浅岡齋 – Wikipedia

浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 – 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。

愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。東京実業高等学校を2年で中退[2]。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。

27歳の時、市内元能見町の岡崎織布株式会社に入社。人事係に配置される。労働運動の盛んな頃であり、運動家の尖鋭分子たちに神社に一人で呼び出され「お互いに労働者でありながら、女工さんや職工諸君が少しでも人間らしい生活をしようとして立上れば、君がすぐ邪魔をする。少しは恥を知ったらどうだ」と凄まれたこともあったという。繊維会社時代は黒柳久太郎社長のもとでよく鍛えられたという。

1936年(昭和11年)、黒柳の会社を退社。4月に岡崎市役所に採用される。1945年(昭和20年)2月、防衛課長就任。同年7月20日未明の岡崎空襲においては市防空本部の監視哨長として市庁舎を戦火から守った。

1946年(昭和21年)4月、建設課長就任。1948年(昭和23年)2月11日、岡崎市消防長就任。なお、岡崎市消防本部はこの年の3月7日に発足している。

1954年(昭和29年)11月10日、編纂者の一人として携わった『岡崎市戦災復興誌』が刊行。

岡崎市助役に就任[編集]

1955年(昭和30年)4月に竹内京治が岡崎市長選挙に3選。同年6月、手腕と功績を買われ、助役に抜擢される[注 1]。戦災復興とこれに伴う都市計画事業推進のほか[注 2][注 3][注 4]、数多くの近代工場の誘致に尽力した(後述)。1959年(昭和34年)4月、義兄の太田光二[11]が市長選に立候補し、4選を狙う竹内を破る。

1967年(昭和42年)6月28日、任期満了により助役を退任[12]。退任後は、名鉄グループが出資設立した康生通西の西三河総合ビル、岡崎陸運株式会社[注 5]を前身とする岡陸タクシーの各代表取締役を務め経済界でも活躍した[14]

1969年(昭和44年)7月に盟友の榊原金之助県議が脳卒中で倒れると[15][16]、周囲から後継者として出馬を勧められるようになる。義兄の太田市長が4選出馬の意思を固める前に運動を開始[17]。1971年(昭和46年)4月11日の愛知県議会議員選挙に自由民主党公認で立候補し初当選した[18]。なお、4月25日には市長選も行われ、太田は前県議の内田喜久に敗れた。県議選の結果は以下のとおり[注 6]

※当日有権者数:137,526人 最終投票率:71.50%(前回比:+13.92%)

候補者名 当落 年齢 所属党派 新旧別 得票数
近藤春次 65 自由民主党 21,318票
浅岡齋 64 自由民主党 15,257票
長坂信 45 民社党 12,890票
田中定雄 46 日本共産党 12,065票
山田悠紀男 57 日本社会党 10,882票
長坂定 43 自由民主党 9,284票
坂部鉦一 自由民主党 7,501票
柴田八重 無所属 6,485票
山本謙二 62 無所属 1,351票
神谷光男 46 無所属 507票

1975年(昭和50年)の県議選は出馬せず、1期で退任した。

1981年(昭和51年)11月、地方自治の発展に尽くした功労で勲五等瑞宝章を受章。

1983年(昭和58年)3月22日、脳血栓症のため三嶋内科病院で死去[14]。76歳没。

工場誘致[編集]

浅岡が助役在職中に手がけた工場誘致の実績は以下のとおり。

注釈[編集]

  1. ^ 浅岡を助役に推薦したのは、岡崎商工会議所会頭の田口宗平、岡崎陸運社長の林茂、元男川村長・元岡崎市助役の安藤平一、東海新聞社社長の榊原金之助らだったと言われている[6]
  2. ^ 岡崎市は戦後復興に関し、1949年(昭和24年)に全国の「戦災復興モデル都市」に指定され、1952年(昭和26年)に長岡市と名古屋市とともに建設大臣表彰を受けた。
  3. ^ 太田光二は市長だった当時(1967年)、市の広報紙で次のように述べている。「戦災復興家屋の用材集めは彼の一代の大活躍であり、そのために風邪をひきアスピリンをのみすぎて胃腸をこわし死にそうになったこともある」[8][9]
  4. ^ 岡崎市における戦後の復興状況について榊原金之助は次のように記した。「浅岡課長は頑張った。資材不足、人手も不足、仕事の虫の馬力だけが際立って光ってみえた。桝塚航空隊軍用材の払下げ、東西加茂、額田、遠くは京都、鳥取にまで及ぶ木材の大量買付、直営工事現場の督励、釘、トタン、瓦の買付、直営製材所の経営など昼夜をわかたぬ大車輪の活躍は市民の眼をみはらせた。東加茂の山野を脚絆がけで駈け回った『あのころ』の精悍なイガ栗坊主浅岡斉の闘志こそは、市の復興史を貫く一本の背骨だったといっても決して過褒ではあるまい」[10]
  5. ^ 岡崎陸運株式会社は、1942年(昭和17年)5月に公布された企業整備令により、市内6つの陸上運送会社が統合してできた会社。1943年(昭和18年)11月より営業開始した。
  6. ^ トヨタ労組は長らく社会党を支援していたが、1968年に舵を切り民主社会党(翌年に民社党に改称)の支持母体となった[19]。民社党は1971年の県議選・岡崎市選挙区に際して、元社会党県議の長坂信治の息子の長坂信を擁立。このため社会党現職の山田悠紀男がすべり落ちる結果となった。なお長坂信は、映画・テレビプロデューサーの長坂信人の父親である。
  7. ^ クラタ産業は1937年4月、幡豆町(現・西尾市)にて創業した。1956年7月、市内羽根町字小豆坂3番地に移転し、2006年5月に市内羽栗町に再移転した[20]。羽根町の工場跡地には大型ショッピングモール「ウイングタウン岡崎」が建った。
  8. ^ 豊興(とよおき)工業株式会社は、豊田工機(現・ジェイテクト)の刈谷機械製作所から工作機械用油圧機器の設計を目的として分離した会社。1958年2月1日、鉢地町に設立された[21]
  9. ^ 日本高分子管株式会社は、日清紡グループが紡績用プラスチックボビンの特許取得を機に大平町に設立した会社。2010年に日清紡メカトロニクスに吸収合併された[22]
  10. ^ 新三菱重工(現・三菱自動車工業)は1961年(昭和36年)、先発のトヨタ、日産、いすず等と同様に高速道路時代に対応した大型のテストコース付乗用車専門工場の建設のために、岡崎市橋目町に進出した[24]
  11. ^ 日本セキソウ工業は1954年に長野県岡谷市で設立された。1961年4月12日、岡崎工場が日名北町に建てられた[23]。現在の社名はセキソー。
  12. ^ 名古屋エラスチック製砥はレジノイド研削砥石専業メーカーとして1939年に創業した。1962年10月27日、岡崎工場が岡町に建てられた[23]。現在の社名はエラステック。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。
  • 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日。
  • 東海新聞社編纂『岡崎市戦災復興誌』岡崎市役所、1954年11月10日。
  • 林茂、浅岡斉ほか11名『三河現代史』東海タイムズ社、1959年11月5日。