Month: March 2020

ウィリアム・アイヴィ・ロング – Wikipedia

ウィリアム・アイヴィ・ロング (William Ivey Long (1947年8月30日-) は、アメリカ合衆国の舞台や映画の衣裳デザイナー。ブロードウェイの『プロデューサーズ』、『ヘアスプレー』、『ナイン』、『クレイジー・フォー・ユー』、『グレイ・ガーデンズ』、『ヤング・フランケンシュタイン』、『シンデレラ』、『ブロードウェイと銃弾』、『On the Twentieth Century 』などで知られる。 生い立ちおよび学歴[編集] 1947年8月30日、ノースカロライナ州ローリーにてウィンスロプ大学教授で演出家である父ウィリアム・アイヴィ・ロング・シニアと高校演劇教師、女優、脚本家である母メアリーのもとに生まれた[1]。父親はウィンスロプ大学の演劇学科の創立者であった。その後ノースカロライナ州マンテオ、サウスカロライナ州ロックヒルに転居した。 高校卒業後、ウィリアム・アンド・メアリー大学に進学して歴史を学び、夏休み中は高校時代の友人たちと共に、両親らが働くポール・グリーンの屋外演劇『ロスト・コロニー』を上演するマンテオで過ごし、1969年に卒業した。その後歴史学博士号取得のためノースカロライナ大学チャペルヒル校(UNC)に進学した。ここで客員教授ベティ・スミスと出会い、イェール大学でデザインを学ぶことを提案された。UNCを退学し、イェール大学演劇学校でデザインを学ぶことになった。ここでルームメイトのシガニー・ウィーバーの他、ウェンディ・ワッサースタイン、メリル・ストリープ、クリストファー・デュラング、ポール・ラドニックと出会った。イェール在学中、デザイナーのミン・チョー・リーのもとで学び、多大な影響を受けた。 経歴[編集] 1975年、イェール卒業後ニューヨークに転居して、ファッション・デザイナーのチャールズ・ジェイムスのもとで1978年にジェイムスが亡くなるまで無報酬の見習いとして働いた。イェール時代からの友人のカレン・シュルツはニコライ・ゴーゴリの『検察官』のブロードウェイ再演の装置デザイナーであり、ロングにこの公演で衣装デザイナーをやってみないか提案した[2]。これがロングの初ブロードウェイ作品となり、以降60以上の公演でデザインをしている。 トニー賞において14回ノミネートされ、『ナイン』、『クレイジー・フォー・ユー』、『プロデューサーズ』、『ヘアスプレー』、『グレイ・ガーデンズ』、『シンデレラ』の計6回受賞した。ドラマ・デスク・アワードにて『ヘアスプレー』、『プロデューサーズ』、『ガイズ&ドールズ』、『Lend Me a Tenor 』、『ナイン』で衣裳デザイン賞を受賞した。他に『ヤング・フランケンシュタイン』、『The

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ダニエル・チェスター・フレンチ – Wikipedia

ダニエル・チェスター・フレンチ(Daniel Chester French、1850年4月20日 – 1931年10月7日)はアメリカ合衆国の彫刻家である。ワシントンD.C.のリンカーン記念堂のエイブラハム・リンカーンの座像のデザイナーである。 ニューハンプシャー州のエクセターで生まれた。父親は法律家、判事でアメリカ合衆国財務省の副長官を務めた人物である[1]。1867年に家族とマサチューセッツ州のコンコードに移り[2]、哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンや小説家のルイーザ・メイ・オルコットが住む家の近くに住みことになり、彼らから影響を受けた。オルコット家の末娘で画家になった妹のメイ・オルコット(Abigail May Alcott Nieriker: 1840–1879)の影響を受けて、フレンチは美術の道に進んだ。 リンカーン記念堂のリンカーン像 画家のリマー(William Rimmer:1816–1879)やウィリアム・モリス・ハントに学んだ。マサチューセッツ工科大学で1年間過ごした後、数年間、イタリアに渡りフィレンツェで、マサチューセッツ出身の彫刻家、トマス・ボール(Thomas Ball)の工房で指導を受けた。 独立戦争のレキシントン・コンコードの戦いから100年になるのを記念して、コンコード市から依頼を受けて民兵(The Minute Man)の記念像を製作し、この作品は1875年に除幕式が開かれた。ワシントンDCにスタジオを開き、その後ボストン、ニューヨークに移って制作を行った。 1893年のシカゴ万国博覧会のために製作した作品「Statue of the

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ユリー・ブロンフェンブレンナー – Wikipedia

ユリー・ブロンフェンブレンナー(Urie Bronfenbrenner、1917年4月29日 – 2005年9月25日)は、ソビエト連邦出身のアメリカ合衆国の発達心理学者で[1]、子どもの発達に関する生態学的システム理論の提唱によって最もよく知られている[2]。ブロンフェンブレンナーの科学的業績と合衆国政府への貢献は、1965年のヘッド・スタート・プログラムの取り組みへの一助となった[3]。ブロンフェンブレンナーの研究と理論は、子どもの発達に及ぼされる環境や社会からの無数の影響についての関心を喚起することによって、発達心理学の観点に変化をもたらす鍵となった[3]。 ブロンフェンブレンナーは、1917年4月29日にモスクワで生まれた[1]。6歳のときに、一家でアメリカ合衆国へ移住し、最初はペンシルベニア州ピッツバーグに住み、翌年にはニューヨーク州の農村地域に定着することになった[4]。ブロンフェンブレンナーの父は、ニューヨーク州ロックランド郡のは発達障碍者の病院レッチワース・ビレッジ (Letchworth Village) で、神経病理学の専門家として病院で働いた。 ブロンフェンブレンナーは、ニューヨーク州イサカのコーネル大学に進み、1938年に心理学と音楽の学士号を得て卒業した[1]。次いで、1940年にハーバード大学で教育学の修士号を、1942年にミシガン大学で社会心理学の博士号を取得した[3]。博士号を得た翌日に、軍務に志願し、第二次世界大戦中は心理学の専門家として 軍関係の様々な組織で働いた[5]。戦後は、短期間、ワシントンD.C.に新設された復員兵臨床心理訓練プログラム (VA Clinical Psychology Training Program) の副主任臨床心理士の職に就いた[5]。次いで、ミシガン大学の助教授となり、2年後の1948年にコーネル大学助教授に転じた[5]。コーネル大学に移って以降、ブロンフェンブレンナーの研究の焦点は、もっぱら、子どもの発達とその過程における様々な社会的影響力が及ぼす衝撃に向けられるようになり、その後も終生一貫して研究上の関心が寄せられることになった[6]。 1964年から1965年にかけての頃、ブロンフェンブレンナーは、貧困層の子どもたちの発達に関する連邦委員会の一員に指名され、1965年のヘッド・スタート・プログラムの創設に一役買った[1]。 ブロンフェンブレンナーは、生涯を通して300本以上の論文と14冊の書籍を著し[3]、コーネル大学においてジェイコブ・グールド・シャーマン人間発達学講座名誉教授 (Jacob Gould

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弓恵子 – Wikipedia

ゆみ けいこ弓 恵子 本名 安藤 瑛子 別名義 光丘 ひろみ (旧・芸名) 生年月日 (1936-10-22) 1936年10月22日(85歳) 出生地 日本・東京府東京市(現:東京都世田谷区) 血液型 A型 ジャンル 女優 活動期間

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マリアンヌ・クレバッサ – Wikipedia

『シャルロッテ・ザロモン』のタイトル・ロールを歌うマリアンヌ・クレバッサ(左)。右はヨハンナ・ヴォカレク。(2014年ザルツブルク音楽祭) マリアンヌ・クレバッサ(Marianne Crebassa, 1986年 – )は、フランスのメゾソプラノ歌手[1]。 マリアンヌ・クレバッサは南仏のアグドで生まれた[2]。両親からの働きかけで音楽に興味を持ち、ピアノと歌唱を始めた[2]。セットのコンセルヴァトワール(芸術学校)に進み[1]、さらにその後、モンペリエのコンセルヴァトワールで音楽学、歌唱、ピアノを学んだ[2]。この地方のいくつかの町でコンサートをしたのち、ルネ・コーリン(フランス語版)に誘われて、2008年にモンペリエ国立歌劇場(英語版)により制作された『マンフレッド』に出演した[2]。モンペリエでラジオ・フランスが主催した音楽祭で、バーナード・ハーマン作曲のオペラ『嵐が丘(英語版)』が上演された。クレバッサは本作でイサベラ・リントン役を演じ、知名度を上げた[3]。同作中、クレバッサは舞台の上でピアノを弾きながら歌い、高い評価を得た[2]。 2010年にクレバッサはモンペリエで音楽学の分野で論文を書き、パリ国立オペラ座の、若い芸術家のためのプログラムに参加した。同プログラムにおけるスタジオ録音では主役を歌い、同プログラムの中心となる『ルル』『リゴレット』『蝶々夫人』のオペラ制作においては脇役を歌った[2]。2012年にクレバッサはザルツブルク音楽祭において演奏された演奏会形式のヘンデルの『タメルラーノ』でイレーヌを歌い、そのラスカラ座におけるステージ制作版でも繰り返しイレーヌを歌った[2]。 2014年にふたたびザルツブルク音楽祭の舞台に上がり、マルカンドレ・ダルバヴィ作曲の新作オペラ『シャルロッテ・ザロモン』のタイトル・ロールの一人(本作はタイトル・ロールの複数のペルソナを別々の役者、歌手が演じる)を演じ、歌った[4]。2011年にはオペラ・スタジオでグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』のベルリオーズ編曲版でオルフェオを歌い、2018年にオペラ・コミック座で再演もした[2]。2017年2月にシャトレ座で、オペラ・コミックが制作したオッフェンバックの『ファンタジオ(英語版)』に出演、タイトル・ロールを歌った[5]。オペラ専門誌による批評によれば「(クレバッサは)ノッポでひょろ長い肢体を半ズボンから伸ばし、愛らしくも専心的なメゾソプラノの歌声を響かせることで、赤貧の学生の肖像を描いてみせた」が、ディクションに関して多少の難があったという[6]。 『ファンタジオ』でタイトル・ロールを歌うクレバッサ(中央)。 クレバッサはモーツァルト作品に積極的に取り組み、ザルツブルクとミラノでは『ルーチョ・シッラ(英語版)』のチェチリオ役を、ザルツブルクとパリでは『皇帝ティートの慈悲』のセスト役を、ベルリン、ウィーン、ニューヨーク、アムステルダムでは『フィガロの結婚』のケルビーノ役を、シカゴでは『コジ・ファン・トゥッテ』のドラベッラ役を歌った[2]。 クレバッサのアメリカ合衆国でのデビューは2015年5月、シカゴ交響楽団との共演である[7]。 アメリカでの舞台デビューは2016年2月のシカゴ・リリック・ペラとの共演で、グノーの『ロメオとジュリエット』でステファーノ役を演じたときである[8]。2017年8月にはBBCプロムスでラヴェルの管弦楽伴奏歌曲集『シェヘラザード』を歌い、プロムス・デビューをした[9]。2018年にはダニエル・バレンボイムの誘いに応じてメリザンドを歌ったが、このときの感想を「私の全人生を歌ったかのように感じた」と語り、自分の歌声の新しい一面を見つけ、歌詞をより深く味わうようになったと述べた[2]。 エラート・レーベルから2017年に出したアルバム、Oh Boy! は、クレバッサの初ソロ・アルバムであり、彼女のズボン役の歌唱を集めたものである[3] 。2枚目のソロ・アルバムは、ドビュッシーやフォーレの歌曲に加えファジル・サイ作曲の Gezi Park 3

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鹿児島県立鴨池陸上競技場 – Wikipedia

鴨池公園 > 鹿児島県立鴨池陸上競技場 鹿児島県立鴨池陸上競技場(かごしまけんりつ かもいけりくじょうきょうぎじょう)は、鹿児島県鹿児島市の鴨池公園内にある陸上競技場。球技場としても使用される。鹿児島県教育庁所管の「鹿児島県総合体育センター」施設の一つ[2] で、セイカ・ユナイテッドグループが指定管理者として運営管理を行っている。 2018年4月1日より鹿児島県枕崎市に本社を置く酒造メーカー・薩摩酒造が命名権を取得し、「白波スタジアム」(しらなみスタジアム、略称:白波スタ)の呼称を用いている(詳細は後述)。 1972年に開催された第27回国民体育大会(太陽国体)の会場として使用することを念頭に1970年12月に完成した陸上競技場である。 1994年にナイター照明設備、翌1995年にバックスタンドを新設した。また、2023年に開催される特別国体に向けて2014年8月1日から断続的に改修工事が行われている[3]。 施設概要[編集] 開催された主なイベント・大会[編集] 陸上競技[編集] この節の加筆が望まれています。 サッカー[編集] ラグビー[編集] その他[編集] 北側芝スタンドから撮影した鹿児島県立鴨池陸上競技場のパノラマ。画像の向かって左側がバックスタンド、右側がメインスタンド、中央部分が南側芝スタンドである。照明は鉄塔式の設備を有する他、メインスタンドにも屋根と一体型の照明を設置している。 施設命名権[編集] 2017年8月に、鹿児島県が鹿児島県立鴨池野球場・かごしま県民交流センターと共に施設命名権を公募[6]。2018年1月、鹿児島県枕崎市に本社を置く酒造メーカー・薩摩酒造が命名権を取得し、呼称が同社の製造する芋焼酎「さつま白波」に因み「白波スタジアム」となることが発表された[7]。契約期間は2018年4月1日から3年間。契約額は年間864万円(税込)と報道されている[7]。Jリーグにおいては略称を「白波スタ」としている[8]。 ギャラリー[編集] サッカー公式戦開催時の鹿児島県立鴨池陸上競技場(2014年5月)

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マーガレット・サラヴァン – Wikipedia

マーガレット・サラヴァン(Margaret Sullavan、1909年5月16日 – 1960年1月1日)は、アメリカ合衆国の女優。 ヴァージニア州ノーフォーク生まれ。父は株式仲買人で、裕福な家庭に育った。高校の卒業式で学生代表として演説を行うなど学業優秀だったが、両親の反対を押し切り女優を目指す。 1931年にブロードウェイにデビュー。2年後「晩餐八時」に代役で出演していた時、その芝居を見ていた映画監督ジョン・M・スタールにスカウトされ、同年「昨日」で映画デビュー。舞台活動の方を重視していたため映画出演作は少ないが、演技力は高く評価されており、「三人の仲間」(1938年)でニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞を受賞し、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。 ジェームス・ステュアートと「結婚設計図」(1936年)「The Shopworn Angel」(1938年)「桃色の店」「The Mortal Storm」(1940年)と計4本の共演作がある。 私生活では、アマチュア演劇時代の仲間だったヘンリー・フォンダと1931年に結婚するがわずか2か月で別居し、2年後に離婚。翌年「お人好しの仙女」(1935年)で監督を務めたウィリアム・ワイラーと再婚するも、2年間しか続かなかった。その後プロデューサーのリーランド・ヘイワードと結婚、3人の子供を儲けている。なおフォンダとは離婚後に「月は我が家」(1936年)で共演している。 1943年の「Cry‟Havoc”」以降は映画から遠ざかり、最後の出演は「No Sad Songs for Me」(1950年)。50年代以降、難聴と神経衰弱の症状に苦しんだ。難聴は先天性のものだったが、サラヴァンはずっと周囲に隠していたという。またサラヴァンが映画出演を辞めた理由は子供たちと過ごす時間を増やすためでもあったが、次女と長男との関係は上手くいかず、そのことも彼女の精神状態を悪化させる一因となった。 1960年1月1日、サラヴァンはコネチカット州ニューヘイブンのホテルの部屋で、意識不明の状態で発見された。病院に運ばれたが、到着後に死亡が確認された。ケネス・アンガー著「ハリウッド・バビロン」の中では自殺として紹介しているが遺書は発見されておらず、検死報告では薬物の摂取量を誤ったことによる事故死となっている。 長女のブルック・ヘイワードは1977年に自叙伝「Haywire」で家族の物語を赤裸々に描きベストセラーとなった。1980年にCBSでドラマ化され、リー・レミックがサラヴァン役、ジェイスン・ロバーズがリーランド・ヘイワード役を演じた。 出演作品[編集]

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マーベラス (企業) – Wikipedia

株式会社マーベラス(英: Marvelous Inc.[4])は、東京都品川区東品川に本社を置く、オンラインゲーム・ゲームソフトの企画・制作・販売を主な事業内容とする日本の企業。アニメやコミック等の知的財産権を活用した幅広いコンテンツの創出・制作を得意としている。東京証券取引所プライム市場上場企業。JPX日経中小型株指数の構成銘柄の一つ[5]。 1997年6月25日、セガのキャラクター部で商品化獲得営業をしていた中山晴喜がキャラクター資産を活用したビジネスを行う目的で株式会社マーベラスエンターテイメントを設立。 2011年10月1日、元セガ代表取締役社長である中山隼雄が設立したAQインタラクティブ(旧キャビア)とライブウェアの2社を吸収合併し、商号を株式会社マーベラスAQL(マーベラスエーキューエル)に変更[6]。 2014年7月1日、社名を現社名である株式会社マーベラスに変更[7]。『「驚き」と「感動」を世界に届ける新しいエンターテイメントの創造』を企業理念としている。 1997年 1998年10月 – テレビアニメのビデオソフトを発売し映像事業に進出。 1999年 8月 – 業務用ゲームソフトの販売を開始し、ゲームソフト事業を開始。 11月 – 家庭用ゲームソフトの発売を開始。コンシューマゲーム事業へ進出。 2000年 3月 –

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消防組合 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “消防組合” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年1月) 消防組合(しょうぼうくみあい)は、日本において、複数の市町村が共同で消防事務を行うために設置する一部事務組合の名称の一つ。また、消防事務を行う一部事務組合および広域連合の総称としても用いられる。消防事務のみを行う一部事務組合の多くが消防組合を称しており、消防事務組合、消防一部事務組合などを称するものもあるが、消防だけでなくゴミ処理など複数の事務を行う一部事務組合ではその名称に「消防」の文字を含まないことが多い。本項では、消防組合と称する称しないにかかわらず、消防事務の共同処理を行う一部事務組合や広域連合について、概説する。 消防は、住民の安全を確保するための最も基礎的な地方自治行政分野であるが、業務内容の特殊性もあり、消防組織の維持・充実には多額の費用を要することとなる(消防費は市町村一般歳出額の約3%を占める)。 そのため、小規模な町村においては単独で常備消防(消防本部)を設置することが困難であり、近隣市町村間で消防事務を共同処理するため、地方自治法上に規定される一部事務組合を組織することが頻繁に見られる。また、1995年(平成7年)に地方自治法に新たに規定された広域連合により消防事務を共同処理する例も、数は少ないが存在する。 消防組合の多くは、消防常備化が進展した1970年代前半(昭和40年代後半)に誕生した。消防は、地方自治行政において、最も早い時期に広域行政が実現した分野であり、広域地方行政の優等生とも評された。 しかし、平成期に一気に進んだ市町村合併の枠組みと、従前から存在した消防組合の管轄区域が整合しない例も散見され、消防行政上の新たな問題となっている。また、一部の地域では、市町村合併の枠組みに加わらない自治体に対して、消防事務の共同処理の解消を突きつける事例(いわば消防を人質に取るような事例)も発生しており、住民の安全を守るという消防の持つ重要な役割が軽視されがちな風潮が広がりつつあり、識者の懸念を招いている。 平成期の市町村合併により消防組合の構成市町村が合併して一つの市町になったため、消防組合から単独市(町)消防へ移行する事例もあるが、総務省消防庁では消防力の強化のために消防本部を統合する消防広域化を推進しており[1]、全県を3つの消防組合に再編した鳥取県や、奈良県のうち奈良市・生駒市を除いた全域をカバーする奈良県広域消防組合などのような例も見られる[2]。 関連項目[編集]

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