小山田古墳 – Wikipedia

小山田古墳(こやまだこふん)は、奈良県高市郡明日香村川原にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。

第34代舒明天皇の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか)」や、蘇我蝦夷の墓の「大陵(おおみささぎ)」に比定する説がある。

奈良盆地南縁、丸山古墳と明日香村大字岡を結ぶ道路北側の、低丘陵南面に築造された巨大方墳である。近年発見された埋没古墳であり、現在の古墳域には奈良県立明日香養護学校が立地する。これまでに数次の発掘調査が実施されている。

墳形は方形。一辺は東西で72メートル(北辺)・80メートル超(南辺)、南北で推定70メートルを測り、飛鳥時代の方墳としては最大規模になる[注 1]。主体部の埋葬施設は横穴式石室と見られ、石室の羨道跡(南方に開口)が検出されている。羨道幅は2.6メートルを測り石舞台古墳(2.1-2.6メートル)と同程度で谷首古墳(桜井市阿部、1.7メートル)を上回るほか、羨道長さは8.7メートル以上を測り石舞台古墳(11.7メートル)級と推測される。羨道入り口(羨門)は判明したが玄室部分は未判明であり(推定古墳域の中央部が発掘されたが遺構は未判明)、石室の全体規模は未だ明らかでない。

この小山田古墳は、出土土器から古墳時代終末期・飛鳥時代中頃の7世紀中頃(特に640年代)の築造と推定される。下層では6世紀後半の集落跡が認められており、築造の際にはその集落を潰したと見られるほか、築造後の7世紀後半にはすでに掘割の埋没が認められる。被葬者としては、舒明天皇の初葬地とする説のほか、蘇我蝦夷の墓とする説が挙げられている[4]。なお、付近では菖蒲池古墳(橿原市菖蒲町)などの古墳の分布も知られる[5]

来歴[編集]

  • 明治期、畑地として利用[6]
  • 1972年度(昭和47年度)、「小山田遺跡」の遺跡名称で第1次発掘調査。
  • 1989年度(平成元年度)、第2次発掘調査。
  • 1995年度(平成7年度)、第3・4次発掘調査。
  • 2014年度(平成26年度)、第5・6次発掘調査。掘割・板石積みを検出し、古墳の可能性が浮上(奈良県立橿原考古学研究所)[5]
  • 2015年度(平成27年度)、第7次発掘調査。大規模な造成跡を確認(奈良県立橿原考古学研究所)。
  • 2016年度(平成28年度)、第8次発掘調査。横穴式石室跡を検出、古墳と確定して遺跡名称を「小山田古墳」に変更(奈良県立橿原考古学研究所)[4]
  • 2017年度(平成29年度)、第9次発掘調査。石室羨道を確認(奈良県立橿原考古学研究所)。
  • 2018年度(平成30年度)、第10次発掘調査。東西の南辺が80メートル超と判明(奈良県立橿原考古学研究所)。

小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]

丘陵左に菖蒲池古墳(樹叢)
右に小山田古墳(明日香養護学校)

一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]

注釈

原典

  1. ^ 『日本書紀』舒明天皇13年(641年)10月丁酉(9日)条。
  2. ^ 『日本書紀』皇極天皇元年(642年)12月壬寅(21日)条。
  3. ^ 『日本書紀』皇極天皇2年(643年)9月壬午(6日)条。
  4. ^ 『日本書紀』皇極天皇元年(642年)12月是歳条。
  5. ^ 『日本書紀』皇極天皇3年(644年)11月条。
  6. ^ 『日本書紀』皇極天皇4年(645年)6月己酉(13日)条。

出典

参考文献[編集]

  • 橿原考古学研究所発行
  • 事典類

関連項目[編集]