野村庄吾 – Wikipedia

野村 庄吾(のむら しょうご、1931年 -2019 )は、発達心理学を専門とする日本の心理学者[1]。京都教育大学、奈良女子大学、花園大学の教授を歴任した[2]。 金沢市生まれ[1]。 京都大学教育学部に学び、1954年に卒業した[1]。 発達心理学を専門とし、「発達障害」という用語が一般化する以前から障害の問題について研究に取り組んだ[3]。 また、「笑い」の心理学的研究にも取り組んだ[4]。 おもな著書[編集] 単著[編集] 『乳幼児の世界:こころの発達』岩波書店(岩波新書)、1980年 『障害をもつこと育つこと(子どもと教育を考える 13)』岩波書店、1984年 『スコットランドの小さな学校』岩波書店(岩波新書)、1994年 『笑吾先生子育ちばなし』大宮書房、1995年 『障害児教育入門』岩波書店(子どもと教育)、1996年 編著[編集] (岡本夏木との共編著)『育つことのうちそと:児童から青年への発達』ミネルヴァ書房、1979年 『新・児童心理学講座

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山本俊嗣 – Wikipedia

この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。出典検索?: “山本俊嗣” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年12月) 山本 俊嗣(やまもと としつぐ、1964年9月29日 – )は、日本の元ラグビー選手。現役時代の体格は、身長182cm、体重85kg。 プロフィール[編集] 志摩町立引津小学校時代は暇さえあれば校庭にあったラグビーポストを使ってキックの練習を行い、後に役立つキックの技術を身に着けた。小学5年の時に引津リトルラガーズでラグビーを始め、中学ではラグビー部がなかったためバスケットボール部に入部しながらラグビースクールで楕円球を追った。福岡県立糸島高等学校に進学してスタンドオフとして活躍する。福岡県大会上位進出の常連であったが、花園出場はならなかった。福岡大学時代は、ライバル校の福岡工業大学の同学年に沖土居稔という才能豊かな選手がおり、苦しめられた。4年生になって全国大学選手権出場を果たしたのは、そのエースが日本代表に招集されてチームを不在にしている時に勝ち、九州の大学リーグを制したからであった(この年の大学選手権では1回戦で敗退も、21-33と明治大学と競った)。 目立つ活躍とは無縁であったが「九州協会関係者の推薦もあって」4年生の頃から夏の日本代表候補合宿に沖土居と共に呼ばれた。サントリーに入社したのは、当時チームの監督を務め、日本A代表の指導などをしていた山本巌監督に誘ってもらったからであった。先に入社が決まっていたライバルの沖土居が口を聞いてくれたのが縁になった。社会人になってからはフルバックに専念し、1988年の秋には初キャップ、1989年のスコットランド戦では28-24で歴史的な勝利を収めた。スコットランド戦に関しては概して「キックオフでボールの心にキックが当たらなかったが、相手の反則からペナルティーゴールを狙った」と自身のプレイについて後年の記事で振り返っている。 プレースタイル[編集] 足は遅いと自認していたが、相手キックに対するフィールディングとタックルには定評があった。パワーのあるキックも高い評価を得ていた。とりわけキックに関してはスコットランド戦の記事で太ももの太さを指摘されるなど光るものがあり、これについて本人は「キックは好きで、小さなころからよく蹴っていたので」と言った。同じくスコットランド戦期待されていたディフェンス面で結果を残せたのは、サントリー入社後から積み重ねたフルバックのポジション練習があったからであったと明かしている。 参考文献[編集]

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二個師団増設問題 – Wikipedia

二個師団増設問題(にこしだんぞうせつもんだい)とは、日露戦争後の情勢を受けて明治後期から大正初期にかけての日本において発生した陸軍拡張をめぐる政治問題。第2次西園寺公望内閣は軍の拡張要求を拒否、軍は上原勇作陸相を辞任させて後任を出さず同内閣を倒した[1]。 二個師団増設の方針[編集] 1904年(明治36年)の日露戦争開戦直前の陸軍は13個師団体制であったが、戦時中に4個、戦後の1906年にはさらに2個増強されて19個師団体制となった[2]。陸軍では戦時中から満州軍参謀本部を中心に戦後のロシアによる報復を予測するとともに従来の守戦中心の作戦から攻勢中心の作戦に切り替えるべきという考えから19個師団から20個師団程度の増強を望んでおりその水準は達成していたが、陸軍に大きな影響力を持つ山縣有朋はこれを機に「平時25個師団・戦時50個師団」まで拡張すべきだと主張、海軍もアメリカを仮想敵国とした八八艦隊構想を抱いており両者の構想が組み合わさる形で、「帝国国防方針」案が作成された。同案は1906年10月に上奏され、翌1907年4月になって裁可を得た[2][3]。この方針に関して軍部は統帥権を根拠にして内閣の関与を一切認めなかったが、内閣総理大臣である西園寺公望は「財政の状況が許す限り」という前提を付けた上でこの方針に同意した[3]。 財政難と増設案の対立[編集] 陸軍と内閣の協調と対立(明治期)[編集] 陸軍は当面の目標として朝鮮半島に駐留させる2個師団の増師(師団増設)を行って21個師団体制にすることを望んだ[2]。だが、戦後の財政難の中で第1次西園寺内閣も第2次桂内閣もそれを行うことはなかった[3]。1911年に成立した第2次西園寺内閣の陸軍大臣の石本新六はその方針を変えなかったが、内閣との対決は避けて協調する方針を取っていた[4]。ところが、1912年(明治45年/大正元年)4月に石本陸相が急死して後任に上原勇作が就任すると、軍務局長の田中義一とともに政財界に対して積極的な働きかけを始めることになる[2][3][4]。陸軍は、 シベリア鉄道の複線化によりロシア軍の増強が容易になっている。 辛亥革命によって中国情勢が不安定になっている。 日韓併合によって常設部隊の必要性が生じた(従来は内地(日本本土)の師団を交替で派遣していたが、非常時には対応が困難)。 として、増設の必要性が高まっていると主張した[3][4]。これに対して、内閣は 財政難。 日露協商の成立で日露関係は安定している。 世論が増設に反対している。 として、時期尚早であるとした[3][4]。当時、内閣は行財政整理と減税および継続中の海軍充実の財源に充てるために各省に対して予算の1割(10%)の削減を求めていたが、陸軍はこれを実質3%に抑えてその差分の7%を2個師団の増設予算に回すように求めた[3][4]。世論の支持を受けた内閣と政財界に支持を広げた陸軍の対立が続いたが、明治天皇の崩御(7月30日)と大喪(9月13日)があり、結論は先送りされた[4]。 陸軍と内閣の対立と抗争(大正期)[編集] 大喪が終わると、陸軍は内閣に対して2個師団の増設の理由を説明させて欲しいと求め、責任者である田中、続いて大臣である上原が説明を行ったが、閣議の納得を得られず、続いて山縣有朋と西園寺公望が会談を行った。当初は、陸軍側の要望も受け入れて欲しいと要請した山縣も、2度目の会談で増師が実現しないと重大な事態を招くと西園寺に迫り、会談は決裂に至った[4]。山縣は二個師団増設問題を強引に推し進めることに危ないものを感じ、将来の増設への手がかりを残すことを内閣と約すことで、内閣と陸軍の妥協を図ろうとした[5]。しかし、山縣が風邪で東京に戻るのが遅れているうちに、桂太郎に煽動された上原は11月22日の閣議において2個師団増加のために今後6年間に200万円ずつの財源をつけるように要求した[2]。内閣はこれを拒否、世間でも増師反対大会が開かれるに至った[4]。これを受けて、上原は12月2日に大正天皇に対して帷幄上奏をして自身の辞職の旨を伝えた。陸軍は後任を推薦せずに5日に西園寺内閣は総辞職した(軍部大臣現役武官制)[2][3][4]。この総辞職の過程は政党(立憲政友会)を基盤とした内閣と藩閥・軍部・官僚の抗争という要素があった[4]が、藩閥や軍部に対する人々の怒りを招き、陸軍の後押しを受けた第3次桂内閣は第一次護憲運動によって2か月で崩壊した(大正政変)[2][3][4]。 二個師団の設置[編集] 1914年に第一次世界大戦が勃発し、当時の第2次大隈内閣は2個師団増設の必要を認めて予算案を提出したが、かつての西園寺内閣の支持基盤で大正政変を主導した立憲政友会の反対で否決、衆議院は解散されて1915年3月25日に第12回衆議院議員総選挙が行われた。この選挙で大隈内閣を支持する党派が勝利を納め、同年6月になって2個師団増設の予算案が認められた。これを受けてこの年の12月に第19師団と第20師団が咸鏡北道の羅南と京城郊外の竜山にそれぞれ設置された[2]。 ^ 2個師団増設問題(読み)にこしだんぞうせつもんだいコトバンク

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カルラス・デルクラウス・イス – Wikipedia

Joan Miró, Carles Delclaux y Royo 1970年に工場でおしゃべりAymat 「Empordanet」断片カーペット、350×700センチ。、チャールズDelclaux、1981 「あなたにだけの花」タペストリー、210×300センチ、チャールズDelclaux、1981 カルラス・デルクラウス・イス(Carles Delclaux Is、1951年-)は、スペインカタルーニャのサン・クガ・デル・バリェスで生まれ、バルセロナのAymat de Sant Cugat工場およびla Escuela de Bellas Artes Massanaで修練を積んだ織物芸術家[1][2][3]。

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アレクサンドラス・ストゥルギンスキス大学 – Wikipedia

アレクサンドラス・ストゥルギンスキス大学 アレクサンドラス・ストゥルギンスキス大学(リトアニア語: Aleksandro Stulginskio universitetas、略称: ASU)は、リトアニア・カウナスにある国立大学。 リトアニア大学に農業森林学科が再設された後、1924年9月3日、ドトヌヴァ (Dotnuva) に農業アカデミー (Žemės ūkio akademija) が設立された。初代学長にはポヴィラス・マトゥリオニス (Povilas Matulionis) 教授が選出された。当時のリトアニア経済は困難に直面しており、政府が高等教育機関の新設を支援することは難しかったが、そんな中でもアカデミーは発展を遂げていった。1924年から1937年までのあいだ、125名が論文を提出し、学位を取得している。しかし、第2次世界大戦が始まると多くの教員がシベリアへと送還、抑留され、そのほかの教員も強制送還から逃れるために西側諸国へと亡命した。 1945年、アカデミーはリトアニア農業アカデミー (Lietuvos žemės ūkio

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山川幸雄 – Wikipedia

山川 幸雄 山川幸雄・柳子夫妻 人物情報 生誕 明治元年1月28日(1868年2月21日)土佐国土佐郡高知水通町 死没 1922年(大正11年)5月26日東京府東京市小石川区大塚腸疾患 国籍 日本 出身校 ゲッティンゲン大学法学部 配偶者 山川柳子 両親 山川幸喜、須磨 子供 山川幸世、山川弥千枝 学問 活動地域

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スマートループ – Wikipedia

スマートループ対応カーナビ楽ナビ AVIC-RZ03 スマートループ(英語: Smart Loop)は、日本のAV機器メーカーであるパイオニアの提供するプローブ型渋滞情報サービス。ユーザーから収集されたデータで構築されている。 目次 1 概要 2 スマートループアイ 2.1 概要 2.2 対応車載機 3 対応車載機・メーカー 4 類似サービス・他社サービス 5 出典

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チャ・ウンテク – Wikipedia

2016年11月8日、ソウル中央地方検察庁(朝鮮語版)に出頭するチャ・ウンテク 車 ウンテク(チャ・ウンテク、朝鮮語: 차 은택、1969年12月16日 -)は、韓国の音楽家、映像監督、実業家。広告会社「アフリカ・ピクチャーズ」社長。2016年に霊媒師・崔順実との関係が注目されるようになり、崔らとともに逮捕されている。 チャ・ウンテクは広告界、音楽界、映画界など芸術分野で広く活動する映像の専門家である。1997年、イ・ミンギュのミュージック・ビデオ「お嬢さん」でデビュー。イ・ヒョリの「U-Go-Girl」、BIGBANGの「LIES」、Waxの「化粧を落として」、李承桓(朝鮮語版)の「懇願」、ブラウンアイズ(英語版)の「もう1年」などのミュージック・ビデオを手がけた。SKテレコムの「赤い悪魔シリーズ」やチョン・ウソン・チョン・ジヒョンの「2%だけ足りない時」、イ・ヒョリの「アニメモーション」などのCM監督も務めた他、歌手白智榮(朝鮮語版)の「愛さない」の作詞にも携わっている。2001年・2005年・2006年の三度にわたってゴールデンディスク賞ミュージックビデオ監督賞を受賞し、2002年にはカンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバルニューメディア部門金賞を受賞している[1][2][3][4]。 朴槿恵政権で大統領秘書室首席秘書官(朝鮮語版)を務めた金尚律(朝鮮語版)は母方の叔父にあたる。朴槿恵政権発足後、急速に芸術・芸能界における存在感を高め、2014年8月に大統領直属の文化隆盛委員に任命され、仁川アジア大会の映像監督、ミラノ万博韓国館映像監督、創造経済推進団長など要職を歴任[5][6]。「文化界の皇太子」と呼ばれるまでになり、その地位を利用して金鍾德や金尚律、宋星珏などの腹心を政府や業界団体の人事に反映させた。青瓦台にもフリーパスで出入りしていた[7]。スポーツ開発院が国民体操として2年間で2億ウォン以上かけて開発した「コリア体操」を直前で自身が関与する「ヌルプム体操」に差し替えたとされる。2015年度に3億5000万ウォンの政府予算がつぎ込まれ朴槿恵大統領も積極的に推進するなど、鳴り物入りでお披露目されたが、朝鮮放送は「知っている人もやってる人も皆無」としている[8]。 2016年10月26日、崔順実ゲート事件に関連して、腹心の安鍾範・前政策調整首席秘書と通謀して、通信大手KTの役員に側近を就任させ、自身が実質的支配者であるプレイグラウンドコミュニケーションズをKTの代理店とした職権乱用・権利行使妨害などの疑いで逮捕された[9]。なお、普段はカツラをつけていたため、ソウル拘置所からソウル中央地検送検される最中にカツラなしで現れた際には、一時「替え玉」説も浮上した[10]。 徽文高等学校(朝鮮語版)卒業[11] 尚志大学校 工芸学科卒業[11] 弘益大学校 映像大学院映像デザイン学修了[11] 東国大学校 文化芸術大学院演劇映画学修了[11] ^ 정현목. 자민당은

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