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開催日
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優勝者
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タイム
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備考
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1
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000000001947-12-07-00001947年12月7日
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和田敏一 (JPN)
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2時間45分45秒
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熊本市で開催
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2
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000000001948-12-05-00001948年12月5日
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山田三郎 (JPN)
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2時間37分25秒
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高松市で開催
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3
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000000001949-12-04-00001949年12月4日
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古賀新三 (JPN)
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2時間40分26秒
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静岡市で開催
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4
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000000001950-12-10-00001950年12月10日
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小柳舜治 (JPN)
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2時間30分47秒
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広島市で開催
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5
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000000001951-12-09-00001951年12月9日
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拝郷弘美 (JPN)
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2時間30分13秒
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福岡市―前原町(当時)折り返しで開催
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6
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000000001952-12-07-00001952年12月7日
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西田勝雄 (JPN)
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2時間27分59秒
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宇部市で開催
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7
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000000001953-12-06-00001953年12月6日
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濱村秀雄 (JPN)
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2時間27分26秒
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名古屋市で開催
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8
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000000001954-12-05-00001954年12月5日
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レイナルド・ゴルノ (ARG)
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2時間24分55秒
|
日本国内のマラソン大会で初めて、外国籍の選手を初めて招待。 鎌倉市―横浜市折り返しで開催。
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9
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000000001955-12-11-00001955年12月11日
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ヴェイッコ・カルボネン (FIN)
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2時間23分16秒
|
大会名を 「朝日国際マラソン」に変更。 福岡市―古賀町(当時)折り返しで開催
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10
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000000001956-12-09-00001956年12月9日
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山田敬蔵 (JPN)
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2時間25分15秒
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名古屋市で開催。外国人選手参加なし
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11
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000000001957-12-01-00001957年12月1日
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廣島庫夫 (JPN)
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2時間21分40秒
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福岡市(雁の巣折り返し)で開催
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12
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000000001958-12-07-00001958年12月7日
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貞永信義 (JPN)
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2時間24分01秒
|
宇都宮市―日光市折り返しで開催
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13
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000000001959-11-08-00001959年11月8日
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廣島庫夫 (JPN) -2-
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2時間29分34秒
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福岡市(雁の巣折り返し)で開催。 この大会から開催地を福岡市に固定(1963年を除く)
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14
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000000001960-12-04-00001960年12月4日
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バリー・マギー (NZL)
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2時間19分04秒
|
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15
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000000001961-12-03-00001961年12月3日
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パベル・カントレク (CZE)
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2時間22分05秒
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国際陸連(IAAF)のルール改正に沿って、この大会からコース上に給水所を設置。
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16
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000000001962-12-02-00001962年12月2日
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寺沢徹 (JPN)
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2時間16分18秒4
|
IAAFのルール改正によって、記録の表記を10分の1秒単位に変更。大会前まで日本最高記録を保持していた中尾隆行(2位)と、フルマラソン初挑戦の君原健二(3位)も、中尾の従来の記録を更新した[43] |
17
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000000001963-10-15-00001963年10月15日
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ジェフリー・ジュリアン (NZL)
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2時間18分00秒6
|
1964年東京オリンピックのプレイベントとして、本大会のみ、オリンピックのマラソン競技と同じコース(東京都内)で開催。
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18
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000000001964-12-06-00001964年12月6日
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寺沢徹 (JPN) -2-
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2時間14分48秒2
|
この大会から、福岡市内で再び開催。前年(1963年)の別府大分毎日マラソンで2時間15分15秒8の世界最高記録(当時)を樹立しながら、46日前に開催の東京オリンピック・マラソン競技で15位に終わった寺沢が、2年前(1962年)の第16回大会で達成した日本最高記録を更新[44]。
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19
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000000001965-10-10-00001965年10月10日
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廣島日出国 (JPN)
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2時間18分35秒8
|
東京オリンピックの開会式を記念して、開会式からちょうど1年後に開催[45]。
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20
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000000001966-11-27-00001966年11月27日
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マイク・ライアン (NZL)
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2時間14分04秒4
|
大会名を「国際マラソン選手権」に変更。
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21
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000000001967-12-03-00001967年12月3日
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デレク・クレイトン (AUS)
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2時間09分36秒4
|
世界の男子フルマラソン史上初めての2時間10分の壁を破ってゴール。クレイトンと一時首位争いを展開していた佐々木精一郎が、当時の日本最高記録(2時間11分17秒)で2位に入った[46]。
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22
|
000000001968-12-08-00001968年12月8日
|
ビル・アドコックス (GBR)
|
2時間10分47秒8
|
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23
|
000000001969-12-07-00001969年12月7日
|
ジェロム・ドレイトン (CAN)
|
2時間11分12秒8
|
|
24
|
000000001970-12-06-00001970年12月6日
|
宇佐美彰朗 (JPN)
|
2時間10分37秒8
|
日本人のフルマラソン選手では初めて、2時間10分台でゴール。この記録は、当時の世界歴代3位でもあった[47]。
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25
|
000000001971-12-05-00001971年12月5日
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フランク・ショーター (USA)
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2時間12分50秒4
|
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26
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000000001972-12-03-00001972年12月3日
|
フランク・ショーター (USA) -2-
|
2時間10分30秒0
|
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27
|
000000001973-12-02-00001973年12月2日
|
フランク・ショーター (USA) -3-
|
2時間11分45秒0
|
|
28
|
000000001974-12-08-00001974年12月8日
|
フランク・ショーター (USA) -4-
|
2時間11分31秒2
|
大会名を「福岡国際マラソン選手権」に変更。
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29
|
000000001975-12-07-00001975年12月7日
|
ジェロム・ドレイトン (CAN) -2-
|
2時間10分08秒4
|
前年(1974年)まで大会4連覇を達成していたショーターは欠場[48]。
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30
|
000000001976-12-05-00001976年12月5日
|
ジェロム・ドレイトン (CAN) -3-
|
2時間12分35秒0
|
|
31
|
000000001977-12-04-00001977年12月4日
|
ビル・ロジャース (USA)
|
2時間10分55秒3
|
この年の世界最高記録で優勝。フルマラソン2回目の瀬古利彦が、大会初出場ながら、日本人最高の5位で入賞を果たした[49]。
|
32
|
000000001978-12-03-00001978年12月3日
|
瀬古利彦 (JPN)
|
2時間10分21秒0
|
|
33
|
000000001979-12-02-00001979年12月2日
|
瀬古利彦 (JPN) -2-
|
2時間10分35秒
|
IAAFのルール改正に沿って、秒単位での記録表記を再開。
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34
|
000000001980-12-07-00001980年12月7日
|
瀬古利彦 (JPN) -3-
|
2時間09分45秒
|
宗猛が瀬古に4秒差の2位でゴール。世界のフルマラソン大会では初めて、2人のランナーが2時間10分台を切るタイムで完走した。
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35
|
000000001981-12-06-00001981年12月6日
|
ロバート・ド・キャステラ (AUS)
|
2時間08分18秒
|
大会終了の時点では、世界歴代2位の記録とみなされていた(詳細後述)。
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36
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000000001982-12-05-00001982年12月5日
|
ポール・バリンジャー (NZL)
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2時間10分15秒
|
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37
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000000001983-12-04-00001983年12月4日
|
瀬古利彦 (JPN) -4-
|
2時間08分52秒
|
|
38
|
000000001984-12-02-00001984年12月2日
|
中山竹通 (JPN)
|
2時間10分00秒
|
当時は無名ながら、2時間9分台に迫るゴールタイムで初優勝。
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39
|
000000001985-12-01-00001985年12月1日
|
新宅雅也 (JPN)
|
2時間09分51秒
|
海の中道区間を廃止する一方で、早良区・城南区を経由するルートを追加。折り返し点も和白丘へ移動させた。
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40
|
000000001986-12-07-00001986年12月7日
|
ジュマ・イカンガー (TZA)
|
2時間10分06秒
|
|
41
|
000000001987-12-06-00001987年12月6日
|
中山竹通 (JPN) -2-
|
2時間08分18秒
|
ソウルオリンピック・男子マラソンの日本代表選考会として開催された。日本陸連はこの大会の結果だけで3人の代表を一挙に決める「福岡一発勝負」の方針を立てていたが、出場を予定していた有力候補の瀬古が、左足腓骨の剥離骨折で大会の直前に突然欠場を表明。この大会では優勝の中山・総合2位の新宅雅也が代表に内定したものの、日本陸連は日本人3位(総合4位)の工藤一良への内定を見送ったうえで、翌1988年初頭の東京国際マラソン・びわ湖毎日マラソンの結果を3人目の代表選考で勘案する方針に転換した。実際には瀬古がびわ湖毎日マラソンでの優勝で代表に滑り込んだものの、ゴールタイムは2時間12分41秒で、工藤の記録(2時間11分36秒)を下回った[50]。
|
42
|
000000001988-12-04-00001988年12月4日
|
渋谷俊浩 (JPN)
|
2時間11分04秒
|
昭和時代最後の大会で、この年のロッテルダムマラソンで2時間6分50秒の世界最高記録(当時)を樹立していたベライン・デンシモ(後述)が、前年の第41回大会に続いて出場。平和台陸上競技場の手前(ゴールまで約700m)から渋谷との間でデットヒートを展開していたが、競技場のゲートに通じている左折コースを外れて直進した。競技役員の制止ですぐにコースへ戻ったものの、このミスが響いて、トラック内の残り100mで渋谷に振り切られた[51]。
|
43
|
000000001989-12-03-00001989年12月3日
|
マヌエル・マティアス (PRT)
|
2時間12分54秒
|
平成時代最後の大会。スタート時点での気温が17.9℃、中間点で18℃(いずれも公式計測)という季節外れの高温に見舞われた[52]。
|
44
|
000000001990-12-02-00001990年12月2日
|
ベライン・デンシモ (ETH)
|
2時間11分35秒
|
|
45
|
000000001991-12-01-00001991年12月1日
|
森田修一 (JPN)
|
2時間10分58秒
|
この大会から、西区経由・香椎折り返しのルートを採用。
|
46
|
000000001992-12-06-00001992年12月6日
|
テナ・ネゲレ (ETH)
|
2時間09分04秒
|
|
47
|
000000001993-12-05-00001993年12月5日
|
ディオニシオ・セロン (MEX)
|
2時間08分51秒
|
|
48
|
000000001994-12-04-00001994年12月4日
|
ボアイ・アコナイ (TZA)
|
2時間09分45秒
|
|
49
|
000000001995-12-03-00001995年12月3日
|
ルイス・アントニオ・ドスサントス (BRA)
|
2時間09分30秒
|
|
50
|
000000001996-12-01-00001996年12月1日
|
李鳳柱 (KOR)
|
2時間10分48秒
|
|
51
|
000000001997-12-07-00001997年12月7日
|
ジョサイア・チュグワネ (ZAF)
|
2時間07分28秒
|
|
52
|
000000001998-12-06-00001998年12月6日
|
ジャクソン・カビガ (KEN)
|
2時間08分42秒
|
|
53
|
000000001999-12-05-00001999年12月5日
|
ゲザハン・アベラ (ETH)
|
2時間07分54秒
|
|
54
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000000002000-12-03-00002000年12月3日
|
藤田敦史 (JPN)
|
2時間06分51秒
|
3回目のフルマラソンでコースレコードを達成。この記録は、2020年の第74回大会終了時点でも更新されていない。前年の第53回大会に続いて、この年のシドニーオリンピック・男子フルマラソン競技でも優勝していたアベラを終盤で振り切った末の樹立であった[53]。
|
55
|
000000002001-12-02-00002001年12月2日
|
ゲザハン・アベラ (ETH) -2-
|
2時間09分25秒
|
|
56
|
000000002002-12-01-00002002年12月1日
|
ゲザハン・アベラ (ETH) -3-
|
2時間09分13秒
|
|
57
|
000000002003-12-07-00002003年12月7日
|
国近友昭 (JPN)
|
2時間07分52秒
|
|
58
|
000000002004-12-05-00002004年12月5日
|
尾方剛 (JPN)
|
2時間09分10秒
|
|
59
|
000000002005-12-04-00002005年12月4日
|
ドミトロ・バラノフスキー (UKR)
|
2時間08分29秒
|
|
60
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000000002006-12-03-00002006年12月3日
|
ハイレ・ゲブレセラシェ (ETH)
|
2時間06分52秒
|
|
61
|
000000002007-12-02-00002007年12月2日
|
サムエル・ワンジル (KEN)
|
2時間06分39秒
|
|
62
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000000002008-12-07-00002008年12月7日
|
ツェガエ・ケベデ (ETH)
|
2時間06分10秒
|
|
63
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000000002009-12-06-00002009年12月6日
|
ツェガエ・ケベデ (ETH) -2-
|
2時間05分18秒
|
日本国内の男子マラソン大会で初めて、2時間5分台のタイムでゴール。
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64
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000000002010-12-05-00002010年12月5日
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ジャウアド・ガリブ (MAR)
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2時間08分24秒
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ペースメーカーとして5kmを15分10秒前後のペースで30kmまで先頭集団を引っ張る契約を主催者と結んでいたエリウド・キプタヌイ(英語版)(ケニア)が、15kmから急に加速しながら独走。30kmを過ぎても棄権しなかったため係員に制止された[54]。
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65
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000000002011-12-04-00002011年12月4日
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ジョセファト・ダビリ (KEN)
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2時間07分37秒
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66
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000000002012-12-02-00002012年12月2日
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ジョセフ・ギタウ (KEN)
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2時間06分58秒
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67
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000000002013-12-01-00002013年12月1日
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マーティン・マサシ (KEN)
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2時間07分16秒
|
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68
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000000002014-12-07-00002014年12月7日
|
パトリック・マカウ (KEN)
|
2時間08分22秒
|
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69
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000000002015-12-06-00002015年12月6日
|
パトリック・マカウ (KEN) -2-
|
2時間08分18秒
|
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70
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000000002016-12-04-00002016年12月4日
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イエマネ・ツェガエ (ETH)
|
2時間08分48秒
|
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71
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000000002017-12-03-00002017年12月3日
|
ソンドレ・ノールスタッド・モーエン(英語版) (NOR)
|
2時間05分48秒
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72
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000000002018-12-02-00002018年12月2日
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服部勇馬 (JPN)
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2時間07分27秒
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平成時代最後の大会で、12月上旬の福岡開催が定着した第21回(1967年)以降の大会では初めて、スタート時点での気温が20度を超えた(公式には20.2℃を計測)[55]。
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73
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000000002019-12-01-00002019年12月1日
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藤本拓 (JPN)
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2時間09分36秒
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令和時代最初の大会で、エルマハジューブ・ダザ(モロッコ)が2時間07分10秒で優勝したものの、世界陸連が2020年夏にダザのドーピング違反を認定。大会事務局では2021年5月11日に、ダザの優勝と記録を取り消すことを発表するとともに、2位の藤本を改めて優勝者に認定した[36]。
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74
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000000002020-12-06-00002020年12月6日
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吉田祐也 (JPN)
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2時間07分05秒
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新型コロナウイルス感染拡大防止策の一環で、参加選手とペースメーカーを日本国内で活動している選手に限定。参加人数の上限も、100名にまで絞り込んだ。
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75
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000000002021-12-05-00002021年12月5日
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マイケル・ギザエ (KEN)
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2時間07分51秒
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ギザエは福岡第一高等学校の卒業生で、日本国内(スズキアスリートクラブ)で活動していることから一般参加扱いで出場。日本人選手トップ(総合2位)の細谷恭平および、日本人選手内での2位以下の選手のうち、ゴールタイムが2時間9分以内の大塚祥平(4位)・高久龍(5位)・上門大祐(6位)が2024年パリオリンピックの男子マラソン日本代表候補を決めるMGC(2023年秋開催)への出場権を得た。
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