は怠れない。山の中腹で野宿していたとき、エコーがテレパシーを受信して「光る壁」と述べる。ヴァーンは意味を考えるもわからない。 ヴァーンは侵略者たちの都市を目にし、やつらが地球惑星そのものを改造していることを理解する。都市計画どころか、地核から地表までを作り変えるつもりなのである。母さんは「こんな世界じゃ、もう生きてられない。頭がおかしくなりそう」と嘆く。 宇宙船[編集] 船は太陽系第三惑星(この星の古代語でテラという)に到着し、低温睡眠から目覚めた4人が操縦室に集まる。最年少のは、テレパスによってテラ人の能力者を中心とした小集団を発見する。四個体で、このテラ人は自閉症者と思われる。残存者たちがいる位置を特定したことで、は自分がテラに上陸して彼らを迎えに行くと言う。他の3人は危険だと言うが、は他に方法はないと断言する。

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悪魔が来りて笛を吹く – Wikipedia

この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(「あき子」の「あき」(秌))が含まれています(詳細)。 『悪魔が来りて笛を吹く』(あくまがきたりてふえをふく)は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。『宝石』に1951年11月から1953年11月まで連載された作品。単行本は1954年5月8日岩谷書店より刊行。 1954年に「第7回探偵作家クラブ賞」候補にノミネートされた[注 1]。 本作を原作とした映画2本・テレビドラマ5本・ラジオドラマ1本・舞台1作品が、2018年7月までに制作された。また、影丸穣也とJETにより漫画化されている。 探偵小説雑誌『宝石』において、1951年(昭和26年)11月から1953年(昭和28年)11月まで連載された。 大戦後の混乱の時期、『黒猫亭事件』と『夜歩く』の事件の間頃に起きた事件とみなされている。戦前まで栄華を誇った貴族の没落、さらに近親相姦というインモラルかつタブー視される性関係を濃厚に描写し、そこに生じた悲劇と愛憎劇を密に描いた作品である。帝銀事件や太宰治の『斜陽』などの要素を取り込み、横溝が得意とした田舎の因習とはまた異なった陰惨さや、本格推理小説の定番「密室殺人」を扱い、他作品とは異なった雰囲気をかもし出し、作者の人気作品のひとつとなっている。 作者は本作を「金田一もの自選ベスト10」の6位に推している[注 2]。 天銀堂事件[編集] この物語が始まるきっかけとなった事件で、1947年(昭和22年)1月15日午前10時ごろ、宝石店「天銀堂」で「保健所から伝染病予防のために来た」と称する男が、店員全員に毒薬を飲ませて殺傷し、宝石を奪ったというもの。実在の事件である帝銀事件の被害者を郊外の銀行から銀座の宝石店に変更して借用している。帝銀事件は日本で初めてモンタージュ写真を捜査のために用いたことでも知られ、この点もこの作品に取り入れられている。 横溝正史による解説[編集] 横溝正史が雑誌『宝石』の求めに応じて本作の第1稿を起したのは1951年(昭和26年)9月のことで、完結篇を書きあげたのは2年後の1953年(昭和28年)の同じ9月のことだった。「時日も20日前後のことで、稿を起した日も、書き上げた日も、ともに、秋雨のしとど降る日であったと憶えている」と振り返っている[3]。 この小説が完結するまでまる2年と1か月を要したのは、『宝石』に合併号が出たり横溝が病気休載したりしたことからで、このため連載回数は計21回とかなり長いものとなった。連載終了と同時に城昌幸編集長からは単行本化の慫慂をうけたというが、連載の長さと雑誌の都合で1回の枚数が違ってきたりしたため、テンポに狂いがありそうな気がした横溝はひとまず保留していた[3]。 しかし、一度書きあげたものに手を加えるのは容易でないことと、読みなおしてテンポにそれほど狂いがなかったので、ごく僅少の手を加えるのみで1954年(昭和29年)3月に単行本化することにした。横溝は「こんなことならもっと早く出版してもよかったのにと、いまさらながら苦笑ものである」と述懐している[3]。 横溝によると、本作のテーマの胚種が頭に芽生え始めたのは、1948年(昭和23年)8月に岡山の疎開地から成城に帰って間もないころのことだという[3]。そのころ、横溝邸を訪れた葛山二郎から、葛山が帝銀事件(同年1月26日発生)の犯人のモンタージュ写真に似ている、として容疑者として密告されて困った、という話を聞かされる。同じころ、某子爵が失踪し、その後に自殺体で発見されるという事件[注 3]があり、その子爵もやはりモンタージュ写真と似ていたため取り調べを受けたことがある、と報じられた。このことから横溝は、モンタージュ写真の人物Xと似ている人間A、同じく似ている人間Bがいたとすると、AとBも互いに似ている(A=X

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