八百津発電所 – Wikipedia
八百津発電所(やおつはつでんしょ)は、かつて岐阜県加茂郡八百津町に存在した、水力発電所である。木曽川本流に位置し、1911年(明治44年)より1974年(昭和39年)にかけて運転された。 八百津発電所は、かつて木曽川本流に設置されていた水力発電所である。木曽川中流部、岐阜県加茂郡八百津町に位置する。 岐阜県内ではなく愛知県名古屋市への送電を目的に建設された発電所で、1906年(明治39年)の開発主体となる電力会社名古屋電力設立を経て、1908年(明治41年)に着工された。しかし名古屋電力は工事途上(未開業)のまま明治後期から営業する既存電力会社名古屋電灯に合併され、発電所工事は同社へと引き継がれた。3年余りの工期を経て八百津発電所は1911年(明治44年)12月10日より運転を開始する。なお1917年(大正6年)までは河川名をとって「木曽川発電所」という発電所名であった。 完成時の発電所出力は7,500キロワットであった。その後付属する放水口発電所の建設(1917年)、水車・発電機の改造工事(1922 – 1924年)により出力1万800キロワットを擁する発電所となる。またその間の会社合併により運営会社が名古屋電灯より東邦電力に変わったが、1925年(大正14年)以降、木曽川開発を手掛け名古屋方面のほか関西地方にも送電する大同電力へと全出力を送電するようになった。 電力国家管理に伴い1941年(昭和16年)に東邦電力から日本発送電へと出資され、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)には電気事業再編成によって他の木曽川本流の発電所とともに関西電力へと継承された。関西電力の時代なると、戦中から工事が進められていた丸山発電所が八百津発電所の直上流に完成する。これに伴い、八百津発電所も取水先が丸山発電所と同じ丸山ダムへと移行するという変化が生じた。しかし1971年(昭和46年)、丸山ダムから取水する3つ目の発電所として新丸山発電所が完成すると、これに置き換えられる形で八百津発電所は1974年(昭和49年)11月16日付で廃止となった。 廃止後、旧発電所建物は地元八百津町に譲渡され1978年(昭和53年)に「八百津町郷土館」(1998年以降「旧八百津発電所資料館」)として整備された。1998年(平成10年)には旧発電所施設が国の重要文化財に指定されている。 建設計画[編集] 八百津発電所の運転開始は1911年であるが、発電所建設計画の発端は1896年(明治29年)までさかのぼる。 八百津発電所計画は、1896年春、名古屋市の企業家が木曽川沿岸を踏査し、恵那郡飯地村(現・恵那市飯地町)より取水して加茂郡潮見村(現・八百津町潮見)に発電所を設ける、という計画を立てたことに始まる[1]。翌1897年(明治30年)には早速岐阜県知事に対し水利権の申請がなされた[1]。その後数度にわたる設計変更や水利権出願人の交代があって一時停頓するも、出願人の一人から話を持ち込まれた加茂郡選出の衆議院議員兼松煕が参入すると計画は進行し、兼松によって出願者間の確執は調停され、さらに東京の資本家も巻き込んだ電力会社の起業が決定をみた[1]。 兼松は新会社の地盤を固めるため名古屋も訪れて名古屋財界と協議し、名古屋商業会議所会頭奥田正香らの賛同を取り付け、会社発起人に名古屋財界も加わえることに成功した[1]。奥田・兼松ら名古屋電力株式会社発起人は、1904年(明治37年)7月27日、岐阜県知事に対して加茂郡飯地村から八百津町字諸田(現・八百津町八百津)に至る水利権を申請[1]。1906年(明治39年)6月23日になって水利権(水路の新設)が許可となり、同年9月28日さらに電気事業経営許可を逓信省に申請し、11月20日この許可を受けた[1]。この間の1906年10月22日、名古屋電力の総会が開かれ会社が成立している[1]。 運転開始[編集] 会社が成立したものの、翌1907年(明治40年)に日露戦争後の反動不況が発生してしまい、1908年(明治41年)まで約1年の事業中断を余儀なくされた[1]。1908年1月7日に起工式を挙行するも、着工後も難工事が続き、ことに水路隧道工事が困難を極め発電所の完成をさらに遅らせる結果となった[1]。開業の遅れや工事費の肥大化に名古屋電力が苦悩するのを見て、名古屋における既存電気事業者である名古屋電灯は名古屋電力の合併に動き出し、1910年(明治43年)10月に名古屋電力を吸収した[2]。合併の結果、八百津発電所の建設は名古屋電灯に引き継がれた[3]。 翌1911年(明治44年)6月、発電所の水路工事が竣工した[3]。これを受けて仮通水を始めるが、水路の一部が崩落する事故が発生する[3]。水路の修理は同年10月に完了し、通水を再開すると今度は無事に通水できた[3]。次いで電気工事も竣工したため、11月5日から逓信省による検査が始まった[3]。ところが14日、検査中の2号水車のケーシングが破裂する事故が発生し、検査にあたっていた逓信省技師と発電所作業員の2名が即死するという事故が発生した[3]。事故の調査報告によると、ケーシング破裂は水撃作用(ウォーターハンマー)が直接の原因で、ケーシングの強度に欠陥があったことが由来とみられるという[3]。 排水後、水車・発電機2台分について検査を続行、11月30日に逓信省の仮使用認可を得た[3]。そして名古屋市内配電用変電所の完成を待って翌12月10日送電開始に漕ぎつけた[3]。その後事故水車の修理と未完成の水車・発電機1台も完成し、1912年(明治45年)7月までに全設備の使用が開始されている[3]。なお発電所の名称は当初「木曽川発電所」であったが、1917年(大正6年)6月1日より「八百津発電所」となった[3]。 完成した八百津発電所の出力は7,500キロワットで、その発生電力は66キロボルト送電線にて名古屋市郊外萩野村(現・名古屋市北区)の萩野変電所へと送電された[4]。この八百津変電所は、長良川発電所(出力4,200キロワット)とともに名古屋電灯時代は主力発電所として重きをなした[4]。 改良工事[編集] 放水口発電所(2009年撮影) 八百津発電所は取水口に設計上の不備があり、降雨によって増水すると塵芥除け(スクリーン)が塞がり取水できなくなり発電が停止してしまう、という不具合が生じていた[5]。このため完成後数年で改良工事が起こされ、1915年(大正4年)までに取水口が改修された[5]。
Continue reading
Recent Comments