Month: March 2022

ワイナミョイネン – Wikipedia

ワイナミョイネン、R.W Ekman画。 ワイナミョイネン(Väinämöinen)は、フィンランドの民間伝承と国民的叙事詩『カレワラ』の主要な登場人物である。元々はフィンランドの神であった。年老いた賢者で、強力な魔力を秘めた声の持ち主として描かれている。フィンランドにおける国民的英雄。 フィンランド神話のワイナミョイネン[編集] ワイナミョイネンが文献に初めて登場するのは、1551年にミカエル・アグリコラが作成したハメ(Häme)の神々の一覧である。アグリコラや他の作家はワイナミョイネンを魔法と歌と詩の神と記述している。多くの伝承の中でワイナミョンネンは、世界誕生にまつわる中心人物とされていた。彼が海に漂う間に1羽の鳥がやってきて彼の膝の上に卵を産んだ。卵は波に打たれて壊れてしまったが、その破片が世界を構築した。天上を覆うものが空になり、黄身が太陽になった。 18世紀にクリストフリード・ガナンデルが民間伝承をまとめたが、ワイナミョイネンはカレウィ(英語版)の息子でイルマリネンの兄弟とされている。 カレワラのワイナミョイネン[編集] 19世紀の伝承研究家の中で最も有名なカレワラの著者エリアス・リョンロートは、ワイナミョイネンの神話的な背景に異論を唱え、彼が9世紀ごろに実在した古えの大英雄であり、影響力を持つシャーマンだったと主張した[1]。リョンロートは人間離れした特徴をワイナミョイネンから奪い、リョンロート自身が発案した原初の女神イルマタル(英語版)にその属性を与えた。リョンロート版のカレワラでは彼女が海を漂っている間にカモが彼女の膝の上に産卵する。ワイナミョイネンは大地が出来るまでの730年間母の胎内にいたため、産まれたときから年相応の知恵を持っていた。太陽と月と熊(おそらくは大熊座であると考えられる)に祈りを捧げ、彼はようやく母胎から逃れ海へと落ちた。 ワイナミョイネンは混沌を秩序立ったものにしてカレワ(英語版)の国を作り出した「永遠の吟遊詩人」として紹介されている。そしてカレワではワイナミョイネンは北隣にあるポホヨラから妻をカレワの国に迎えようとする。彼らは最初ポホヨラの人々から好意的に迎えられたが、後に敵意をもって扱われるようになった。これはイルマリネンが作った魔法の創造物サンポの製作と盗難に起因していた。サンポ奪還の際に起こった戦いで、サンポはばらばらになり、世界中に散らばって行方がわからなくなった。 『ワイナミョイネンの船出』アクセリ・ガッレン=カッレラ画。 ワイナミョイネンは向こう見ずなヨウカハイネン(英語版)を魔法の歌で沼に沈めた。彼はまた巨大なカマスを仕留め、あごの骨から魔法のカンテレを作り出した。 ワイナミョイネンは最後には衰えた。第50章カレワラ最後の詩、乙女マリヤッタの物語では乙女が漿果(くだもの)を食べた後に子を宿し男の子を産むが、この赤子を尋問し裁くためにワイナミョイネンが訪れた。そしてワイナミョイネンは自然の摂理に反して産まれた子は殺すべきだと判断した。しかし生まれてからほんの2週間の新生児は老賢者がヨウカハイネンの妹、乙女アイノ(en:Aino)を溺死せしめた過失をたしなめた。この後赤子は洗礼を受け、カレリアの王に指名された。敗れたワイミョイネンは海岸へいき、人間の領土から船出するため歌を歌って銅の小舟を作った。彼は最後に再び彼の力と技術が必要になった時は必ず戻るという約束の言葉を残した。50章目の詩の主題はフィンランドへのキリスト教伝来と、その結果生じた古い異教信仰衰退の歴史である。この主題は叙事詩では一般的なもので、アーサー王伝説の中にもアーサーがアヴァロンへ旅立つ時に同様の約束をしており、ここでもイエス・キリストの再臨が繰り返されている。 なお1888年にジョン・マーティン・クロフォードが翻訳した最初の英語訳ではワイナミョイネンの名前は英語表記の「Wainamoinen」になっていた。 他の文化におけるワイナミョイネン[編集] エストニアの国民的叙事詩『カレヴィポエグ(英語版)』にはヴァネムイネ(ドイツ語版)というよく似た英雄が登場する。また近隣の北欧の神オーディンとは、詩と魔法に関わるなど多くの特徴に共通点が見られる。 芸術作品[編集] アクセリ・ガッレン=カッレラ[編集] 芸術作品ではアクセリ・ガッレン=カッレラの絵画に見られるように、ワイナミョイネンは白く長いあご髭を持つ老人として描かれるが、これは幻想文学に登場する魔法使いによく見られる姿でもある。 ジャン・シベリウス[編集] ジャン・シベリウスは交響詩『ポホヨラの娘』でワイナミョイネンのポホヨラでの求婚譚を題材とした。その他、合唱曲『ワイナミョイネンの歌』などを作曲している。

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エルヴィン・クリストッフェル – Wikipedia

エルウィン・ブルーノ・クリストッフェル エルウィン・ブルーノ・クリストッフェル(Elwin Bruno Christoffel, 1829年11月10日 – 1900年3月15日)は、ドイツの数学者、物理学者。彼は微分幾何学に基礎的な概念を導入し、後に一般相対性理論の数学的基礎を提供するテンソル計算の開発への道を開いた。 クリストッフェルは、1829年11月10日にプロイセン王国のモンジョワ(Montjoie; 現在のモンシャウ)で、布商人の子供として生まれた。彼ははじめ自宅で語学と数学の教育を受けたあと、ケルンのイエズス会のギムナジウムとフリードリヒ・ヴィルヘルムのギムナジウムに通った。1850年にはベルリン大学に入学し、特にペーター・グスタフ・ディリクレ(クリストッフェルに強い影響を与えた)[1]から数学を学び、また物理と化学の課程にも参加した。1856年にはベルリン大学で、Martin Ohm(ゲオルク・オームの弟)、エルンスト・クンマー、ハインリヒ・グスタフ・マグヌスの指導の下、均質な物体中の電気の振る舞いに関する論文で博士号を取得した[2]。 博士号取得後、クリストッフェルはモンジョワに戻り、その後3年間、学界から孤立して過ごした。しかしながら、彼はベルンハルト・リーマン、ディリクレ、そしてオーギュスタン=ルイ・コーシーの本で数学(特に数理物理学)は学び続けていた。また研究も続けており、微分幾何学に関する2つの論文を発表した[2]。 1859年には、クリストッフェルはベルリンに戻り、教授資格(habilitation)を取得し、ベルリン大学で員外講師(Privatdozent)となった。1862年にはリヒャルト・デーデキントがチューリッヒ工科大学を去ったことによって空いたポストを得た。彼はわずか7年前に設立された若い研究機関に新しい数学の協会を組織し、高く評価された。彼はまた研究を発表することを継続し、1868年にはプロイセン科学アカデミーと ミラノのIstituto Lombardoの準会員に選出された。1869年、クリストッフェルは工業専門学校(Gewerbeakademie;現在のベルリン工科大学の一部)の教授としてベルリンに戻り、チューリッヒ工科大学の彼の後任としてはヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツが就いた。しかしながら、極めて近接しているベルリン大学との激しい競争により、工業専門学校は高等数学コースを維持するための十分な学生を引きつけることができず、クリストッフェルは3年後にまたベルリンを離れた[2]。 1872年、クリストッフェルはストラスブール大学で教授となった。ストラスブール大学は、普仏戦争でプロシアがアルザス=ロレーヌを併合した後、近代的な大学に再編された数世紀に渡る歴史をもつ研究機関である。クリストッフェルは、同僚のTheodor Reyeと共に、ストラトブールで信頼性の高い数学科を作った。彼は研究を発表し続けており、藤沢利喜太郎、Ludwig Maurer、Paul Epsteinを含む数人の博士課程学生がいた。クリストっフェルは1894年にストラスブール大学を退職し、後任にはHeinrich Martin Weberが就いた[2]。引退後も彼は仕事と出版を続け、最後の論文は死の直前に完成し、死後に出版された[1]。

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