オーエンテューダー – Wikipedia

オーエンテューダーOwen Tudor、1938年 – 1966年)とは、イギリスのサラブレッドの競走馬である。第二次世界大戦中の1941年にエプソムダービーに優勝し、のちに種牡馬としても成功した。

父は名種牡馬ハイペリオン、母はプール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)やヴェルメイユ賞に勝ったフランスの競走馬メアリーテューダーであった。白斑のない青鹿毛の牡馬で、わずかに膝が曲がっていたという。

1941年にフレッド・ダーリン英語版調教師のもとで競走馬デビューした。初戦となったソールズベリーステークスを快勝し、このほか2戦してボスコーウェンステークスで2着に入っている。この年の2歳牡馬のなかで、オーエンテューダーは第8位に相当するフリーハンデを与えられている。

オーエンテューダーが3歳になった1942年はまさに第二次世界大戦の真っただ中で、主要競走のいくつかは他の競馬場で代替開催されていた。エプソムダービーもエプソム競馬場を離れ、ニューマーケット競馬場にて「ニューダービー」という代替競走として施行されていた。オーエンテューダーは単勝26倍の穴馬扱いながらもこれを優勝、祖父ゲインズバラ・父ハイペリオンに続く3代ダービー優勝と成し遂げた。同年はこのほかニューマーケットセントレジャー(代替セントレジャーとは別競走)、コラムステークスに勝っている。

4歳時には同じくニューマーケット競馬場に疎開していたゴールドカップに出走、これに優勝した。この年で引退し、翌年より種牡馬となった。

種牡馬としても多くの活躍産駒を出して成功し、リーディングサイアーにこそならなかったものの、1961年にはフランスの種牡馬ランキングで2位に入っている。

最も代表的な産駒にテューダーミンストレルがいる。同馬はマイル以下の競走で圧倒的な強さを誇り、2000ギニーなどで8勝を挙げた。一方でそれ以上の距離では不可解な敗戦をしたので、後世にはマイラーとして評価されている。同じく短距離路線で活躍した馬で、ジュライカップ連覇などをしたアバーナントもまたオーエンテューダーを代表する産駒である。フランスでもプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)やジョッケクルブ賞を制したライトロワイヤルが出ており、同馬はイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで同年の英二冠馬セントパディを破っている。

この他の産駒に、マルセル・ブサック所有のもとでアスコットゴールドカップとカドラン賞を制したエルペノール、アメリカでマンノウォーステークスなどに勝ったテューダーイラ、ホワイトローズステークスなどに勝ったテューダーペリオッドらがいる。後継の種牡馬にも恵まれ、一時は日本でもハマノパレードやテンメイが出るなど繁栄したが、現在ではテューダーミンストレルの後継がイギリスに残る程度である。

オーエンテューダーは1960年に種牡馬を引退、それから6年後、25歳のときに死亡した。

主な勝鞍[編集]

※当時はグループ制未導入

1940年(2歳) 3戦1勝
ソールズベリーステークス
2着 – ボスコーウェンステークス
1941年(3歳) 7戦3勝
ニューダービー、ニューマーケットセントレジャー、コラムステークス
1942年(4歳) 3戦2勝
ニューマーケットゴールドカップ

参考文献[編集]

  • The Encyclopaedia of Flat Racing(1986 著者:Howard Wright、出版:Robert Hale。 ISBN 0-7090-2639-0)

外部リンク[編集]