倭城 – Wikipedia

番号 砂塵 名称 とき 築城 守備 所在地 管理者
(団体) 兵力 参照 1 訥次倭城
(Nulcha Waeseong) 1592年 第6軍
毛利輝元
第6軍司令官
小早川隆景 第6軍司令官
小早川隆景
第6軍
毛利秀包
立花宗茂
島津忠恒[10]
日本軍[11] 釜山広域市 江西区 訥次洞 山84-7 江西区 訥次倭城(2008年 発掘, 韓国文物硏究院)
加徳島倭城[12] 2 加徳支城
(加徳島倭城支城) 1593年 第4軍
高橋元種
第6軍
筑紫広門
立花宗茂
毛利秀包
立花直次 釜山広域市 江西区 城北洞 山43 江西区 城北倭城 3 加徳島城北倭城
(Seongbuk Waeseong) 1593年 第6軍司令官
小早川隆景 左軍総大将
小早川秀包
立花統虎 釜山広域市 江西区 城北洞 山43, 53, 52番地 江西区 4 機張城(機張 竹城里倭城)
(Waeseong in Jukseong-ri, Gijang) 1593年 第3軍司令官
黒田長政 父子
黒田孝高[13] 第2軍司令官
加藤清正 釜山広域市 機張郡 機張邑 竹城里 601 機張郡 33,000人 [1]
竹城里倭城, 豆毛浦倭城 (2002年 発掘)
釜山広域市 記念物 第48号[14] 5 金海 竹島倭城
(Gimhae Jukdo Japanese Castle) 1593年 第2軍
鍋島直茂
鍋島勝茂 父子 第2軍
鍋島直茂 釜山広域市 江西区 竹林洞 787番地 一円 江西区 [2]
駕洛城, 竹島城, 金海倭城(2004年 発掘)
釜山広域市 記念物 第47号[15] 6 亀浦倭城(カードカイ城)
(Gupo Japanese Fortress) 1593年 1次
第6軍司令官
小早川隆景(責任)
第6軍
筑紫広門
立花宗茂
立花直次
毛利秀包
2次
友軍司令官
毛利秀元 2次
第3軍司令官
黒田長政 釜山広域市 北区 徳川第1洞 山93番地 釜山広域市 北区 5,000人 [3]
甘同浦城, 義城(2002, 2004年 発掘)
釜山広域市 記念物 第6号[16] 7 金海 農所倭城址[17]
(Nongso Waeseong) 1593年 第2軍
鍋島直茂 父子 慶尚南道 金海市 酒村面 農所里 山22-5 農所公民館 5,000人 農所倭城
神々倭城(2001年発掘), 竹島倭城の知城
2001年(慶南文化財研究院)[18] 8 馬沙倭城址[19]
(Masa Waeseong) 1593年 第2軍
鍋島直茂 父子 慶尚南道 金海市 翰林面 金谷里 山61-2 金海市 5,000人 土城, 竹島倭城の 知城[20] 9 東莱倭城(東莱邑城址)
(Dongnae Waeseong)[21] 1593年 領主
吉川広家 第1軍司令官
小西行長 釜山広域市 東萊区 漆山洞 1-9 東萊区 [4]
釜山広域市 記念物 第5号
『大東地志』 城池 甑山城 倭人所築. 10 東三洞倭城 1593年 第6軍
毛利輝元 釜山広域市 影島区 東三洞 188 椎木島倭城, 影島倭城
東三洞倭城, 椎木島城, 絶影島 椎木島丹城 11 釜山鎮城(丸山城, まるやまじょう)
(Busanjinseong) 1593年 第6軍
毛利輝元 父子
友軍司令官
毛利秀元
奉行
浅野長政
(慶長の役の際に収縮·増築) 第6軍
毛利輝元 父子 釜山広域市 東区 子城路 99 (凡一洞) 釜山広域市 東区 18,700人[22] [5]
釜山広域市 記念物 第7号
子城台倭城
小西城、丸山城、釜山倭城の 支城[23] 12 西生浦倭城[24]
(Seosaengpo Japanese Fortress) 1593年 第2軍司令官
加藤清正 第3軍司令官
黒田長政 蔚山広域市 蔚州郡 西生面 西生里 711番地 一円 蔚州郡 100,000人 [6]
蔚山広域市 文化財資料 第8号
烽火城(2012年 発掘)[25] 13 林浪浦倭城(せいぐわん城)
(Imnangpo Japanese Fortress) 1593年 第4軍司令官
毛利勝信
第4軍
島津豊久
伊東祐兵
高橋元種
秋月種長 第4軍司令官
毛利勝信
第4軍
島津豊久
伊東祐兵
高橋元種
秋月種長 釜山広域市 機張郡 長安邑 林浪里 山48 機張郡 せいぐわん城
発掘調査 : 2001年[26] 14 永登倭城址
(Yeongdeungpo Waeseong) 1592年 第4軍
島津義弘 父子 慶尚南道 巨済市 長木面 舊永里 山6-17番地
出城: 長木面 舊永2道 34番地 巨済市 2,000人 唐島城, 永登倭城[27]
永登浦倭城
舊永登倭城 15 松真浦倭城
(Songjinpo Waeseong) 1593年 第5軍司令官
福島正則
第5軍
戸田勝隆
長宗我部元親 慶尚南道 巨済市 長木面 長木里 山6-3 巨済市 甑城[28]
幼名: Jisepo[29]
慶尚南道非指定文化財 16 巨済 長門逋 倭城
(Geoje Jangmunpo Castle) 1594年 11月 第5軍司令官
福島正則
第5軍
蜂須賀家政
生駒親正
戸田勝隆 第5軍
長宗我部元親
生駒親正 慶尚南道 巨済市 長木面 長木里 130-43番地 巨済市 [7]
慶尚南道 文化財資料 第273号
長木倭城[30]
軍港浦倭城 17 昌原 子馬山城
(Jama Japanese Fortress) 1593年 第1軍
宗義智 慶尚南道 昌原市 鎮海区 城内洞 山15 昌原市 子馬倭城
熊川倭城の支城 18 昌原 明洞倭城
(Myeongdong Japanese Fortress) 1593年 第1軍
松浦鎮信
宗義智 慶尚南道 昌原市 鎮海区 明洞 山13 昌原市 熊川倭城の支城 19 昌原 安骨倭城
(Angol Japanese Fortress) 1593年 水軍
脇坂安治
加藤嘉明
水軍司令官
九鬼嘉隆 慶尚南道 昌原市 鎮海区 安骨洞 山27番地 外 昌原市 [8]
慶尚南道 文化財資料 第275号
日本第一水軍基地(倭水軍第1基地、2009年発掘·東洋文物研究院)
熊川 安骨倭城 20 昌原 熊川倭城
(Ungcheon Japanese Fortress) 1593年 第1軍司令官
小西行長
第1軍
宗義智
大名
上杉景勝 慶尚南道 昌原市 鎮海区 南門洞 山211-1番地 昌原市 5,000人 [9]
慶尚南道 文化財資料 第79号
南山倭城. 日本第二水軍基地(倭水軍第2基地) 21 迫門口倭城 1593年 7月 第6軍
毛利輝元
小西行長 部下 釜山広域市 中区 中央洞 Japanese castles in Busan (Korea) Sengoku Forum
‘迫門口’[31] 22 梁山 架山里 孤浦倭城址[32]
(Hopo Waeseong in Gasan-ri, Yangsan) 1593年 日本軍[33] 慶尚南道 梁山市 東面 架山里 山52-4, 山57
梁山市 東面 湖浦路 26
梁山市 東面 架山里 1120-6[34]
(梁山川下流の京釜線の下、)
梁山市 東面 架山里
1026-1, 1027-26, 1028-11
梁山市 東面 架山里 1045-1 国有 孤浦城址[35][36][37]
文化財管理局、1977、『文化遺跡総覧』
(文化財管理局、1977、「文化遺跡総覧」)[38] 23 固城邑城
(Goseong Japanese Fortress) 1597年 領主
吉川広家
桂元綱[39] 第2軍
鍋島直茂 慶尚南道 固城郡 固城邑 城内里、西外里、水南里 一帯
固城倭城: 固城邑 城內路136番道 42 固城郡 7,000人 [10]
慶尚南道 文化財資料 第89号
固城倭城, 水南里倭城[40]
固城倭城は固城邑水南里64-1番地一帯に位置する。
築城時期は丁酉再乱の時の宣祖30年(1597年)と宣祖31年(1598年)、
吉川広家らによって築城された。
固城邑城の南方の雪上に突き出た
そごう地に築城した城で、固城邑城と接している。
築城法は、日本式築城で最も高い場所に本丸があり、
西側の本丸より低いが、規模が少し大きい2環が確認されており、
本丸の東部から南部にへし折って大郭があるが、これが三環である。
現在も本丸と2環、3環の両方が確認されており、
城のかなりの部分が残存している
残った本丸は傾斜度70度ほどで、倭城の築城方法を示しており、
石材は自然石を用い、隙間には小さなくさびを入れた。 24 見乃梁倭城[41] 1597年 第1軍
宗義智
脇坂 安治[42]
辛島瀬戸口[43] 柳川調信 慶尚南道 巨済市 沙等面 徳湖海岸道 147-1 . 倭城洞倭城, 廣里倭城, 土城
見乃梁倭城3Dモデルの図案のみ残っている状態
[44]
1593年に日本軍が朝鮮の水軍を制御するために築城した城で、
1592年、豊臣秀吉は脇坂安治に
巨済島に城を築城し、朝鮮の水軍に対する守備を
堅固にしろ」と指示したという。
本土から巨済に入る関門である堅内梁海岸沿いに位置し、
日本軍が南海岸に築城した本城11ヶ所と支城7ヶ所のうち、
一つの知性に見えたという記録がある。 25 南海 船所倭城
(Namhae Castle) 1597年 水軍
脇坂安治
第1軍
宗義智 第1軍
宗義智 慶尚南道 南海郡 南海邑 船所路 149 南海郡 1,000人 慶南発展研究院 歴史文化センター, 2004
『文化遺跡分布地図-南海郡-』.
高田徹, 2000, 「南海倭城の繩張り」 『倭城の硏究』4
城郭談話會. 堀口健貳, 2005
「畝狀空堀群を持つ倭城について」 『愛城硏報告, 愛知中世城郭硏究會』.
南海倭城 26 釜山日本城
(Busan Japanese Fortress) 1598年 第6軍
毛利輝元
第1軍司令官
小西行長 左軍総大将
小早川秀包 釜山広域市 東区 凡一洞 釜山広域市 東区 [11]
史跡 第35号 (解紙)
『增補文獻備考』21) 釜山浦城 甑山城 備局謄錄 並有倭人.[45] 27 馬山日本城
(Masan Japanese Fortress) 1597年 招待
伊達政宗[46]
第2軍
鍋島直茂
鍋島勝茂 父子 慶尚南道 昌原市 馬山合浦区 龍馬山道 142(山湖洞) 昌原市 12,000人 [12]
史跡 第36号(解紙)
昌原倭城, 龍馬城
『大東地志』 城池 江馬山城 倭人所築.
『增補文獻備考』 舊江馬山城 備局謄錄 並有倭城. 28 泗川船津里城
(Waeseong in Seonjin-ri, Sacheon) 1597年 第4軍司令官
毛利勝信
第4軍(左軍)
島津義弘[* 1]
大名
池田景雄[* 1]
武将
中川秀成[* 1]
立花直次[* 1] 第4軍(左軍)
島津義弘
第4軍司令官
毛利勝信[* 2]
第7軍
毛利輝元[* 2] 慶尚南道 泗川市 龍見面 船津里 770番地 外
龍見面 船津里 1082 一円 泗川市 10,000人 [13]
慶尚南道 文化財資料 第274号
船津里倭城(2005年 発掘)[47] 29 順天倭城
(Suncheon Castle) 1597年 第1軍司令官(左軍)
小西行長(先鋒)
総大将 兼 第7軍司令官
(左軍司令官)

宇喜多秀家(先鋒)
水軍
藤堂高虎(先鋒) 第1軍司令官(左軍)
小西行長
水軍
藤堂高虎 全羅南道 順天市 海龍面 新城里 山1番地 外 順天市 13,700人 [14]
全羅南道 地方記念物 第171号(1999年2月26日指定)
倭橋城、礼橋城(2001、2002、2004年 発掘)[48] 30 勿禁 甑山里 倭城
(Waeseong in Jeungsan-ri, Yangsan) 1597年 第3軍司令官(友軍)
黒田長政
大名
伊達政宗
第7軍
毛利輝元[* 3]
左軍総大将
小早川秀包[* 3] 第3軍司令官(友軍)
黒田長政
黒田孝高[49] 慶尚南道 梁山市 勿禁邑 曾山里 山15 梁山市 [15]
慶尚南道 文化財資料 第276号
甑山里倭城[50]
日本による植民地時代
朝鮮総督府宝物古跡名勝天然記念物昭和14年古跡指定台帳指定
日本による植民地時代朝鮮総督府
(宝物古跡名勝天然記念物 昭和14年古跡指定台帳指定) 31 蔚山倭城
(Ulsan Japanese Fortress) 1597年 12月 第2軍司令官(友軍)
加藤清正
第8軍
浅野幸長(公社)
友軍司令官
毛利秀元(公社)[* 4]
監察官および監督(武士)
太田一吉[* 4]
部長
肉戸元續[* 4]
加藤淸兵衛[* 5]
加藤安政[* 5]
大河内秀元[* 5] 第2軍司令官(友軍)
加藤清正 蔚山広域市 中区 鶴城公園3道 54、一円
(鶴城洞) 蔚山広域市 中区 16,000人 [16]
蔚山広域市 文化財資料 第7号(1997年10月30日指定)
鶴城, 島山城(1985年 発掘)[51]
太田一吉[52]