凡例
井上有景 |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:与三右衛門尉 |
官位 | 豊後守 |
主君 | 毛利興元→幸松丸→元就 |
氏族 | 安芸井上氏 |
父母 | 父:井上勝光 |
兄弟 | 光兼、元盛、光清、光俊、光家、有景、光貞 |
子 | 元有、元重 |
井上 有景(いのうえ ありかげ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。安芸井上氏は清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の支流。
安芸井上氏の井上勝光の子として生まれる。
大永3年(1523年)7月15日に毛利幸松丸が死去すると、毛利氏の重臣は幸松丸の叔父である毛利元就に家督相続を要請することとなった。同年7月27日、有景は元就へ家督相続を要請する連署状を持参するよう志道広良に命じられ[1]、国司有相とともに元就への使者を務めた。
享禄5年(1532年)7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では16番目に「井上豊後守有景」と署名している[注釈 1][2]。
それ以外の有景の動向は不明であるが、後に元就は自分を支えてくれた家臣の一人に有景の名を挙げている。その他、有景と共に名前を挙げられているのは志道広良、井上俊秀、井上俊久、粟屋元国、国司有純、国司有相[3]。
なお、天文19年(1550年)7月の元就による安芸井上氏粛清の際には嫡男の元有[注釈 2]、次男の元重、元有の長男の与四郎(就勝)、元重の子の就義は殺害されている。
注釈[編集]
- ^ この時連署状に署名した32名は、署名順に福原広俊、志道広良、桂元澄、福原元勝、坂広昌(元貞)、山中元孝、光永元隆、北就勝、井上元吉、粟屋元秀、井上就在、長屋吉親、井上元盛、井上元貞、国司有相、井上有景、井上元続、井上俊秀、井上良在、井上俊久、国司就連、粟屋元親、粟屋元国、赤川就秀、飯田広親、赤川元助(元保)、佐々部祐賢、南方親州、内藤元康、秋山親吉、三田元実、井原元師。
- ^ 『閥閲録』巻112「井上孫兵衛」の家譜によれば、有景の子が元有とする系譜もあるが、家に伝えられているのは元有の子が有景であると記している。一方で『新裁軍記』では有景の子が元有であると考証している。
出典[編集]
- ^ 『毛利家文書』第249号、大永3年7月27日付、井上有景宛て志道広良書状。
- ^ 『毛利家文書』第396号、享禄5年7月13日付 福原広俊以下家臣連署起請文。
- ^ 『毛利家文書』第418号、年月日不詳 毛利元就自筆書状。
参考文献[編集]
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社、1996年)
- 田村哲夫校訂『新裁軍記』(マツノ書店、1993年)p.244
- 『萩藩閥閲録』巻112「井上孫兵衛」
- 『毛利家文書』