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Month: March 2021

八百津発電所 – Wikipedia

八百津発電所(やおつはつでんしょ)は、かつて岐阜県加茂郡八百津町に存在した、水力発電所である。木曽川本流に位置し、1911年(明治44年)より1974年(昭和39年)にかけて運転された。 八百津発電所は、かつて木曽川本流に設置されていた水力発電所である。木曽川中流部、岐阜県加茂郡八百津町に位置する。 岐阜県内ではなく愛知県名古屋市への送電を目的に建設された発電所で、1906年(明治39年)の開発主体となる電力会社名古屋電力設立を経て、1908年(明治41年)に着工された。しかし名古屋電力は工事途上(未開業)のまま明治後期から営業する既存電力会社名古屋電灯に合併され、発電所工事は同社へと引き継がれた。3年余りの工期を経て八百津発電所は1911年(明治44年)12月10日より運転を開始する。なお1917年(大正6年)までは河川名をとって「木曽川発電所」という発電所名であった。 完成時の発電所出力は7,500キロワットであった。その後付属する放水口発電所の建設(1917年)、水車・発電機の改造工事(1922 – 1924年)により出力1万800キロワットを擁する発電所となる。またその間の会社合併により運営会社が名古屋電灯より東邦電力に変わったが、1925年(大正14年)以降、木曽川開発を手掛け名古屋方面のほか関西地方にも送電する大同電力へと全出力を送電するようになった。 電力国家管理に伴い1941年(昭和16年)に東邦電力から日本発送電へと出資され、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)には電気事業再編成によって他の木曽川本流の発電所とともに関西電力へと継承された。関西電力の時代なると、戦中から工事が進められていた丸山発電所が八百津発電所の直上流に完成する。これに伴い、八百津発電所も取水先が丸山発電所と同じ丸山ダムへと移行するという変化が生じた。しかし1971年(昭和46年)、丸山ダムから取水する3つ目の発電所として新丸山発電所が完成すると、これに置き換えられる形で八百津発電所は1974年(昭和49年)11月16日付で廃止となった。 廃止後、旧発電所建物は地元八百津町に譲渡され1978年(昭和53年)に「八百津町郷土館」(1998年以降「旧八百津発電所資料館」)として整備された。1998年(平成10年)には旧発電所施設が国の重要文化財に指定されている。 建設計画[編集] 八百津発電所の運転開始は1911年であるが、発電所建設計画の発端は1896年(明治29年)までさかのぼる。 八百津発電所計画は、1896年春、名古屋市の企業家が木曽川沿岸を踏査し、恵那郡飯地村(現・恵那市飯地町)より取水して加茂郡潮見村(現・八百津町潮見)に発電所を設ける、という計画を立てたことに始まる[1]。翌1897年(明治30年)には早速岐阜県知事に対し水利権の申請がなされた[1]。その後数度にわたる設計変更や水利権出願人の交代があって一時停頓するも、出願人の一人から話を持ち込まれた加茂郡選出の衆議院議員兼松煕が参入すると計画は進行し、兼松によって出願者間の確執は調停され、さらに東京の資本家も巻き込んだ電力会社の起業が決定をみた[1]。 兼松は新会社の地盤を固めるため名古屋も訪れて名古屋財界と協議し、名古屋商業会議所会頭奥田正香らの賛同を取り付け、会社発起人に名古屋財界も加わえることに成功した[1]。奥田・兼松ら名古屋電力株式会社発起人は、1904年(明治37年)7月27日、岐阜県知事に対して加茂郡飯地村から八百津町字諸田(現・八百津町八百津)に至る水利権を申請[1]。1906年(明治39年)6月23日になって水利権(水路の新設)が許可となり、同年9月28日さらに電気事業経営許可を逓信省に申請し、11月20日この許可を受けた[1]。この間の1906年10月22日、名古屋電力の総会が開かれ会社が成立している[1]。 運転開始[編集] 会社が成立したものの、翌1907年(明治40年)に日露戦争後の反動不況が発生してしまい、1908年(明治41年)まで約1年の事業中断を余儀なくされた[1]。1908年1月7日に起工式を挙行するも、着工後も難工事が続き、ことに水路隧道工事が困難を極め発電所の完成をさらに遅らせる結果となった[1]。開業の遅れや工事費の肥大化に名古屋電力が苦悩するのを見て、名古屋における既存電気事業者である名古屋電灯は名古屋電力の合併に動き出し、1910年(明治43年)10月に名古屋電力を吸収した[2]。合併の結果、八百津発電所の建設は名古屋電灯に引き継がれた[3]。 翌1911年(明治44年)6月、発電所の水路工事が竣工した[3]。これを受けて仮通水を始めるが、水路の一部が崩落する事故が発生する[3]。水路の修理は同年10月に完了し、通水を再開すると今度は無事に通水できた[3]。次いで電気工事も竣工したため、11月5日から逓信省による検査が始まった[3]。ところが14日、検査中の2号水車のケーシングが破裂する事故が発生し、検査にあたっていた逓信省技師と発電所作業員の2名が即死するという事故が発生した[3]。事故の調査報告によると、ケーシング破裂は水撃作用(ウォーターハンマー)が直接の原因で、ケーシングの強度に欠陥があったことが由来とみられるという[3]。 排水後、水車・発電機2台分について検査を続行、11月30日に逓信省の仮使用認可を得た[3]。そして名古屋市内配電用変電所の完成を待って翌12月10日送電開始に漕ぎつけた[3]。その後事故水車の修理と未完成の水車・発電機1台も完成し、1912年(明治45年)7月までに全設備の使用が開始されている[3]。なお発電所の名称は当初「木曽川発電所」であったが、1917年(大正6年)6月1日より「八百津発電所」となった[3]。 完成した八百津発電所の出力は7,500キロワットで、その発生電力は66キロボルト送電線にて名古屋市郊外萩野村(現・名古屋市北区)の萩野変電所へと送電された[4]。この八百津変電所は、長良川発電所(出力4,200キロワット)とともに名古屋電灯時代は主力発電所として重きをなした[4]。 改良工事[編集] 放水口発電所(2009年撮影) 八百津発電所は取水口に設計上の不備があり、降雨によって増水すると塵芥除け(スクリーン)が塞がり取水できなくなり発電が停止してしまう、という不具合が生じていた[5]。このため完成後数年で改良工事が起こされ、1915年(大正4年)までに取水口が改修された[5]。

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リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵) – Wikipedia

第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(The Rt. Hon. Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington, KG, PC, 1694年4月25日 – 1753年12月15日)は、イギリスの貴族、政治家、ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官、建築家である。第2代バーリントン伯爵チャールズ・ボイルとジュリアナ・ノエル(Juliana Noel、1672年 – 1750年)の子としてヨークシャーで生まれた。バーリントンは枢密顧問官、イギリス貴族院及びアイルランド貴族院 (Irish House of

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カンフー・ジャングル – Wikipedia

『カンフー・ジャングル』(原題:一個人的武林(香港タイトル)、一个人的武林(大陸タイトル)、英題:Kung Fu Jungle、US/UKタイトル:Kung Fu Killer)は2014年に公開された香港、中国合作映画。監督テディ・チャン。出演はドニー・イェン、ワン・バオチャン、チャーリー・ヤンほか。第34回香港電影金像奨にて最優秀アクション設計賞を受賞した。日本公開は2015年10月。 原題の『一個人的武林』の武林とは、武侠小説に登場する武術界を示す用語。香港でつけられた英題は『Kung Fu Jungle』だが、英語圏でのタイトルは『Kung Fu Killer』となった。 香港の中国返還後、中国大陸の急激な経済成長に吸収されてゆく香港映画界。長年アクション映画に携わってきた監督のテディ・チャンは、なかでも衰退した功夫アクション映画と[1] そこに従事してきた人々に対するリスペクトをこの作品に込めたと語った[2]。監督の呼びかけによりゴールデン・ハーベスト会長のレイモンド・チョウをはじめとする[3]数多くの映画人がカメオ出演し[4]、 功夫映画の名作、監督、名優たちもテレビの画面やポスターで登場する。 アクション監督は主演も務めたドニー・イェン。彼のアクション以外のシーンを、トン・ワイ、ユン・ブンといった香港アクション界のベテランがそれぞれのチームを率いて担当した。また長年ドニー・イェンのもとで働くイム・ワーもスタントコーディネーターの1人として名を連ねており、4人は第34回香港電影金像奨において最優秀アクション設計賞を受賞した。 ワン・バオチャンも香港電影金像奨助演男優賞にノミネートされ、 2015年上海国際映画祭の「成龍動作電影週(ジャッキー・チェン・アクション映画ウィーク)」[5]では、この『カンフー・ジャングル』で(アクション映画における)最優秀新人賞を受賞している[6]。 本作は2014年第58回ロンドン映画祭において特別上映作品として招待され[7]、10月12日テディ・チャン監督以下ドニー・イェン、ミシェル・バイ、英皇電影のアルバート・ヤンが出席。この上映がワールドプレミアとなった[8] 。2015年にはダラス国際映画祭、カナダファンタジア国際映画祭、ベルリンファンタジーフィルムフェスタ、チューリッヒ映画祭でも特別上映されている。 ストーリー[編集] ある武術一門の一番弟子であり警察学校の教官を務めていたハーハウ・モウ(ドニー・イェン)は、他流試合で対戦相手を殺してしまい服役する身であった。ある日、南拳の達人が撲殺されるという事件のニュースをテレビで見たハーハウは、その事件の陣頭指揮を執るロク警部(チャーリー・ヤン)に会うために刑務所で乱闘騒ぎを起こす。3年間模範囚であった彼がなぜそのような事を起こしたのか、面会に来たロクに対し、ハーハウは犯人が功夫の達人であり今後犠牲になるだろう何人もの名前を口にして事件解決の協力をする代わりに自分を釈放しろと要求する。

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みきちゅ – Wikipedia

みきちゅ(1993年1月26日 – )は日本のシンガーソングライター[1]。 宮城県仙台市出身。6歳から作曲を始め、16歳から弾き語りをスタート。 2011年、若手バンドの登竜門である「閃光ライオット2011」に“作詞作曲するアイドル”として出場し、注目されたことがきっかけで『みきちゅ』としての活動を始めた。同年8月に自主制作盤「mikichu magic!!」をリリース。 2012年4月には、EMI Music Japan×雑誌zipper主催のオーディション 「Girls on the run」でグランプリを獲得。同年9月22日には1stシングル『恋愛パズル』をリリース。 2013年からはメディアでも取り上げられ始め、テレビ朝日「musicる TV」の「もし売れ」コーナーでは氣志團の綾小路翔に「この時代に自分でやってる感は心を打つ」と評価された[2]。 4月13日、ヤマモトショウ楽曲提供によるアイドルシンガーソングライターみきちゅ、ふぇのたすミコによる期間限定アイドルユニットM.I.Yが最初で最後のイベントをムトウ楽器店で開催した。当日は限定CD『好きかな好きかも/さよならまでが恋愛です』を販売[3]。 9月25日に2枚目のシングル「I☆SSW」をリリース。 2014年7月15日にクラウドファンディングを成功させリリースした3枚目のシングル「アイドルの秘密」はオリコンデイリー9位を獲得。フリーのアイドルとしては異例のオリコンTOP10入りを果たしたことにより、オリコンから直接みきちゅに連絡があり、アーティストとしての基本情報を自身で書類に記入して提出した[4]。同年ミスiDファイナリストに選出される[5]。 12月21日、As around所属と同時に上京したことを発表。

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ベンジルメルカプタン – Wikipedia

ベンジルメルカプタン(英: Benzyl mercaptan)は、化学式C6H5CH2SHで表される有機硫黄化合物の一種である。特異臭のある無色の液体で、自然界にも存在する。チオベンジルアルコール、α-トルエンチオール、フェニルメタンチオールなどの別名がある。日本の消防法では危険物第4類 第三石油類に区分される[2] 塩化ベンジルとチオ尿素の反応させて得たイソチオウロニウム塩をアルカリ加水分解することによって調製できる。 ツゲの木から発見され、特定のワインではスモーキーな香りに寄与する[3]。コーヒーに含まれていることも確認されている。 食品の加熱により生じ、低濃度では好ましい香りとなるが、量が増えると加熱臭と呼ばれるオフフレーバーとなる[4]。 有機合成化学[編集] S-アルキル化に使用され、ベンジルチオエーテルを生成する[5]。 有機合成化学におけるチオール基の供給源として利用される。脱ベンジル化は金属の溶解還元により行われる[6]。

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南島原市立古園小学校 – Wikipedia

南島原市立古園小学校(みなみしまばらしりつ ふるぞのしょうがっこう)は、かつて長崎県南島原市南有馬町己にあった公立小学校。 2015年(平成27年)3月末に閉校し、南島原市立南有馬小学校に統合された。 歴史 1874年(明治7年)に開校。2014年(平成26年)に創立140周年を迎えた。南島原市南有馬地区の小学校5校[1]の統合により、2015年(平成27年)3月末に閉校し、141年の歴史に幕を下ろした。 学校教育目標 「豊かな心と志を持って、よりよく生きる児童の育成」 校章 1971年(昭和46年)に制定。校名の「古」の文字を図案化したもの。 校歌 旧校歌は創立50周年を迎えた1923年(大正12年)に、現校歌は1970年(昭和45年)に制定された。現校歌の作詞は市瀬正生、作曲は山口健作による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「古園」が登場する。 校区 住所表記で南島原市南有馬町の後に「丙947~1006番地、戊2~2076番地、己1~2072番地」が続く地域。中学校区は南島原市立南有馬中学校[2]。 1874年(明治7年)4月3日 – 古園名字古園庄屋屋敷の一部を校舎として「古園小学校」が開設される。教師2名が配置される。 1876年(明治9年)3月 – 古園名字林屋敷に移転。 1882年(明治15年)4月

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エドゥアルド・ラミレス – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はソロズザ、第二姓(母方の姓)はラミレスです。(Template:スペイン語圏の姓名) エドゥアルド・ラミレス 基本情報 本名 エドゥアルド・アントニオ・ソルーザ・ラミレス 通称 Zurdito(左利き) 階級 フェザー級 身長 168cm リーチ 178cm 国籍 メキシコ 誕生日 (1993-01-17) 1993年1月17日(29歳) 出身地 シナロア州ロスモチス

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よみうりランド (企業) – Wikipedia

株式会社よみうりランドは、日本のレジャーおよび公営競技の施設運営企業である。本社は東京都稲城市に所在。読売新聞社の完全子会社。 当初は競馬場の施設所有会社として創業し、現在は競馬場(船橋競馬場、川崎競馬場)などの公営競技施設や、遊園地よみうりランドのほかにも、ゴルフ場、読売ジャイアンツ球場・ヴェルディグラウンド(東京ヴェルディ及び日テレ・東京ヴェルディベレーザの練習場)などの管理運営を行っている。かつては船橋オートレース場も所有していた(2016年閉鎖)。 1991年から1998年までヴェルディ川崎(当時川崎市に本拠を置いていた)の運営会社「株式会社読売日本サッカークラブ」に出資していたが、1999年に親会社の読売新聞ともども、資本から撤退している。 2020年11月6日に、読売新聞グループ本社が株式公開買付けを行うことを発表[2]。同年12月22日に株式公開買付けが成立[3]。よみうりランドは2021年3月25日に、株式併合により読売新聞グループ本社の完全子会社となった[4]。 読売新聞グループ本社によるTOB実施前の読売グループ以外の大株主は東京ドーム、三井住友信託銀行、大成建設、京王電鉄、横浜銀行などがあった[5]。 なお、読売新聞グループ本社は、2021年1月に行われた、東京ドームの運営法人の三井不動産によるTOB成立[6]に際して、三井不動産から株式の20%の譲渡を受けており、読売グループにおける遊園地・レジャー事業の連携強化も図るとされている。 1949年9月24日:株式会社川崎競馬倶楽部として設立。 1950年:川崎競馬場が竣工。 1950年:関東競馬倶楽部に商号変更。 1950年:東京証券取引所市場第1部に株式を上場。船橋競馬場が竣工。 1950年:船橋競馬場内にオートレース場竣工。 1950年:関東レース倶楽部に商号変更。 1961年:読売パブリックコース営業開始。 1962年9月24日:読売フィッシングセンターオープン。 1963年8月5日:読売スキーセンター、谷間の野外音楽堂オープン。 1964年1月1日:読売ランドモノレールが開業。地方鉄道法(現・鉄道事業法)の適用路線であった。 1964年3月19日:遊園地「読売ランド」開園、よみうりランド海水水族館開館。 1964年4月19日:東京よみうりカントリークラブ営業開始。 1964年7月1日:読売観光ホテル開業。 1964年8月28日:読売ランドモノレールを延伸し、環状運転となる。

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環状集落 – Wikipedia

この項目では、縄文時代の集落について説明しています。弥生時代の集落である環濠集落とは異なります。 環状集落(かんじょうしゅうらく)とは、日本列島の縄文時代早期(1万1500年前 – 7000年前)末から前期(7000年前 – 5500年前)初頭に成立し、中期(5500年前 – 4400年前)・後期(4400年前 – 3200年前)にかけて、主に東日本を中心に発達した集落(ムラ)形態の一つ。広場を中心に墓域(土壙墓群)と居住域(竪穴住居群や掘立柱建物群)が同心円状=環状に展開する構造を特徴とする。千葉県の加曽利貝塚(国の特別史跡)などのような、貝層の分布が環状や馬蹄形状を呈するこの時代の貝塚遺跡の多くは、この集落形態を基礎に形成された。また秋田県の大湯環状列石(国の特別史跡・世界遺産)などのいわゆる環状列石(ストーンサークル)も、これを起源に成立した。 縄文時代早期末から前期初頭に関東地方および中部地方で出現し始め、中期に最も隆盛する定型化した集落形態である。台地上の平坦地や、その縁辺部に形成される。 環状ないし馬蹄形状の縄文集落遺跡の存在は、学界では太平洋戦争以前の1930~40年代から知られていたが、戦後の1954年(昭和29年)の千葉県市川市の堀之内貝塚の発掘調査や、1955年(昭和30年)の和島誠一・岡本勇による神奈川県横浜市の南堀貝塚(なんぼりかいづか/みなんぼりかいづか)の発掘調査などが契機となって、この形態の集落が縄文時代社会像を解明する手掛かりとなる遺跡ではないかとして本格的に注目されるようになった。特に、和島誠一が1948年(昭和23年)の「原始集落の構成」などで発表(『日本歴史学講座1』掲載)した集落論(原始氏族共同体論、「和島集落論」ともいわれる[3])と、先に揚げた1955年(昭和30年)の南堀貝塚の発掘調査がその評価の原点となった。 水子貝塚や姥山貝塚などに同一の環状構造があることに注目した和島は、住居の「環状」配置という強い規制を、小さな血縁集団同士が広場を中心に結束することで、より大規模で強固な共同体へと発展していったことの表れであると考え、この血縁集団同士の紐帯関係に基づく氏族共同体の結成が、縄文時代社会の本質と考察した。そしてこの説を証明するために一集落遺跡全域を発掘することが不可欠と考えた和島は、横浜市南堀貝塚の調査を指揮し、台地上に50軒余りの竪穴住居群が環状に配置された縄文時代前期中頃の集落を完掘し、環状集落の姿を明らかにした。この調査結果を通じて和島や岡本は、この種の集落規模の拡大が、共同体の生産力をも拡大させ、縄文文化の発展に結び付いたと評価した。 歴史と変遷[編集] 関東地方南西部(神奈川県横浜市など)の例では、前期中葉に縄文海進により水産資源の獲れる内湾や汽水域が発達して人口増加が発生し、多くの環状集落の遺跡(遺跡名を「貝塚」と名付けられたものを含む)が出現する。その後、前期末に海退などの環境変化によると考えられる何らかの原因で集落数が激減するが、中期中葉(勝坂2式期)から再び増え始め、大規模環状集落の最盛期を迎える。しかし中期末に再び何らかの原因で関東・中部地方の広域にわたる範囲で一斉に集落減少がおこる[4]。その後の後期前葉~中葉に、今までの環状集落には見られなかった村の長(オサ)の家とも考えられている特殊な配置・構造の住居である「核家屋(かくかおく)」の出現という社会的な変革を伴いながら再び復活するが、縄文時代晩期には解体していく。 環状集落には「重帯構造(または重圏構造)」と「分節構造」と呼ばれる構造があることが明らかとなっている。 重帯構造[編集] 中央の広場に土坑墓群(墓地)が作られ、その周囲を取り囲むように掘立柱建物群(倉庫等)があり、さらにその周囲に竪穴住居群(居住域)が配置される。ほかに貯蔵穴群や、単なるゴミ捨て場ではなく祭祀行為など特殊な活動を伴って貝殻や土器・灰や焼土などの遺物が集積された場である「廃棄帯」が伴う場合もある[9]。これを「重帯構造(または重圏構造)」という。居住域の直径は、70メートル程のものから大型では150メートル以上を測るものもある。重帯構造とその配置は強く規制されており、数百年間にわたって同じ範囲内に墓域や居住域が継続して営まれる例がある。 分節構造[編集] 重帯構造によって形成された、中央広場の墓群や周囲の環状居住域には、環状配置の内部でそれらの遺構分布に偏在域があり、複数の区分に分割できるものがある。これを「分節構造」という。円の直径で2分割される「二大群の構造」という区分が最も顕著に現れるが、その中でさらに小群に分割されるものもある。墓群の分節では、例えば岩手県紫波郡紫波町の西田遺跡では、中央広場で192基以上の土壙墓が見つかっているが、2列に並ぶ14基を中心として、それらを取り巻く周囲に8つに区分できる墓群が放射状に規則正しく配置されている。墓群の分節構造の存在は、死者の埋葬位置に厳格な取り決めが存在していることを示しており、これらの分節構造が環状集落内で血縁・系譜的に同一の出自を持つ小集団(出自集団)ごとのまとまりに基づいて形成された可能性が指摘されている。

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サイコロ – Wikipedia

この項目では、小道具のサイコロについて説明しています。投資指標のサイコロについては「サイコロジカルライン」をご覧ください。 サイコロ(ピップ) サイコロ(算用数字) サイコロ(骰子、賽子)、または賽(さい)、ダイス (dice) は主として卓上遊戯や賭博等に用いる小道具で、乱数を発生させるために使うものである。 多くは正六面体で、転がりやすいように角が少し丸くなっている。各面にその面の数を示す1個から6個の小さな点が記されていて、対面の点の数の和は必ず7となる。この点は“目”、または“ピップ” (pip)、“スポット” (spot)、まれに“ドット” (dot) とも呼ばれる。日本製の場合、1の面の目は赤く着色されていることが多い。ピップではなく算用数字が記されているものもある。 各面に表示される数も“目”と呼ばれ、サイコロを振った結果表示される数を“出目”と呼ぶ。複数のダイスを同時に振ってすべて揃った出目を“ゾロ目”と表現し、特にすべてが1の目が揃った場合のことを“ピンゾロ”と表現する。 アジアの古いサイコロ 『シャガイ』四面サイコロで各面ラクダ、ウマ、ヒツジ、ヤギと呼ばれる 最も原始的な形態の“サイコロ”は、宝貝や表裏を塗り分けた木の実などを投げ、それが表か裏かを見るというものである。このような投げ棒型のサイコロは古代インドで良く用いられ、近・現代においてもアメリカ・インディアンの文化などで使われている。しかしながら「サイコロ型」、つまり正六面体のサイコロも古代より出土しており、その成立は大変古いものであることが分かっている。 アジアでは、古いものではインダス文明のハラッパー遺跡などからも出土しており、中国やインドでも古くから存在していたことが知られる。これらの出土品は必ずしも立方体ではなかった。投げ棒型の他に、棒状四角柱で転がして使うもの、三角錐のものなどがあった。 こういった正六面体でないサイコロの中でも独特なのが、牛や羊などの距骨(後ろ足のくるぶしの骨)を用いるものである。距骨は一見すると六面体にも見えるが、どちらかといえばいびつな四角柱に近い形状であり、4種の出目を無作為に得ることができる(ただし、各面の確率は明らかに不均等である)。サイコロとして遊戯に用いる様子は古代ギリシア・ローマの彫刻や絵画にも描かれている。また、距骨は古代エジプトの副葬品にも見られ、他の形態と比べても古くから用いられていたことが分かる。紀元前のモンゴルの遺跡からも発見されており、地理的にも広く使われていた。このタイプのサイコロは、現在でもモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」を意味するシャガイ(en:shagai)という名前で使用されている。 距骨を使ったサイコロこそが現在のサイコロの起源であるとする説も唱えられている。少なくとも、以下のように複数の言語でサイコロは骨と関連付けられている。 英語では、古くは「動物の距骨」の意味の複数形「astragali」をサイコロの意でも用いていた。また現代英語でも「骨」の複数形「bones」をサイコロを指すスラングとして用いている。 中国語および日本語では「骰子」と表記するが、この「骰」は「投げる骨」の意の会意兼形声文字である。

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