アルトゥール・ネーベ – Wikipedia

アルトゥール・ネーベSS中将

アルトゥール・ネーベドイツ語: Arthur Nebe, 1894年11月13日 – 1945年3月21日)は、ナチス・ドイツの刑事警察(クリポ)の長官。親衛隊(SS)隊員であり、最終階級は親衛隊中将(SS-Gruppenführer)及び警察中将。反ナチ運動を取り締まる立場でありながら、のちにヒトラー暗殺計画に関与して処刑されている謎の多い人物である。

国民学校教師の息子としてベルリンに生まれた。第一次世界大戦が開戦すると第17工兵大隊に義勇兵[要出典]として従軍。ガス攻撃により2度負傷し、第一級鉄十字章[要出典]を受けている。1920年にバイエルン州警察に入り[要出典]、1924年には刑事警察(クリポ)部局の長となった。1931年6月1日にナチス党に入党。刑事警察の情報をナチスに流すようになる。1933年4月1日にはクルト・ダリューゲに招かれてベルリン警察に移った。1933年10月にはゲシュタポ長官ルドルフ・ディールスからゲシュタポに招かれる。ネーベは長いナイフの夜事件でラインハルト・ハイドリヒの知己を得て、親衛隊(SS)に入隊。1936年に刑事警察クリポがハイドリヒの指揮する保安警察本部の下に組み込まれると、ネーベはクリポ局長に任命された。さらに1939年から保安警察はナチ党組織のSDに合流しライヒ保安本部となる。クリポはライヒ保安本部第5局となり、ネーベはその局長となった。1939年11月8日にビュルガーブロイケラーを爆破し、ヒトラー暗殺を謀ったゲオルク・エルザーの取り調べを行った。

1941年6月にアインザッツグルッペンが組織された際にはそのB隊司令官となり、中央軍集団にしたがって白ロシアからモスクワ戦線へかけて進軍した。道中ユダヤ人やパルチザンと目された人々を大勢殺害。ネーベが隊長を務める間だけでもB隊は4万5,467人の処刑の報告をしている。

1942年にドイツ本国のライヒ保安本部に戻り、1942年6月に国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが死亡するとその後任として国際刑事警察委員会(ICPC、インターポール)総裁となった(1943年に新国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーに引き継いでいる)。

しかしまもなくネーベは反ヒトラー派に転じ、ルートヴィヒ・ベック陸軍大将やハンス・オスター陸軍大佐ら軍の反ヒトラー派と謀反に向けた連絡を取り合うようになった。また反ナチス地下組織ともたびたび接触して警察の情報を流した。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画があった後、ネーベの謀反も発覚した。ネーベは逃亡したが、1945年1月16日にはゲシュタポにつかまり、3月2日に民族裁判所の法廷にかけられ、ローラント・フライスラー裁判官により死刑を宣告された。3月21日に刑死している。総統アドルフ・ヒトラー自身の希望によりピアノ線による絞首刑であった。

  • 第二次世界大戦にドイツが勝利したという歴史改変小説であるロバート・ハリス作の『ファーザーランド (Fatherland)』では、刑事警察の捜査官でSS少佐のクサヴィアー・マルヒ(Xavier March)という主人公の周りで話が展開する。その小説にアルトゥール・ネーベはSS上級大将として登場し、第二次世界大戦後20年間も刑事警察の局長として務めていたと言う設定になっている。

関連項目[編集]

  • ヒトラー暗殺、13分の誤算 -ブルクハルト・クラウスナーが演じている。

参考文献[編集]

  • 「ナチ親衛隊知識人の肖像」未來社、大野英二著
先代:
国家保安本部第V局局長
1939 – 1944
次代:
フリードリヒ・パンツィンガー
先代:
ラインハルト・ハイドリヒ
インターポール総裁
1942 – 1943
次代:
エルンスト・カルテンブルンナー