Month: June 2021

さんべ温泉スキー場 – Wikipedia

さんべ温泉スキー場は島根県大田市三瓶町東ノ原にあったスキー場[1]。1961年-2009年の期間に営業した[1]。スキー場が閉鎖した後は、1基のリフトが「三瓶観光リフト」として登山客などに利用されている。 スキー場跡全景(女三瓶山より望む) 三瓶観光リフトとスキー場跡 女三瓶山と、鱗屑する大平山の東側斜面の「東の原」の南側にリフトを設置して、冬季にスキー場として利用できるようにしたもので面積は50haある[1]。「東の原スキー場」とも呼ばれた[1]。1961年に大田市によって設置され開業[1]。大田市保養施設管理公社が運営した[1]。1976年には3基のペアリフトが設置されていた。土曜日には22:00までナイター営業も実施された。1980年代には1シーズンに10万人が利用したが、積雪量の減少や競合施設の増加によって利用客が減少したために2009年で閉鎖された[1]。2009年は年間7000人が利用したのみであった[1]。1999年までは冬季にゲレンデで花火大会が開催されていた[1]。閉鎖後は3基あったリフトは、1基が撤去され1基は荒廃した状態で残されているが、残る1基は、三瓶観光リフトとして利用されている。 三瓶観光リフト[編集] 2015年現在、ペアリフトは1基のみが稼働状態として残され、冬季以外のシーズンに「三瓶観光リフト」として、登山やトレッキングに利用されていた[2]。このリフトは1977年に設置されたもので[2]、標高差255m、全長856mを片道11分で結ぶ。ゲレンデ内を徒歩で登ることは禁止されており、リフトを使用せずに三瓶山に登る場合は、リフト乗り場近くより南側に伸びる登山道を使用する。リフトを使わない場合はリフト降場まで片道35分(上り)かかり、女三瓶山山頂までは合計徒歩60分となる。リフトは降りる場合にも利用できる。スキー場閉鎖後も年間2万人の利用があり、新型コロナウイルスが問題となった2020年には人混みを避けることが出来る観光施設として人気が集まり2万5000人以上が利用した[2]。管理は市が指定した管理管理者(2020年時点で大田市の「さんべ観光」)が行っていたが、保守点検管理者の退職に伴い2021年7月末をもって運行を休止[2]。大田市では観光リフトを重要な観光資源と考え、異なる事業者と契約するなど運行再開についての検討を行った[2]。 2021年11月13日、飯南町の飯南トータルサポートが新たな運営管理者となり三瓶観光リフトは再開された[3]。 関連項目[編集] 座標: 北緯35度7分41.9秒 東経132度38分26.4秒 / 北緯35.128306度 東経132.640667度 / 35.128306; 132.640667 (三瓶観光リフト)

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函館稜北病院 – Wikipedia

函館陵北病院 画像をアップロード 情報 正式名称 医療法人社団道南勤労者医療協会 函館陵北病院 前身 稜北診療所 標榜診療科 内科,呼吸器科(呼吸器内科),消化器科(消化器内科),循環器科(循環器内科),整形外科,リハビリテーション科 許可病床数 104床一般病床:56床療養病床:48床 機能評価 リハビリテーション病院(20~199床)(主たる機能)、一般病院1(副機能):3rdG:Ver.1.1 開設者 医療法人社団道南勤労者医療協会 管理者 及能義広(院長) 開設年月日 1980年11月

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魏騰 – Wikipedia

魏 滕(魏騰、ぎ とう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家。字は周林。揚州会稽郡上虞県の人。 祖父の魏朗は字を少英といい、後漢の河内太守であり、また清流派士大夫(党人)の八俊に数えられた世に知られた人物であった。党錮の禁にて宦官勢力に弾圧を受けたという。 魏滕の性格は一本気な性格で、世の中といいぐらいに調子を合わせた行動はとらず、たとえ切羽詰まった事態になっても、自らの生き方を曲げるようなことはしなかったという。 魏滕は孫策の功曹であった時期に、孫策の気持ちに逆らったため、譴責を受けて処刑されようとしたことがあった。士大夫たちは心配し恐れたが、魏滕を救うための方法は皆無であった。孫策の母の呉夫人は、魏滕が処刑されようとしているのを聞き、孫策の目の前で大きな井戸の縁に身を寄せかけると、「おまえは江南の経営をはじめたばかりで、その仕事はまだ完成しておらず、いまこそ賢者や非凡な人物たちを礼遇し、欠点には目をつぶって功績を高く評価すべきときであるのです。魏滕どのは職責に全力を尽くしております。おまえがその魏滕どのを殺せば、明日には人々はみな揃っておまえに背を向けるでありましょう。私は禍がやってくるのは見たくはありません。その前にこの井戸に身を投げるのです」と言い、井戸に身を投げようとした。孫策はびっくりして、あわてて魏滕を釈放した[1]。 孫権の時代に、あるとき魏滕は罪を犯した。孫権の魏に対する問責と腹立ちは非常に厳しいもので、孫権を諌めて魏滕の罪を赦すような意見をしたものも魏滕と一緒に死罪に処する、という布告がなされた。魏滕と同じ邑出身で親友の呉範は、魏滕に面会して言った。「あなたと一緒に死のう」。魏滕は「死んでも何も役に立たないのに、死んでどうするのか」と言った。呉範は「そんなことを慮って、あなたの死をむざむざ見ておられるか」と言い、頭髪を剃りみずからに縄を打って、宮門のもとへやってくると、取次ぎの役人に自分が魏滕の諫言をするためにやって来たことを孫権に伝えてほしいと言った。取次ぎの役人は拒絶し「とばっちりを受けて殺されると決まっておりますものを、お伝えすることはできません」と言った。呉範はそれを聞くと、取次ぎの役人に子供がいるかを聞き、取次ぎの役人に子供がいるとわかると、もし取次ぎの役人が今回の件に巻き込まれることがあったら、呉範が子供の面倒をみることを提案して、ようやく取り次いでもらえた。取次ぎの役人が孫権に取り次ぐ言葉を述べ終わらないうちに、孫権はひどく腹を立てて戟を投げつけようとした。取次ぎの役人が後ずさりして逃げ出す隙に、呉範は宮廷内に走り込み、頭を床に打ち付けて血を流し涙ながらに諫言した。やがて孫権の気持ちも釈け、やっとのことで魏滕は刑罰を逃れた。魏滕は釈放されると、呉範に会い、感謝して言った。「父や母は私を産んで育ててくれたが、私を死から逃れさせてはくれなかった。丈夫同士互いを理解し合うといった関係は、あなたのような方が1人いればそれで十分で、役立たずの多数の友人を持ったとしても益のないことだ」[2]。 魏滕は歴陽・鄱陽・山陰の3つの県令を歴任し、やがて鄱陽太守まで上ったという[3]。 参考文献[編集] ^ 『会稽典録』 ^ 『三国志』呉志 呉範伝 ^ 『会稽典録』

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りらいあコミュニケーションズ – Wikipedia

りらいあコミュニケーションズ株式会社は、コールセンターの受託運営・設置・人材育成を行う大手のテレマーケティング会社。ジョブポケットを展開する。 1987年6月23日 株式会社もしもしホットライン設立 1994年4月 本社を渋谷区代々木に移転 1998年10月2日 株式を店頭公開 2000年11月 東証2部上場 2002年3月 東証1部上場 2015年10月 りらいあコミュニケーションズ株式会社に商号変更 ジョブポケット[編集] ジョブポケット (jobpocket) は、りらいあコミュニケーションズの一部門で、コールセンターを中心としたアルバイト・派遣・一部事務のアルバイトの求人募集を行っている。同時にjobpocket.jpサイトで、日本全国のコールセンターの人材募集を行っている。 2001年7月に採用センターを開設。jobpocket.jpは2004年1月16日にアドレス登録を行ない、現在に至る。年間10,000名以上の人材採用を行なう。 トピックス[編集] かめひよというマスコットキャラクターがいる[1]。2006年5月からFC東京の練習着・ジャージーの胸スポンサーを務めており[2]、同チームのホームゲームにかめひよが現れることもある。

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ホンダ エアロ – Wikipedia

ホンダ エアロ(Honda Aero, Inc.、略称:HAI)はノースカロライナ州バーリントンのバーリントン=アラマンス地域空港(英語版)を拠点とする本田技研工業(ホンダ)の子会社である。 バーリントンの施設は(ホンダ エアロとGEアビエーションの合弁事業である)GE ホンダ エアロ エンジンズ LLCによって開発、販売されるGE ホンダ HF120ターボファンエンジンの製造を行う。ホンダによって投資される施設の費用は2700万ドルで同社の北アメリカでの投資総額は90億ドル以上である。GE ホンダ エアロ エンジン HF120の量産を開始予定である。 企業スローガンは、ホンダのグローバルスローガンでもある『The Power of Dreams』。

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イリノイ大学ウィラード空港 – Wikipedia

イリノイ大学ウィラード空港(イリノイだいがくウィラードくうこう)(IATA: CMI, ICAO: KCMI, FAA LID: CMI) は、アメリカ合衆国イリノイ州シャンペーン郡トロノ郡区のサボイ村南部に存在する空港。 イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校が所有および運営する空港で、イリノイ大学の元学長アーサー・カッツ・ウィラードにちなんで名付けられた。 本空港の面積は 1,799エーカー (7.28 km2) で、3本の滑走路を持つ。 この空港はシャンペーン郡内で年間合計74,325,994ドルの経済効果があり、年間559.2FTEの雇用を直接的または間接的に創出している[2]。 この空港は1945年10月26日に開港し、定期便の運行は1954年に始まった[3]。 1960年に建てられたターミナルビル[4]は、現在のターミナルが1987年に完成するまで使用されていた[5]。 1963年と1969年には本空港がイリノイ州で2番目に混雑する空港となった[4]。 2014年まで、空港には研究機関とパイロット養成機関を兼ねたイリノイ大学航空研究所[訳語疑問点]の拠点であった。 大学評議会は、入学した学生が学習を完了できるようにするが、機関を閉鎖すると投票によって2011年に決定した。 2013年、大学は機関のパイロット養成機能を地元のコミュニティ・カレッジであるパークランドカレッジに移譲することに合意した。 [6]大学は引き続き空港を運営しており、その運営に対して年間433,000ドルの助成金を提供している[7]。 本空港のトラフィック

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植物ウイルス – Wikipedia

トウガラシマイルドモットルウイルス(PMMoV) 植物ウイルス(しょくぶつウイルス、英: plant virus)とは植物に感染するウイルスのことである。他のすべてのウイルス同様、植物ウイルスは偏性細胞内寄生体、すなわち宿主なしで増殖するための分子機構をもたない寄生体である。植物ウイルスは高等植物に対する病原となる。この記事はすべての植物ウイルスを一覧にすることは意図しておらず、いくつかの重要なウイルスとそれらの植物分子生物学における用途について記述している。 植物ウイルスは動物ウイルスほど良く理解されてはいないが、一つの植物ウイルスは象徴的なものになっている。初めてウイルスとして発見されたのがタバコモザイクウイルス(TMV)である(以下参照)。このウイルスを含め植物ウイルスは世界の年間作物収穫高において推定US600億ドルの損失の原因となっている。植物ウイルスは73の属と49の科に分類される。しかしながら、これらの数字は栽培植物にのみ関係するものであり、これはすべての植物種のうちほんの一部のみを代表するに過ぎない。野生植物に感染するウイルスに対する研究は未だ乏しいが、野生植物とウイルスの間のそのような相互作用が宿主の病気を引き起こすようには見えない、ということをほとんど圧倒的多数にある研究が示している[1]。 ある植物から他の植物へ、またはある植物細胞から他の植物細胞へ移動するために、植物ウイルスは動物ウイルスとは大抵の場合違う戦略を取らなければならない。植物は動かないため、植物から植物への伝染はたいてい昆虫などの病原菌媒介生物を必要とする。植物細胞は硬い細胞壁に囲まれているため、原形質連絡を介した輸送がウイルス粒子が植物細胞の間を移動するための経路として好まれている。おそらく植物は原形質連絡を通してmRNAを運ぶ仕組みに特化していて、これらの仕組みは、細胞から細胞へ広がっていくためにRNAウイルスによって使われていたと考えられている[2]。 ウイルス感染に対する植物の防御は、他の手段に加えてdsRNAに応じてsiRNAを使用することを含んでいる[3]。たいていの植物ウイルスはこの反応を抑えるためのタンパク質をコードする[4]。植物は損傷を踏まえて原形質連絡を通した輸送をも抑制する[2]。 病気を引き起こす植物ウイルスの発見はしばしば、アドルフ・エドゥアルト・マイヤーによるものだとされる。彼はオランダで働きながら、タバコの葉から得られたタバコモザイク病の樹液が健康な植物に注入された時にタバコモザイク病の症候を生み出す、ということを明らかにした。しかしながら樹液を加熱したとき、樹液のもつ感染症は損なわれた。そこで彼は原因である病原体は細菌だと考えた。けれども彼は多くの細菌をより広く注入してみたものの、モザイクの症候を発病させることに失敗した。 1898年にオランダの工科大学で微生物学の教授をしていたマルティヌス・ベイエリンクはウイルスは微小なものだという考えを述べ、また「モザイク病」はシャンベラン濾過器を通してもなお伝染性のままであることを明らかにした。細菌の微生物ならば濾過器によって分離という点で、このことは微生物と対照的である。ベイエリンクが伝染性の濾液を”contagium vivum fluidum”として言及した。このようにして”virus”という新語が生まれたのである。 ウイルスという概念の最初の発見以降、顕微鏡による観察が無益なものだとわかったとはいっても、他の知られているすべての伝染型のウイルスの病気を明らかにする必要が出てきた。1939年、ホームズ (Francis Oliver Holmes) が129の植物ウイルスの分類表を発表した。これは拡張され、1999年には、植物ウイルスは977の正式に認められたものといくつかの暫定的なものとに分類された。 TMVの浄化(結晶化)はウェンデル・スタンリーによって初めて行われた。彼はRNAが伝染性の物質であるということをはっきりさせることはなかったが、1935年に自身の発見を出版した。しかしながら、彼はノーベル化学賞を1946年に受賞した。1950年代に二つの研究室が同時に発見した事実によってTMVの浄化されたRNAが伝染性であることが示され、この発見が議論を強化することとなった。そのRNAが新しい伝染性の粒子の生産のためのコードをするための遺伝情報を運ぶ。 もっと最近のウイルス研究では、ウイルスがどのようにして増殖し、移動し、植物に感染するのかをはっきりさせることに対して特別な興味が持たれている。この研究において、遺伝学と植物ウイルスのゲノムの分子生物学を理解することに焦点が当てられている。ウイルス遺伝学とタンパク質の機能を理解することは、バイオテクノロジーを利用する会社による商業利用の可能性を模索するために使われてきた。特に、ウイルスの起源となった配列は、抵抗の新しい形態を理解するために使われてきた。人間が植物ウイルスを操ることを可能にする技術における最近の発達は、植物に含まれる付加価値のあるタンパク質の生産に対して、新たな戦略を与え得る。 ウイルスは極めて小さく、電子顕微鏡を通してはじめて観察し得る。ウイルスの構造はウイルスのゲノムを囲む、タンパク質の外皮によって出来上がっている。ウイルスの粒子の集まりは自発的に発生する。 知られている植物ウイルスの50%以上が桿状(屈曲していて硬い棒のような形状)である。粒子の長さは通常ゲノムに依存するが、たいていは長さ300~500nm直径15~20nmである。円盤を形作る円の円周付近にタンパク質のサブユニットが置かれる。ウイルスのゲノムの存在において円盤は積み重なり、中央に核酸のゲノムの余地を残しつつ、管状になる。[5]。

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松尾真之介 – Wikipedia

松尾真之介 生誕 (1996-04-21) 1996年4月21日(25歳) 出身地 日本・神奈川県 ジャンル 劇伴音楽サウンドトラック 職業 編曲家音楽プロデューサー 公式サイト www.shinnosukematsuo.com 松尾 真之介(まつお しんのすけ、1996年4月21日 – )は、日本の音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家である。 目次 1 経歴

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西の富士勝治 – Wikipedia

西の富士 勝治(にしのふじ かつじ、1959年9月4日 – )は、九重部屋(入門時は井筒部屋)に所属した元力士。本名は下田 勝治(しもだ かつじ)。宮崎県東臼杵郡美郷町出身。179cm、123kg。最高位は西十両10枚目(1981年9月場所)。得意手は右四つ、寄り。 小学校では剣道を習っていたが、中学校では柔道を習い始めた。中学卒業が近くなったので熊本県の鎮西高校へ願書を提出したが、当時の井筒親方(第52代横綱・北の富士)が素質を見込んで訪ねて来て勧誘され、周囲からも説得されて井筒部屋ヘ入門。 1975年3月場所に於いて、15歳で初土俵を踏んだ。1981年7月場所、21歳で十両昇進。新十両の場所では9勝6敗と勝ち越したが、翌9月場所では2勝13敗と大きく負け越し、2場所で幕下へ陥落した。その後は番付を下げていき、1982年11月場所では三段目に陥落した。1983年1月場所を最後に23歳で廃業。足腰の良さと柔軟な体格を活かした、右四つからの寄りと相撲勘を生かした投げの闘志に満ちた俊敏な取り口であった。しかし、投げにこだわってしまう傾向があり、それで負けることもあった[1]。 主な成績[編集] 通算成績:180勝158敗7休 勝率.533 十両成績:11勝19敗 勝率.367 現役在位:48場所 十両在位:2場所 場所別成績[編集] 西の富士 勝治 一月場所初場所(東京)

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寒食節 – Wikipedia

寒食節(かんしょくせつ、かんじきせつ)は、東アジアの年中行事。古代中国で成立し、現代では大韓民国などで春の農耕の始まりを祝うとともに祖先を祭り墓参が行われる一方、中国では清明節に吸収される形でほぼ消滅している[1][2]。 伝統的な寒食節においては数日(時代によって期間は異なる)火を使わずに過ごし、冷たい食事だけで過ごす[3]。後者については「寒食」という名前にあわせて後から生じた風習とみられる[3]。これらは焼死した介子推を弔うため、という伝説が有名である[3]。 各国における風習[編集] 韓国の墓。寒食節には手入れをして芝生を張り替える。 バイン・トイ。ベトナムでは寒食節に食する。 現代の大韓民国では、寒食節は元旦や端午、秋夕と並ぶ4大名節(朝鮮語版)の1つとして、節祀や茶礼と呼ばれる先祖の祭祀を行う[3]。茶礼は墓のメンテナンスであり、寒食節と秋夕は多くの韓国人が墓参に行く[4]。寒食は特に冬の間に円形の封墳に生じた裂け目や窪みなどを補修して表面の芝を張り替えるが、近年は公園墓地の管理機関に作業を任せるケースも少なくない[3][4]。その後に供物を捧げ、寒食の際に移葬や改葬を行うこともある[3]。寒食節は冬至から105日目とされて太陽暦で4月5日頃にあたり、植樹に適当な時期のためこの日は植樹日(식목일、シンモギル)という記念日になっている[5] また、ベトナムでは北部を中心に旧暦3月3日にテットハントゥック(Tết Hàn thực)という寒食節由来の行事があり、バイン・チョイおよびバイン・トイ(Bánh trôi – bánh chay)という餅菓子を食べる[6]。墓参りなどの風習は特にない[6]。 『周礼』秋官には「仲春(旧暦2月)に木鐸を鳴らして一斉に火を消す準備をし、改火に備える」という記述があり、これが火を使わずに過ごす寒食節のルーツとみられる[7]。古い火を消して新しい火を得る火改は、カトリック教会の復活祭前夜やインカ帝国のインティ・ライミ、スコットランドやアイルランドのベルテーン祝祭(英語版)、イランのサデー(英語版)など世界各地に古くから存在し、中国のものもその中の一つと考えられる[8]。火改の祭にはイースターファイヤー(英語版)のように焚火をともなうものも多く、介子推の焼死という伝説が寒食節に採用された背景には山焼きや人身御供などの風習が火改に存在した可能性が示唆される[9]。 伝承の成立[編集] 介子推が隠棲したとされる綿山 寒食節は介子推の焼死を弔って火を使わず冷たい食事だけで過ごすようになった、という伝説が広く知られている[3]。この伝説では「晋の文公に仕えた介子推は論功行賞に漏れたことをきっかけに母と綿山の山中に隠棲し、文公からの呼び出しに応じなかった[3]。文公は下山させるために綿山に火を放ったが、介子推は母を抱いたまま山中の洞窟で焼死した。憐れんだ文公は、山に廟を建てて介子推を祀るとともに命日から3日間は火を使わずに過ごすよう命じ、これが寒食節になった。」とされる[3]。 しかし、介子推について最も古い記述とみられる先秦の『春秋左氏伝』の僖公二十四年の記述では「介子推が母とともに遁世して亡くなったのち、文公は介子推を探索したが見つけられず、処遇の過ちを後悔して綿上の地を介子推に封じた」とあり、焼死の要素は全くない[10]。これに対し、戦国時代に書かれた『荘子』の雑篇・盗跖第二十九では神話的な描写が強くなり、「介子推は飢えた文公に自分の腿肉を食べさせるなど忠誠を尽くしたが隠遁し、呼び出しに応じず最後は樹木に抱きついたまま燔死した」と焼死という結末が出てきており、これが後代に影響を及ぼしたとみられる[10][11]。また、戦国末期の『呂氏春秋』の巻十二・季冬紀第十二、および前漢に成立した『史記』の晋世家第九における記述には、春秋左氏伝と同じく焼死のエピソードはない[12]。 一方で、前漢の『新序』の巻七・節士の條は「介子推は論功行賞の不満を歌に仮託し、文公の謝罪を受けたが綿山に隠棲し、呼び出すために山に火をかけられ焚死した」という内容になっており、呂氏春秋にあった歌など各書物の要素を取り入れながら、焚死までの流れを完成させた形となっている[13]。後漢前期に書かれた『新論』には介子推の伝説と寒食の風習が合致したとあり、さらに後漢後期に蔡邕が著した『琴操』龍蛇歌の條では「介子推の焚死後、文公は後悔して禁火令を施行した」というストーリーが描かれ、介子推の焼死と寒食節の関連が明示されている[13]。このため、後漢期に寒食節と介子推の弔いを紐づける見方が一般化したとみられる[13]。 なお、宋代に書かれた『歳時広記』が引用した唐代の『朝野僉載』では、介子推の妹とされる妬女とともに兄妹を祀った妬女廟が并州にあると記録されている[9]。また、2008年には介子推の故郷とされる山西省の介休市綿山で中国清明(寒食)文化祭が催されるなど、伝説は現代でも関心を引いている[3]。

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