安達高景 – Wikipedia

安達 高景(あだち たかかげ、生没年不明)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。安達時顕の嫡男。安達氏最後の秋田城介。

元服時に北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第14代執権・北条高時より偏諱を受けて高景と名乗る[注釈 2]。尚、安達氏嫡流の「秋田城介家」は景盛―義景―泰盛―宗景と続き、「○盛」と「○景」が交互に名付けられていることが窺え、高景の場合も「○景」という名付け方であることから、元服した後に宗景の後継となることが決まった父・時顕とは違って、元服の段階で既に秋田城介の継承者となることが決定していたとする見解もある。また、姉妹が高時の正室であり、内管領長崎円喜の娘を妻として[注釈 1]父時顕と共に得宗家の外戚として権勢を強めた。元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の退位を促す使者として二階堂貞藤とともに上洛している[2]

『太平記』によれば、元弘3年/正慶2年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)に際し、東勝寺で高時ら北条一門と共に自害したとされている[注釈 3]

鎌倉幕府滅亡後に「高景」なる者が、北条時如(ときゆき、名越北条氏)と共に北条氏の所領があった奥州へ逃れ、御内人の曽我道性に匿われて同年暮れに奥州北部の大光寺城に籠もって反乱の兵を挙げたという記録が残っており[注釈 4]、この「高景」を本項の安達高景とする説がある(『関城繹史』『常陸史料』)が、前述の『太平記』の記載が正しかった場合はそうではないことになる[注釈 5]

注釈[編集]

  1. ^ a b 『常楽記』正中2年(1325年)2月12日条には「城讃岐権守妻他界 長崎入道息女」とあり、「城讃岐権守」は『尊卑分脉』によって安達高景、「長崎入道」は長崎円喜を指すものとされている。
  2. ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており[4] 、北条高時の代には「得宗→御家人」という図式で「高」の字が下賜されていたという見解がある[5]
  3. ^ 『太平記』巻第10「高時幷一門以下於東勝寺自害事」に見られる安達氏の自害者は、「城介高量」・「同式部大夫顕高」(高景の弟=『尊卑分脉』)・「同美濃守高茂」(父・時顕の従兄弟=『尊卑分脉』)・「秋田城介入道延明」(=父・時顕)であり、「城介高量」は高景の誤記とされている。
  4. ^ 石川城、持寄城と転戦したのち建武元年(1334年)11月、北畠顕家軍に敗北した。『元弘日記裏書』建武元年11月条に拠る。
  5. ^ 同時代に「高景」を名乗った人物としては得宗被官・奥州工藤氏の工藤高景が挙げられる。

出典[編集]

  1. ^ 『太平記』巻第10「高時幷一門以下於東勝寺自害事」。
  2. ^ a b c d e f g 『尊卑分脉』。
  3. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。
  4. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、2004年。

参考文献[編集]

  • 細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 吉川弘文館、2000年。 
  • 細川重男「秋田城介安達時顕」『白山史学』第24号、1988年。/所収:細川重男 『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』 日本史史料研究会〈日本史史料研究会研究選書〉、2007年。 
  • 黒板勝美; 国史大系編修会編 『尊卑分脉 第2篇』 吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。