Month: July 2020

太鼓の達人 – Wikipedia

『太鼓の達人』(たいこのたつじん)は、ナムコ(現:バンダイナムコアミューズメント)により開発され、2001年2月21日稼働を開始した音楽ゲーム(公称「バラエティお祭りゲーム」)。 システム アーケード (AC) 筐体は中央のディスプレイ・その手前の太鼓を模した入力デバイス2つ・各々の太鼓の下にあるバチ袋(『太鼓の達人10』以前は太鼓と太鼓の間)に入っている合計4本のバチから構成される。プレイヤーはどちらか片方の太鼓の前に立ち、バチを2本持ってゲームを行う。バチで叩く位置は、太鼓の面とふちの2つだけで、スピーカから流れる楽曲と画面の指示に合わせて、リズミカルに太鼓を叩いてプレイする。2つの太鼓と4本のバチを使うことで2人プレイも可能である。この場合は1Pが左側の太鼓でレーンが上段、2Pが右側の太鼓でレーンが下段となる。 家庭用では太鼓型専用コントローラーとして『タタコン』(PS2版)、『太鼓とバチ』(Wii版・Wii U版・PS4版・Nintendo Switch版)が販売されており、PS2版の一部ソフトを除いて同梱版も販売された。なお、PSP、Vita、DS、3DS版の専用コントローラーは販売されていないが、DS、3DS版においては、バチペンと呼ばれるDS、3DS本体に付随しているものよりも太いタッチペンが2本付録としてついており、それを使って遊べる。 演奏中は画面下部に「踊り子」と呼ばれるキャラクターがおり、指示通りに叩くことで蓄積される「魂ゲージ」が溜まると増加する。通常は本作のキャラクターであるが、曲によって他作品のキャラクターが出てくることもある。 譜面 画面の右から左へ流れてくる音符(後述)が判定枠に重なったタイミングで太鼓の面やふちを叩く。判定枠にぴったり合えば「良」、僅かにずれていれば「可」、大きくずれていれば「不可」と表示される。ミスなく叩く事でコンボとなり、コンボ数は判定枠の左側に表示される(連打系の音符はコンボ数に含まれない)。 演奏終了時にゲージが右側の黄色い部分に達していればクリアとなる。ゲージ増減は達成率だけではなくとった数も評価対象であり、上のコースほど厳しくなる。連打系を除く全ての音符をノーミスで叩く事が出来れば「フルコンボ!」、フルコンボ且つ良判定で叩く事が出来れば「ドンダフルコンボ!!」(ニジイロVer.以降)となる。 また、新筐体(ソライロver以降の筐体)など一部の筐体では複数人プレイで別々の難易度にすることが可能である。 音符 譜面上に流れる音符は基本的に、面をたたく「ドン」(赤色)と、ふちをたたく「カッ」(水色)、面かふちを連打する「連打」(黄色)の3種類がある(連打は一部の作品を除いてゲージに影響しない)。 これらの音符には大きいものがあり、AC版では強く叩く、家庭用では両面を同時に叩く、DSのタッチパネルでの操作は特定の位置をタッチすることにより、大音符として判定される。AC版では叩き方が弱かったり、家庭用では片面のみ叩く行為は通常音符扱いになる。また、2人プレイの時はこれに加え、両プレイヤーが同時に面を強く叩く「手つなぎ音符」がある。 このほかにも、一定時間内に指定された回数分の面を叩く「ゲキ連打(風船)」(『3』以降で登場、新筐体版からは「ふうせん」と改名)などが存在する(クリアゲージには影響しない)。 難易度 アーケード版の第1作目では「かんたん」「ふつう」「むずかしい」の3種類の難易度があり、『2』ではこれらよりもさらに高い難易度の「ドンだフル!」が追加された。なお、家庭用の1作目では名称が「おに」となり、アーケード版も『7』から「おに」(亞洲版では「魔王」、『DRUM MASTER』では「Oni」)に変更された。

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ゴーン・ガール – Wikipedia

『ゴーン・ガール』(GONE GIRL)は、2014年公開のアメリカ合衆国のミステリー映画である。監督はデヴィッド・フィンチャーが務め、ベン・アフレック、ロザムンド・パイク、ニール・パトリック・ハリス、タイラー・ペリー、キャリー・クーン、キム・ディケンズらが出演している。 原作は2012年発表のギリアン・フリンによる同名の小説で、フリンは脚本も担当している。2014年9月26日に第52回ニューヨーク映画祭でワールド・プレミア上映された。10月3日にアメリカほか各地で一斉に公開され、日本では約2ヶ月後の12月12日に公開された。 ストーリー[編集] 5回目の結婚記念日の朝、毎年恒例となった妻エイミーの宝探しクイズが解けないでいたニック・ダンは、双子の妹マーゴの店から自宅に帰ったところで妻が失踪していることに気付く。彼女は幼少期から父親の書いた児童文学シリーズのモデルとして有名であり、状況を知った警察は即座に失踪事件として捜査を開始する。ニックもエイミーの両親とともに捜索の協力を呼びかける活動を行うが、メディアの扱いはまるでニックが犯人であるかのようだった。 一方、回想シーンではエイミーの視点から幸せだった結婚生活が崩壊していく様子が、彼女の日記を引用しつつ描かれていく。夫妻は不況の影響で仕事を失い、がんを患ったニックの母親のために夫の地元、片田舎のミズーリへ引っ越すことにもなった。母が亡くなった後もニックは地元から離れる気はなく、妻に出資させてマーゴとバーの経営を始めるが、やがて地元の短大で講師の職に就く。 地元警察の刑事ロンダ・ボニーは捜査を進めるうちに、ニックが妻の日常を知らなかったこと、夫妻には金銭的問題や家庭内暴力があったこと、エイミーが銃を求めていたことを示す証拠を見つけていく。さらには、台所の床から大量の血液を拭き取った痕跡が出てくるなど、証拠はすべてニックに不利なものばかりだった。ニックへの疑いが深まる中、ボニー刑事はエイミーの書いていた日記を見つける。 だが、エイミーは実は生きており、殺されたように見せかけたのはニックの浮気を知った彼女の復讐だった。夫に知られぬよう近所の妊婦と仲良くなると彼女の尿を使って妊娠を偽装し、ニックに疑いが向くような証拠や日記を用意するなど、計画を緻密に練り、時間をかけて準備していたのだ。失踪当日、自宅を事件現場であるかのように偽装したエイミーは購入しておいた車で町を離れ、外見を変えるとモーテルでの生活を始める。 エイミーのクイズを解いたニックはエイミーに嵌(は)められたことを知り、彼女の目的が自分を死刑にすることだと気付く。夫が妻を殺害したケースを専門とする弁護士タナー・ボルトに連絡を取り、自らの無罪を証明するため彼女への反撃材料を探し始める。調べてみるとエイミーには以前、思い通りにならない男を嵌めて犯罪者に仕立て上げた過去があった。しかし状況を打開するには至らず、タナー弁護士はニックがテレビに出演して浮気を告白し、反省の態度を示すことを提案する。 失踪から数日、エイミーは偽名を使って生活しニックの死刑を待っていたが、些細なミスから生活資金を奪われてしまう。残った荷物を積んで車を走らせるが行く当てもなく、以前交際していたデジー・コリングスに助けを求める。デジーはニックに殺されないために逃げたと語るエイミーを信じ、自分の別荘に匿(かくま)うことにする。 悪い印象を変えるべくニックがテレビ番組に出演しようとした矢先、浮気相手であるアンディがエイミーの両親とともに記者会見を開いて不倫を告白し、しおらしく反省する様子が放送される。タナー弁護士とマーゴは頭を抱えるが、ニックは覚悟を決めてテレビ番組のインタビューを受ける。自身の過ちを認め、夫として完璧でなかったことを謝罪し、エイミーに家に帰ってきてほしいと訴えるニックの姿が放送されると、すぐさま世間の印象が変わり始める。 放送を見たエイミーにもニックへの想いが再び芽生えていた。デジーは献身的だが独り善がりで束縛的な一面もあり、辟(へき)易としていたエイミーはレイプされたかのような証拠を捏(ねつ)造すると、帰ってきたデジーを誘惑。性行為中にカッターで彼の首を掻(か)っ切って殺害してしまう。 失踪から30日後、テレビ局のスタッフが張り込む自宅に血塗(まみ)れのエイミーが帰ってきた。運ばれた病院でエイミーは警察からの聴取に対し、デジーに誘拐されレイプされたと主張する。彼女を疑うボニー刑事は証拠との矛盾について質問するが、上手く躱(かわ)されてしまう。 エミリーとともに自宅に戻ったニックが彼女に詰め寄ると、本性を現したエイミーは殺人を悪びれる様子もなく自身を正当化し、ニックがテレビ番組で見せた「妻の帰宅を嘆願する夫」こそが理想であり、これからも理想の夫であり続けることを要求する。ニックはそれを拒絶し、いずれ家を出て行くと宣言する。 世間は無事に生還したエイミーを持て囃(はや)し、FBIも捜査を終えてしまったが、ニックは彼女の真実を暴露することを諦めていなかった。自宅でテレビ番組のインタビューを受ける際に暴露を決行するつもりだったが、インタビュー直前にエイミーから妊娠したことを告白される。ニックが破棄されたと思っていた精子バンクのニックの精子は、実は破棄されていなかったのだ。怒りのあまり壁に彼女の頭を打ち付けるニックだが、理想を追求するエイミーの凄みに気圧(けお)されてしまう。 インタビューを終えたニックはマーゴの家に向かい、子供が成人するまではエイミーと人生を共にすることを打ち明ける。マーゴは彼の身を案じ泣いて反対するが、ニックは子供に対する責任感から覚悟を決めていた。 放送されたテレビ番組には、困難を乗り越えて通じ合い、懐妊を喜ぶ夫妻の姿が映し出されていた。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替 バーの経営者。

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国鉄タサ5200形貨車 – Wikipedia

国鉄タサ5200形貨車(こくてつタサ5200がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 本形式は、酢酸専用の20t 積タンク車として1960年(昭和35年)1月22日から1965年(昭和40年)12月4日にかけて3ロット5両(コタサ5200 – コタサ5204)が、日立製作所、富士重工業の2社で製作された。 落成時の所有者は、昭和電工、電気化学工業の2社であり、夫々の常備駅は、磐越西線の鹿瀬駅、北陸本線の青海駅であった。 昭和電工所有車2両(コタサ5200 – コタサ5201)は、1966年(昭和41年)1月25日に徳山石油化学へ名義変更された。 電気化学工業所有車の内2両(コタサ5202 – コタサ5203)は、1973年(昭和48年)3月17日にチッソへ名義変更され、常備駅は水俣駅へ移動した。 記号番号表記は、特殊標記符号「コ」(全長 12 m 以下)を冠し、「コタサ」と標記された。 タンク体材質は、全車ステンレス鋼製であり外板(キセ)、加熱管を装備し、荷役方式は全車ともマンホールからの上入れ、空気管と液出管を用いた空気圧による上出し方式である。 1979年(昭和54年)10月より化成品分類番号「燃侵38」(燃焼性の物質、侵食性の物質、引火性液体、腐食性のあるもの)が標記された。 全長は8,900mm –

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ミカエラ・オーリン=コツリンスキー – Wikipedia

ミカエラ・オーリン=コツリンスキー (2015年) ミカエラ・オーリン=コツリンスキー(Mikaela Åhlin-Kottulinsky, 1992年11月13日 ‐ )は、スウェーデンの女性レーシングドライバー。同国のカールスタード出身。祖父はダカールラリー1980年チャンピオンのフレディ・コツリンスキー[1]。 この節は更新が必要とされています。この節には古い情報が掲載されています。編集の際に新しい情報を記事に反映させてください。反映後、このタグは除去してください。(2022年3月) 12歳のときにカートレースを始め、2012年からフォルクスワーゲン・シロッコカップやポルシェ・カレラカップスカンジナビア等のツーリングカーレースに参戦。シロッコカップでは、2014年に初優勝を遂げている。 その後もアウディ・スポーツTTカップに参戦し、2017年からスカンジナビアツーリングカー選手権にアウディより参戦[2]。この年には参戦初年度だったこともあって苦戦を強いられものの、翌2018年にはセアトへ移籍してカールスコーガでの第2レースで初優勝を飾り、最終ランキング10位となった。2019年度にも開幕戦で優勝したほか、2位1回、3位を4回獲得。ランキング6位となっており、セアト勢ではチャンピオンを獲得したロバート・ダールグレンに次ぐ好成績を収めた。2020年にも引き続きセアトからエントリーする予定。 スカンジナビアツーリングカー選手権[編集] 年 チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7

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瀬戸虎記 – Wikipedia

瀬戸虎記 瀬戸虎記 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日) – 1920年(大正9年)2月9日[1])は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現高知市鷹匠町)で、土佐藩士・瀬戸直道の長男として生まれる[1][2]。追手筋尋常小学校を経て、1888年7月、高知尋常中学校を卒業。その後、第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年、帝国大学理科大学物理学科を卒業[1]。 その後、岩手県立盛岡中学校教諭、東京高等師範学校教授、第六高等学校教授、長崎高等商業学校教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官などを歴任[1][3]。1913年4月、第一高等学校長に就任し、1919年、病のため休職[1][2]。療養中に死去した[2]。 その他、臨時教育会議委員などを務めた[3]。 ^ a b c d e 『高知県人名事典 新版』410-411頁。 ^ a

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コート・オブ・ザ・ロード・リヨン – Wikipedia

コート・オブ・ザ・ロード・リヨン(Court of the Lord Lyon、リヨン裁判所とも)はスコットランドの紋章をつかさどる、認可機関の機能を持った裁判所である。スコットランドで認可されたすべての紋章の一覧簿(Public Register of All Arms and Bearings in Scotland)や、系図の記録を保有・管理している。 リヨン裁判所は公的機関であり、認可手数料などは大蔵省に対して支払われる。長官はロード・リヨン・キング・オブ・アームスであり、紋章についての刑事裁判権を持つため法曹資格の保持者でなければならない。リヨン裁判所はスコットランドの司法システムに組み込まれており、専属の検察官が存在する。 イングランド、ウェールズ、北アイルランドにおいては、紋章の認可機関としては紋章院、紋章を管轄する裁判所としてはハイ・コート・オブ・シバリー(英語: High Court of Chivalry)がこれに相当する。 紋章・系図の認可[編集]

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塩坪橋 – Wikipedia

塩坪橋 画像をアップロード 基本情報 国 日本 所在地 福島県喜多方市 交差物件 阿賀川 用途 道路橋 路線名 福島県道340号上郷舟渡線 管理者 福島県喜多方建設事務所 施工者 ピーエス三菱・川田工業JV 竣工 2005年(平成17年)2月 開通

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ンクウェバサウルス – Wikipedia

ンクウェバサウルス Nqwebasaurusは後期ジュラ紀チトニアンから前期白亜紀バランジニアンに生息していた恐竜の属の一つに与えられた学名である。 基盤的なオルニトミモサウルス類である。化石は南アフリカ共和国のカークウッド累層で発見された。その場所は原住民であるコーサ族の言葉で Nqweba(頭文字のNは舌打ち音を表す)と呼ばれている。その標本は学名が与えられる前は地層にちなんでカーキー(”Kirky”)の愛称で呼ばれていた[1]。ンクウェバサウルスはゴンドワナ大陸で見つかった既知のコエルロサウルス類の中で最古のもので、北アフリカから発見されている他の種類のものより5000万年古い。アフリカで発見・命名されたコエルロサウルス類としても最初のものである。 模式種ンクウェバサウルス・スワジ(Nqwebasaurus thwazi)はド・クラークらによって2000年に記載された。記載者によると、この新属は『アフリカから知られる白亜紀の獣脚類の中で最も完全で最も良い保存状態のもの』である。よく保存された標本は部分的に向かい合わせにすることができる親指(鉤爪)を備えた長い三本指の手をもっていた[2]。その化石は腹に胃石ももっていた。その標本は後期幼体のものであると考えられ、全高は30cm、全長は90cmと見積もられている。ただし尾は見つかっていない。 ホロタイプの新しい要素は、基盤的なオルニトミモサウルス類であり、恐らく植物食であったことを示す。これは歯列の減少と胃石の存在によって裏付けられる[3]。 ^ Tweet 2010 ^ de Klerk et al. 2000, p. 327 The left manus

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モンテ・ディ・ピエタ – Wikipedia

モンテ・ディ・ピエタ(イタリア語: Monte di Pietà)は、中世末期(15世紀後半)のイタリアに発祥し、他のカトリック地域にも広がった公営の質屋。貧民に対する慈善事業として成立し、比較的低い利子で貸出を行った。 旧約聖書では金の貸出そのものは禁じていなかったが、利子や担保を取ることに関しては強い制約があった(出エジプト記22章24節以下、および申命記24章6節以下)[1]。新約聖書においてもルカによる福音書6章35節が利子を取ることを禁止する根拠とされた。 中世のヨーロッパにおいてカトリック教会が徴利を禁止した結果、中世後期にはいると北・中部イタリアのキリスト教徒は利子に関する業務から姿を消すようになった。それにかわってユダヤ人が金貸しとして進出するようになったが、年利にして20-40%もの高利によって民衆の恨みを買うようになった。貧民をユダヤ人高利貸から救うことを目的として作られた公的な貸付機関がモンテ・ディ・ピエタである。モンテ・ディ・ピエタの理念はもっとも清貧を重んじるフランシスコ会厳格派によって鼓吹されたが、これは13世紀以来の歴史をもつフランシスコ会の経済観にもとづいていた。 1461年、フランシスコ会修道士のバルナバ・ダ・テルニ (it:Barnaba da Terni) がペルージャで最初のモンテ・ディ・ピエタを設立し、他の地域にも広めた[1][10]。特に熱心に運動を行ったベルナルディーノ・ダ・フェルトレ (it:Bernardino da Feltre) は、1484年にマントヴァでモンテ・ディ・ピエタを設立して以来、ひとりで22のモンテを成立させた。ベルナルディーノの運動ではユダヤ人金貸しの排斥が強調された[1]。 「モンテ」とは文字通りには山のことだが、比喩的に大量の物を意味し、集められた基金を意味した[13]。「モンテ・ディ・ピエタ」とは敬虔な行為(ピエタ)により積みあげられた資金の山(モンテ)を意味し、その原資は市民の寄付・寄託からなっていた。 低利とはいってもモンテ・ディ・ピエタは利子を取ったため、ドミニコ会やアウグスティノ会は伝統的な徴利禁止の立場から反対した。ベルナルディーノらはモンテ・ディ・ピエタの利子が貸付から直接生じるものではなく、貸付に関する運営のために使用されるものであるから、禁止されている徴利にはあたらないと主張した。1515年の第5ラテラノ公会議によってモンテ・ディ・ピエタの利子は正当であると認められた。 16世紀以降、多くのモンテ・ディ・ピエタは預金を受け入れて利子を払い、また貧民の救済以外にも融資を行うよう変容し、実質的に銀行に近づいていった。イタリアではモンテ・ディ・ピエタを推奨することによってユダヤ人の金貸しを排斥したが、18世紀半ば以降はユダヤ人の金貸しに対する制限は取り除かれた[1]。 18世紀末、モンテ・ディ・ピエタはイタリアに侵入したナポレオン軍の略奪対象になり、一時壊滅した。19世紀以降再建されたモンテ・ディ・ピエタの多くは後に貯蓄金庫に移行したが、今もなお通常の銀行業務と併行して質屋の業務を行っているところが多い。 各国のモンテ・ディ・ピエタ[編集] メキシコではメキシコシティの中心地にある国立質店 (Nacional Monte de Piedad) が有名である。

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アラブの茶文化 – Wikipedia

アラブの茶文化(アラブのちゃぶんか)では、アラブ世界やアラブ人の間で飲用される茶、また茶の飲用にまつわる文化について説明する。 アラブ式の茶は、アラブ世界とディアスポラアラブ(英語版)の間で人気がある。茶はアラブの文化と社会において重要な地位を占めるものである[1][2]。何世紀にもわたって、客人や商売相手に対し、会合や社会的な催しの場で饗されてきた。喫茶文化はアラブの伝統の強力な一部であり、温かい茶は数百年にわたって家族と友人を一つにまとめてきた。茶は食前、食後、時に食中に供される。アラブ式の茶は、礼儀正しく客人を歓待する作法であるだけでなく、健康的な飲み物だと考えられており、集まり、パーティー、祝い事に資するものである[3][4]。 様々なアラブ式の茶はそれぞれ独自の特性を持つ。あるものは健康に益があり、他のものは甘い香りか強い芳香で心を鎮め心地よくする[5]。しばしば非常に甘く凍るほど冷たい西洋の茶と違い、アラブ式の茶は熱いまま新鮮なハーブと一緒に供される[6]。アラブ圏で飲まれる茶は、西洋の人々が飲むものとはだいぶ違う。 アラブ社会と茶[編集] 茶はアラブ圏の非常に重要な飲み物で、普通朝食、昼食、夕食に出て来る。アラブ人にとり、茶は客に振る舞われる、歓待を示す飲み物である。またアラブ人にとって、デーツとともに茶を飲むことは一般的である。その人気の理由のひとつに、茶がアラブ圏における歓待とビジネスマナー上の飲み物であるという、茶の社会的側面がある。公然と茶を断ることは無礼だと受け取られることもある。商売上の面談において必須の要素であり、ほとんどの会合で供される。 ヴァリエーション[編集] アラブ式の茶にはさまざまなタイプがある。 リビアの、ピーナッツ入りのアラブ式紅茶 モロッコにてマグリブ式ミント緑茶 セージ(マラミーヤ)茶は、食後に供されるのが典型的であり、消化を助け、腹中のガスを除き胸やけを防ぐ。その香りは大変素晴らしく、茶葉を用いずに淹れられる、完全な天然かつノンカフェインの飲み物である。甘くする為に、若干の蜂蜜か砂糖を入れる。いたるところで饗されている茶ではあるが、自家製の乾燥セージを使うのが最も良いと言われている[7]。 カモミール(バーヌーナジ)茶は乾かしたカモミールの花で淹れられ、多くの健康効果で知られる。ストレスや不安を減らし、痛みや不快感を軽減し、不眠症を改善する[8]。 アニス(ヤーンスーン)茶は何百年にも渡りよく知られてきた。この茶はリフレッシュ効果がある[9]。 タイム(ザアタル)茶は記憶を改善し、胃を綺麗にしてくれる。抗酸化物質が豊富で、老化を内側から防ぐにも有益である[10]。 カルダモン(ハール)茶はその濃厚な芳香により、アラブ世界で極めて一般的である。時にカルダモンはコーヒーに混ぜられる。歴史的に消化と唾液の分泌を助けることで知られ、食前に酵素の分泌を促すために飲まれる。世界で最も高価なスパイスのひとつではあるが、カルダモンはいまだに多くがアラブ人の顧客のために手で収穫されている。 日本のアラブレストランで出されているモロッコミントティー(アランダルース、江古田)。 マグリブ式ミント緑茶(マグリブ方言でターイ)はモロッコ式ミントティーとしても知られる、スペアミントと砂糖と淹れる緑茶であり、マグリブ地方(リビアからモロッコ、モーリタニアまで)伝統のものである。元々はイギリス人貿易商により作られ、アフリカ中、フランス、そして隣り合う国に広がり人気を得た。ミントとその活力で知られ、新鮮なミントは食後に口中を清めるのを助ける。またゆっくりする日に最高である[11][12]。 紅茶(チュニジアにて) ミント(ナアナア)茶はその医学的効用で知られ、寒さ、喉の痛み、蓄膿症、胃潰瘍を取り除くために広く使われている。豊富な抗酸化物質とビタミンで、ペパーミントは免疫と健康を強化するのを助ける。季節的なアレルギーに対しても、ミントの中から見つかった抗炎症物質であるローズマリー酸から作られた茶を一杯飲んで直すこともある。 紅茶(シャーイ)は最も一般的である。時に消化系の不快感に対して用いられ、鎮静効果がある。肉体的なものか精神的なものかは議論の余地があるが、いずれアラブ人に対しては働くようである。ストレートの紅茶はアラブ人の間でとても人気がある。実際コーヒーはカフェイン量でいうと紅茶の次であり、紅茶は飲んだ人に長く続くエネルギーを与えることができる。紅茶は解毒作用を助け、少しレモンを入れれば、減量と食欲抑制に役立つ[13]。 ハイビスカス(カルカデ)茶は冬は熱く、夏は冷たくして飲まれる。多量のビタミンⅭを含む。

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