浜口玄吉 – Wikipedia

浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年12月17日 – 2001年8月24日)は、旧大日本帝国海軍軍人(海軍少佐)、元海上自衛官・海将舞鶴地方総監。

生誕〜海軍機関学校入校[編集]

1914年(大正3年)12月17日、浜口徳兵衛・くにの長男として和歌山県新宮市で誕生。浜口家は代々三重県二木島町で廻船問屋を営んでいたが、海事代理士となった父・徳兵衛の代に勝浦港へ移住。浜口は中学卒業まで本籍地である和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で過ごした[注 1]

1932年(昭和7年)、新宮中学を卒業し海軍兵学校を受験するも失敗。

叔母・美代子が熊野速玉大社宮司・上野殖に嫁いでいたことから、浪人中に新宮市の神倉神社(熊野三山の元宮)の社務所に間借りする。当時、宮司夫妻からの差し入れを届けていた従妹の上野俊を後に妻に迎える。

一年間の浪人生活の後、1933年(昭和8年)、海軍機関学校に合格、入学。以後38年に亘る海軍軍人の道へ第一歩を踏み出した。

海軍機関学校時代[編集]

1933年(昭和8年)4月、海軍機関学校[注 2](京都府舞鶴市、現在は海上自衛隊舞鶴地方総監部、第四術科学校などになっている)に、第45期生として入校する。第一次世界大戦以降、日本の機関技術は目覚ましい進歩を遂げ、太平洋戦争ではタービンやボイラー等の機関の故障による作戦への重大な支障はなく、機関学校の教育水準の高さの証となった。浜口も「機関学校教育こそ最高の教育」と語っている。

機関学校では日曜日や公休日にも訓練や実習があり、まさに「月月火水木金金」の厳しさだったが、休日午後は夕食までの間外出が許可され、生徒倶楽部(東舞鶴市内に指定された民家)に行ったり、市内散策をして浩然の気を養った。

心身鍛錬の科目は特に厳しく、短艇(カッター)訓練では、臀部の皮膚が破れ出血し、浴場の湯が赤く染まったという。また闘球(ラグビー)が体育教科の一つで、当時最強と言われた京都帝大を破ったことを自慢としていたが、試合中に負傷した右手薬指は終生曲がったままだった。

45期の同期には、松平春嶽の孫で後に陸上自衛隊を経て靖国神社宮司となり、「戦犯合祀」を実施したことで知られる松平永芳がおり、戦後も時折懇談した。

海軍機関学校卒業~太平洋戦争・終戦[編集]

1937年(昭和12年)3月、海軍機関学校を卒業。

海軍機関少尉候補生として任官し、近海航海を経てヨーロッパへの遠洋航海に出る。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争開戦時には海軍機関大尉[注 3]として南方部隊に所属。フィリピン、ボルネオ、スラバヤ各方面の作戦に参加。

多くの艦に乗り多くの作戦に参加したが、転属命令で艦を降りるとその艦が沈没することが度々起こった。通常は機関室で指揮を執っていたが、交戦時は射撃要員に駆り出され、銃座につくこともあった。

戦時中の1943年(昭和18年)に従妹の上野俊と結婚、翌1944年(昭和19年)に長男・哲夫が誕生する。

また一方で、父・徳兵衛を空襲で、弟・侑三(陸軍幼年学校~陸軍士官学校~陸軍航空隊)を訓練中の事故で失う。

海軍機関学校教官[注 4]を経て少佐となり、第三特攻戦隊[注 5]参謀として終戦を迎える。

戦後~海上自衛隊[編集]

1945年(昭和20年)10月、旧佐世保鎮守府に出仕。12月に佐世保地方復員局艦船運航部勤務を命ぜられて以降、旧日本兵の復員関連業務、船舶の安全運航確保のための日本周辺の機雷掃海、更に海上警備隊から海上自衛隊へと軍人生活は続いた。

復員局時代は、主として特別輸送船(復員船)の運航、補給、修理等の業務を行う。海上保安本部時代は、主として戦時中日本周辺海域に敷設された機雷(日本海軍約55,000個、米海軍約11,000個)の掃海、補給業務に従事。海上警備隊時代は、後の海上自衛隊創設を睨んだ各種業務に取り組んだ。1954年(昭和29年)、海上自衛隊創設に伴い、二等海佐となり、護衛艦「しい」艦長に就任。兵学校出身士官の定席だった「艦長」を、海軍史上初めての機関学校出身士官として務めた。

戦後の混乱の中、所属や業務内容、勤務地が頻繁に変わったことで、家族は度重なる引っ越しを余儀なくされた。1947年(昭和22年)、次男彰夫が誕生。1955年(昭和30年)に東京都武蔵野市に居を構えるまで、一家は計7回の引越しを経験する。

当時国民の間では、自衛隊の創設は「実質的な再軍備」との抵抗感が根強くあり、自衛隊隊員や家族達は長期にわたり白眼視された。子供達2人も、転校するたびに教師や級友から「お前の親父は税金泥棒、非国民」といった悪口雑言を浴びせられている。1970年(昭和45年)、海将となった浜口が舞鶴地方総監に就任した際には、当時の京都府知事・蜷川虎三に挨拶すべくアポをとった上で訪問したにも関わらず、玄関払いをされるという侮辱・屈辱を味わっている。

舞鶴地方総監就任の翌1971年(昭和46年)、定年を待たず勇退、退官。海軍機関学校生徒として青春を燃やし、兵学校教官として多くの若者と交わり、自衛隊創設時の苦労等思い出深い舞鶴の地で、38年に亘る海軍軍人生活に終止符を打つ。

退官後[編集]

自衛隊退官後は、兵学校教官時代の知己の助力を得て厚木の民間企業に就職。水交会や隊友会の行事・事業等に積極的に参加し、地元・武蔵野市選出の都議会議員の要請に応じて「戦争の悲惨さ、平和を守り、国を守ることの意義、重要性」を度々講演、訴える。

1985年(昭和60年)、永年の功績により、勲三等瑞宝章を授与される。

2001年(平成13年)初夏、小脳に腫瘍が見つかり、入院。8月24日、86歳8カ月の生涯を終える[1]

没後、正四位に叙せられる。

人物・エピソード[編集]

  • 妻となった上野俊は、母方の従妹で七つ違い。幼い頃からよく行き来した仲だが、血族結婚ということで親族や周囲からの反対の声も大きかった。何故結ばれたかについて当人たちは「お姫様育ちのじゃじゃ馬娘に貰い手などないから」「貧乏な八人兄妹の長男に嫁など来ないから」と、互いにボランティア精神を強調した。
  • 特攻隊参謀時代は、任務につく兵を見送りながら、胸痛く涙したという。
  • 終戦の日、敗戦という現実に直面し、軍人として自決すべきか否か、短刀を手にし沈思黙考。散って行った同胞、戦友、そして妻子のためにも、生きて日本の平和と再建に努力しようと心に決め、短刀を置く。
  • 1966年(昭和41年)にアメリカ海軍の経理補給制度、施設及び管理に関する研修を受けるためアメリカを訪問。その国土の広さ、物資の豊富さ、軍事力の強大さ等々を初めて目のあたりにし、「よくこんな国と戦争をしたものだ」と述懐。
  • 趣味は読書・麻雀・将棋・水泳・野球・卓球・ゴルフ・ウォーキングなど。中でも五十の手習いで始めたゴルフは、息子二人とプレイすることが何よりも楽しみで、TV局勤務の長男が主催するゴルフコンペの会長となり、多くの芸能人やスポーツ選手等との交流を持つ。
  • 海上自衛隊第二術科学校校長時代に、『海軍機関学校、海軍兵学校舞鶴分校・生活とその精神』が浜口を含む有志により刊行され、機関学校の歴史を記録する貴重な資料となっている。また、2001年(平成13年)12月に『第三五三分隊三号生徒』が、岸尚(海軍兵学校第76期)の尽力により刊行された。分隊監事としてインタビューを受け、本の完成を心待ちにしていたが、その思いは届かなかった。

注釈[編集]

  1. ^ 自宅が道路事情の悪い海岸地域にあったことから、浜口は中学まで伝馬船を漕いで通学した。幼少からのこの日々の体験が、後の機関学校や海軍での過酷な訓練・実戦に耐える体力を作ったと、浜口は晩年述懐している。
  2. ^ 海軍機関学校は、機関、電機、工作、整備方面を担当する海軍兵科将校となるべき生徒を養成することを目的とし、教育内容は、訓育(心身鍛錬、精神修養主体)と学術教育(一般教養と専門知識)に大別される。学生は、幾つかに編成された分隊が日常生活の基準で、世話役として少佐又は大尉の分隊監事がおり、隊員はその指導の下で授業と訓練に勤しみ励んだ。
  3. ^ 19世紀前半の蒸気推進軍艦の導入以降、兵科士官(戦闘要員)と機関科士官(機関要員)とに制度上の区別があり、指揮権、階級制度、昇進、給与、教育等に異なった取り扱いがされ、兵科士官が一段上とされた。これが機関科士官の不満となり、度々制度の一系化が検討されたが、抜本的な改正に至らなかった。昭和17年に官階制度上の区別が撤廃され、海軍機関大尉は海軍大尉となるが、指揮権の改正等には至らず、実態は終戦まで変わることはなかった。
  4. ^ 機関学校教官時代は、工作教官及び三五三、三五四分隊監事。配給の酒を砂糖や小豆と交換して妻が作った汁粉を生徒達に振舞い、好評を博した。指導を受けた当時の生徒達の印象は「温厚で口数少なく、スマートで慈父型。縁の下の力持ちという役割であった機関将校の典型だった」とのこと。
  5. ^ 特攻戦隊とは、所謂「神風特別攻撃隊」などの航空機によるものではなく、小型のベニヤ板製のモーターボートに爆弾を積み、搭乗員(1~2名)が乗り込んで操縦し、敵艦船に体当たり攻撃をする海上特攻隊である。戦争末期の戦況悪化に伴い多数のボートが建造され、訓練は主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2か所で行われ、訓練後は南洋方面や沖縄、本土太平洋側の基地に配属された。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 浜口哲夫 (2017年6月2日). “父・浜口玄吉”. 2006年6月2日閲覧。
  • 「浜口玄吉 勤務記録」防衛庁海上幕僚監部管理部総務課、2001年8月9日。
  • 「海軍兵学校・基幹学校・経理学校 現状」海軍省教育局、1944年4月。
  • 有終会(編)『続・海軍兵学校沿革』原書房、1978年。
  • 岸尚『第三五三分隊三号生徒』岸尚発行、2001年12月8日、6-19頁、59-66頁、94頁、101-116頁、149頁、184頁。