Month: March 2022

エックス線吸収微細構造 – Wikipedia

エックス線吸収スペクトルの例。横軸はエックス線のエネルギー(吸収端をゼロとする)、縦軸はエックス線の吸収量である。 X線吸収微細構造(エックスせんきゅうしゅうびさいこうぞう、X-ray absorption fine structure)は、X線吸収スペクトル上でX線の吸収端付近に見られる固有の構造である。英語の頭文字から XAFS(ザフス,エクザフスと呼ぶ人もいる)と略される。XAFS の解析によってX線吸収原子の電子状態やその周辺構造(隣接原子までの距離やその個数)などの情報を得ることができる。X線結晶構造解析とは異なり、試料が長距離秩序を必要とせず、結晶物質に限られない。 XAFS はそのエネルギー領域によってXANES(ゼインズ、ザーネス)、EXAFS(エクサフスあるいはエクザフス) に分けられる(XANES の一部分を吸収端領域と呼ぶ場合もある)。XAFS という頭字語は XANES と EXAFS を合わせた領域を指す言葉として後から考案された。 X線吸収分光法 (X-ray Absorption Spectroscopy、XAS)

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塩谷孝綱 – Wikipedia

塩谷 孝綱(しおのや たかつな)は、下野国塩谷郡の戦国武将。 誕生から塩谷家家督相続まで[編集] 宇都宮正綱の四男として生まれ、文明10年(1478年)1月18日、塩谷隆綱の養子となり、延徳元年(1489年)12月28日、隆綱の死とともに塩谷氏の家督を継ぐ。塩谷家は、元々宇都宮家の一門であったが、隆綱の父・教綱の謀反により宇都宮持綱が殺されて以来、関係は断絶していた。教綱も宇都宮家からの報復により殺害されているが、この養子縁組は、名目的には、隆綱に跡継ぎがなく行われたものとされているが、両家の和睦のために行われた意味合いが大きい[注釈 4]。 家臣の謀反[編集] 永正6年(1509年)、那須資房が、塩谷家臣である大貫石見守、印南修理進、油井筑後守と三者の一族に通じ謀反させ、孝綱を討とうとする謀略を企てる。しかし孝綱側はこれをいち早く察知し、孝綱はこれを重く罰しようとするが、家臣の安藤光忠の進言により、三者とその一門計13名に二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させ、これを許した。 孝綱が塩谷家の家督を継いだばかりの頃は、家臣の中でこれに反発する者が多かったが、この事件をきっかけに塩谷家臣団は、孝綱の下にまとまっていった[注釈 5]。 宇都宮氏当主の後見人となる[編集] 永正9年(1512年)3月9日、宇都宮の興禅寺に対して、「塩谷荘内塩原湯本の土貢」を寄進している[1]。孝綱が発給した文書で現在最も古いとされているのがこの寄進状であり、2日前の3月7日には、宇都宮忠綱が興禅寺領中里郷の代がわり安堵を行っており、孝綱の場合も忠綱と同様に宇都宮氏惣領家の権威の巻き返しを狙う隠居した兄・宇都宮成綱の思惑によって塩谷氏の代がわりがされたことを指摘されている[2]。宇都宮氏惣領の家督が成綱から忠綱に代わってから孝綱は兄・成綱から忠綱の後見人を任されており、宇都宮氏当主である忠綱の意思伝達などを行っていた。それ以降、宇都宮俊綱の代まで、孝綱は宇都宮氏の「宿老中」の筆頭の地位を保ち続けていた。 その後、永正17年(1514年)に高田専修寺の真智が下野国を訪問した際に、孝綱が実父・正綱の供養のために若宮郷簗内を寄進していることが知られている(法雲寺文書)。同地は、元々芳賀氏の大内荘に属していたとされており、宇都宮錯乱で芳賀氏が一時没落した後に、孝綱がその旧領の代官を務めていたことが知られている[3]。 孝綱の塩谷郡支配[編集] 孝綱の時代、塩谷家はその勢力を拡大、喜連川塩谷氏との争いでは大永3年(1523年)11月7日に和睦という形で、喜連川塩谷氏の支城である乙畑城を手に入れ、次男の塩谷義尾(乙畑孫四郎?)を乙畑城主にし、その弟の孝信を喜連川塩谷氏の養子として家督を継がせ[注釈 6]、その支配はかなり安定していた。また、数多くの寺社に寄進をしており、財政的にも安定していたと見られている。 宇都宮氏から離反と晩年[編集] 天文7年(1536年)12月2日に神宮寺慈心院で行われた能興行の際に従った時点で孝綱は宇都宮家中「宿老中」の首座の地位にいた。また、この頃には法名である天的を名乗っていた。 この時期の孝綱は、塩谷荘の他に宇都宮領最南端である小金井宿一帯(現栃木県下野市小金井)の支配も任されていた。他にも芳賀氏との関係も緊密であり、芳賀高孝は孝綱から「孝」の一字を拝領し、芳賀孝高に改名している。また、天文5年に出家し道的と法名を名乗った芳賀高経との関係も非常に緊密であり、両者は同じ僧侶と師壇関係を持ち、兄弟弟子の関係であったとされる。 天文8年

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広田恵子 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “広田恵子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年4月) ひろた けいこ広田 恵子 プロフィール 生年月日 1965年10月27日 現年齢 56歳 出身地 日本・千葉県 公称サイズ(時期不明)

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宝山路駅 – Wikipedia

宝山路駅 駅舎 ほうざんろBaoshan Road 所在地 上海市静安区交通路宝山路 北緯31度15分12秒 東経121度28分17秒 / 北緯31.25333度 東経121.47139度 / 31.25333; 121.47139 所属事業者 上海地鉄運営有限公司 駅構造 高架駅 ホーム 2面2線

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オルスク – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “オルスク” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) オルスク(ロシア語: Орск, Orsk)は、ロシアのウラル山脈南部、オレンブルク州東部にある都市。人口は250,963人(2002年国勢調査、1989年国勢調査では270,711人)。 オルスクはオレンブルク州で州都オレンブルクに次ぎ二番目に大きな都市である。モスクワからは南東へ1,700km。カザフスタンとの国境に近く、アジアとヨーロッパの境界であるウラル川にまたがっており、「二つの大陸に跨った町」とも言われる。この町で南に流れるウラル川と南東から来るオリ川(英語版)(露: Орь)とが合流し、ウラル川は西に流れの向きを変える。街の旧市街はウラル川の南岸(左岸、即ちアジア側)にあり、新市街は川の反対側のヨーロッパ側にある。 オルスクは1735年8月15日、ロシア帝国がウラル南部の征服を進める過程で建設された。最初は、イヴァン・キリロフによる遠征隊がヤイク川(現在のウラル川)左岸のプレオブラジェンスカヤ山に建てた要塞であった。この要塞はもとは「オレンブルク」と呼ばれ、ウラル川にロシア帝国の国境としての重要性を与えていた。要塞の建設に反発するバシキール人は、バシキールの蜂起 (1735年-1740年)(ロシア語版)を起こしたが、強力な弾圧が加えられた。1739年、要塞は公式にオルスクと改称された。オルスク要塞には軍の駐屯地だけでなく商品の交換所や税関などもあり、カザフ人やその他の中央アジアの民族との交易の場所としても重要であった。 オレンブルクが建設され、1835年にはロシアの国境は東のほうへ拡大し、国境の町としての重要性は失われたが中央アジアへの交易の中継地としての役割が残った。皇帝ニコライ1世夫妻を批判する詩を書いて流刑に処されたウクライナ人の詩人・画家のタラス・シェフチェンコは、1847年6月22日から1848年5月11日までの間、オルスク要塞に住んでいる。 1861年には要塞は廃止されたが、それ以前からコサックの人口が増えており、オレンブルク・コサック軍の拠点が置かれるようになった。1865年には市の地位を得て、この地方の中心都市となった。1870年代になるとオレンブルクまで鉄道が敷設され、オルスク市は急速な成長を始めた。人口の多くは畜牛や穀物の取引、農産物の加工、その他手工業や工芸に従事していた。名産であるオレンブルク・ショールを織るために多くの女性も働いていた。1913年までにオルスクの人口は21,000人を超え、1917年には11の聖堂とモスク、16の学校が存在していた。 ロシア内戦の時期、1918年から1919年までの間、オルスクは3ヶ月間におよぶ封鎖に耐えたほか、オルスクは四度も対立勢力の手に渡ることを繰り返した。1930年代にはこの地の豊かな鉱物資源を使って重工業を興すため、ソビエト連邦が大規模な産業投資を行った。第二次世界大戦(大祖国戦争)の時期にはドイツ軍が侵入した地域から人々や工場がオルスクへ疎開し、オルスクは大都市へと成長した。 オルスクはオレンブルク州でも重要な産業の中心地である。主な産業は冶金、機械、石油化学、食品、軽工業などである。主な企業には大規模な冶金工場「Yuzhuralnikel」(南ウラルニッケル工場)、石油化学工場「Orsknefteorgsintez」、「Yuzhuralmashzavod」などがある。周囲では銅、クロム、ニッケルなどの埋蔵量が多い。またポルコフニク山から採掘される碧玉も、色や形の多様さから重宝されている。

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日蘭修好通商条約 – Wikipedia

日蘭修好通商条約 署名 安政5年7月10日(1858年8月18日) 署名場所 江戸 締約国 江戸幕府とオランダ 関連条約 安政五カ国条約日蘭和親条約日蘭追加条約 テンプレートを表示 日蘭修好通商条約(にちらんしゅうこうつうしょうじょうやく)とは、安政5年7月10日(1858年8月18日)に江戸において日本(江戸幕府)とオランダとの間で結ばれた条約である。 安政五カ国条約の一つ。全11条及び税則7則によって構成されている。 日本側の調印者は永井尚志・岡部長常・岩瀬忠震、オランダ側の調印者はヤン・ドンケル・クルティウス(最後のオランダ商館長、実質上の初代総領事)。 黒船来航後、日本とオランダとの間で日蘭和親条約及び日蘭追加条約が結ばれていたが、日米通商修好条約締結に合わせる形で締結された。 なお、この条約によってシーボルト事件におけるシーボルトの処分は免責され、翌年彼は再来日を果たしている。 関連項目[編集] 日蘭関係 表 話 編

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倫敦の人狼 – Wikipedia

『倫敦の人狼』(Werewolf of London)は、ユニバーサル映画が製作し、1935年5月13日に公開したアメリカ映画。白黒、75分。 本作はヘンリー・ハルが主演の 「狼男映画」であり、当時のハリウッドのメインストリームのうち、現存する作品の中で最も古い狼男映画とされている(フィルムが現存していないものを含めると、1913年の『The Werewolf』が最も古い)。 「狼男」の特殊メイクは、『フランケンシュタイン』(1931年)などで知られるジャック・ピアス(英語版)が担当。当初ピアスが施そうとしたメーキャップは、「表情をわかりにくくすべき」という少数派の意見を取り入れたため没になった。(ただし、その案は後に『狼男』へ流用された)。「狼男」役のヘンリー・ハルが最初のメーキャップに不満があったために変更されたとも言われ、その理由にも諸説ある。一説によると、ハルが最初のメーキャップは時間がかかりすぎることに不満があったのだという[1]。別の説によると、ハルは最初のメーキャップはあまりに動物的すぎるとしてカール・レムリ・Jrに直訴し、メーキャップを変えさせたのだという[2]。 本作における狼男のメーキャップは、ピアスがのちに『狼男』で施したものと似ているが、映画史の専門家は『倫敦の人狼』のほうがおぞましいと考えている。 狼男の吠え声は本物のオオカミの鳴き声と、主演のヘンリー・ハルの叫び声を混ぜるという、あまり使われていない方法だった。冒頭文における村人の会話はチベット語とされているが、実際は広東語だった。 あらすじ[編集] 英国の著名な植物学者・グレンドン博士は、”狼憑き”という奇病の治療薬である”狼草”を求めて、チベット高原までやってきた。雇った労働者や助手までもがおびえて消極的になる中、グレンドン博士はついに”狼草”を見つけ出すも、一匹の狼に噛まれてしまう。 帰国後、グレンドン博士が主催する植物展覧会に、ヨガミ博士という謎めいたアジア人学者が来訪した。ロンドンに”狼憑き”の患者がいると言って”狼草”を手に入れようとしたこの男は、グレンドン博士を襲った狼そのものだった。 グレンドン博士は”狼憑き”の症状が出て正気を保てなくなり、自宅を去って貧民窟を転々としながら研究室の”狼草”が咲くときを待っていた。 “狼草”が咲きだしたとき、グレンドン博士は研究所に侵入してきたヨガミ博士と鉢合わせ、殺し合いになった。ヨガミ博士を殺した直後、グレンドン博士は”狼憑き”について調べていたフォーサイス大佐によって射殺され、”狼憑き”から解放された。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替(テレビ版[3]/DVD版) 外部リンク[編集]

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スウィンフォード・バンドッグ – Wikipedia

スウィンフォード・バンドッグ(英:Swinford BandogまたはAmerican Bandog)とは、アメリカ合衆国原産の闘犬用・番犬(ガードドッグ)用の犬種である。犬種名の「スウィンフォード」は作出者の名前である。又、「バンドッグ」の名を持つが、本種はバンドッグではない。バンドッグとは本来古くから存在する、家や倉庫などの財産を守ることを専門として作出された番犬種の事である。 プロジェクトの第一世代の犬、バントゥとスウィンフォード博士 1869年に作出された犬種で、本来ならば犬のケガを治し命を救うべき立場にあるはずの獣医師によって作られた。アメリカン・ピット・ブル・テリアと闘犬用に交配された非純血の犬(マスティフタイプの犬であったとされている)をかけ合わせて改良を加え、作り出された。 闘犬としてのみ使用され、数多くの犬が命を落とす違法な闇賭博場で闘わさせられていた。本種はかなり力の強い犬種ではあるが、更に大型の闘犬には敵わず、重傷を負ったり命を落とす犬も少なくない。闘犬として戦えなくなってしまった犬は棄てられてしまうか、若い闘犬の自信をつけるための生贄となって動けないように固定されて攻撃され、結果として命を奪われる非情な最期を迎える犬も多い。 作出者の死後、ブリーディング・ストック(繁殖用の犬)を受け継いだ人物がスウィンフォード・バンドッグの血統の改善を行い、イングリッシュ・マスティフとナポリタン・マスティフのハーフ犬とアメリカン・ピット・ブル・テリアを交配させた犬の血が取り組まれるが、違法な闘犬の取締りが強化され、本種も多くの犬が没収された。没収された犬は一時動物管理センターに預かられるが、もとが凶暴な闘犬であるためにほとんどの犬の里親は見つかることがなく、殺処分されてしまうのが現状である。その事実を知っているにもかかわらず闘犬を作り続け、犬の命をまるでゲームのコマのように扱い続ける闘犬マニアに動物愛護団体や愛犬家は憤り、これを動物虐待であると認めて本種の作出を受け継いだ人物をはじめとする闘犬マニアを厳しく処罰した。しかし、どのような処罰を与えたのかなどの詳細な情報は公に公開されていない。 作出を受け継いだ人物の処罰後、スウィンフォード・バンドッグはほとんど公の場での話題にのぼる事はなくなったが、ごく一部の犬は今でも闘犬として使われ続けている。アメリカでは100年以上も前に闘犬が禁止されているにもかかわらず、今でも全ての闇賭博絡みの闘犬場を取り締まる事が出来ないのは、国家を揺るがすほどの大きな犯罪組織が絡んでいるからであるといわれている。 今まで根っからの闘犬としてのみ使われ、闇の歴史を歩み続けてきた本種ではあったが、近年は明るいニュースもある。摘発によって没収され、動物管理センターに預けられた本種を引き取って訓練を行い、普通のガードドッグとして農場などで見張りをさせる取り組みも行われている。違法で凶暴な闘犬種というイメージから一般家庭でのブリーディングは控えられ、多くは去勢・避妊手術を施されている。ペットとしてもめったに飼われる事の無い本種ではあるが、徐々に闘犬からの転職を行いつつある。完全に悪いイメージを払拭させる事を目標として愛好家はブリーディングと訓練を同時に行っている。現在本種は希少化が進み、アメリカでもあまり見かけなくなりつつある。FCI及び各国のケネルクラブからの公認はされていない。 マスティフタイプの犬種で、筋骨隆々のがっしりとした体格をしている。足や指は太く、マズルも短く太い。力がとても強くアゴは強靭である。折れ耳・垂れ尾でコートはスムースコート。毛色はフォーン、レット、ブラウン、グレーなどで、マズルは黒い(ブラック・マスク)。大型犬サイズで、性格は闘犬に使われるものとガードドッグとして使われるものとでは異なっている。闘犬用のものは非常に気性が荒く、攻撃的で支配力が強いが、ガードドッグとして使われるものは防衛本能が高いが、忠実でそれほど攻撃的ではない。ただし、どちらにせよしっかりとした訓練と管理が行えない人には飼育できない犬種である。大型犬ではあるが、腰を痛める可能性があるのであまり多くの運動量は必要としない。 『デズモンド・モリスの犬種事典』デズモンド・モリス著書、福山英也、大木卓訳 誠文堂新光社、2007年 関連項目[編集] 外部リンク[編集] Chimera Kennels – Origin of the

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掃海艇1号型 – Wikipedia

掃海艇1号型(そうかいてい1ごうがた、英語: MSB No.1 class minesweeping boats)は海上自衛隊の掃海艇の艦級。発展型の掃海艇7号型を含めて、小掃(小型掃海艇の略)として知られていた。 1953年(昭和28年)、発足直後の警備隊は、艦艇国産化の方針にもとづき、中型掃海艇(MSC)としてあただ型掃海艇およびやしろの整備を計画した。一方、1950年代当時のアメリカ海軍は行動海域ごとに艦型の異なった掃海艇を用いていた。このうち内水掃海艇と呼ばれるものは港湾海域や沿岸部など浅瀬面の掃海作業を任務としていた。これに範をとって、瀬戸内海など極浅海域用小型掃海艇として、翌29年度計画より着手されたのが本型である[1]。 船体はアメリカ海軍の40トン内水掃海艇を参考に、木造船体、平甲板角型、舷外排気などの形式を採用している。船底・船側フレームはケヤキの単材、外板はスギの2層矢羽根張りとされ、キールはベイマツ、チャイン材はケヤキの積層材とされた。基本的に掃海母艇の支援下での活動を前提としており、艇内には居住施設はなく陸上施設または母艇で居住し、給食も母艇に依存していた。またレーダーも持たず、コーナーキューブ・リフレクタをマストに装備して、母艇のレーダー管制下で掃海活動を行うことになっていた。掃海具としては、片舷J掃用係維掃海具(53式普通掃海具の片舷分)と浮上式磁気掃海具を搭載していた。ただし音響機雷に対しては、必要に応じて掃海母艇からA-Mk6b音響掃海具を受け取って曳航することとされていた[1]。 本艇は6隻で1組、1隻の母艇で運用される。1957年(昭和32年)4月10日、掃海艇1号、2号及び指揮艇「かいどう」、掃海母艇「ゆうちどり」により第101掃海隊を新編、呉地方隊隷下の呉基地警防隊に編入され、瀬戸内海での業務掃海の任務についた。その後、就役した同型艇は逐次101掃海隊に編入され、1959年(昭和34年)3月31日、掃海艇6号の就役により第101掃海隊は同型艇6隻編成となった。1960年(昭和35年)5月1日、第101掃海隊は長官直轄部隊の第1掃海隊群に編入。1969年(昭和44年)3月15日、大部分の業務掃海が終了したとして第1掃海隊群が自衛艦隊に編入となったが、未掃海の浅海面が残っていたため、第101掃海隊は呉地方隊に編入され業務掃海を続けた[2]。 1号型の老朽化に伴い、昭和46年(1971年)度計画で7号型が建造され、1号型を順次更新した。7号型は基本的には1号型を発展させたものであり、船体を延伸して居住区画(ベッド5名分など)が設置されたが、母艇の支援下で行動する運用形態は変わらない。また当初は1号型と同様にレーダーを搭載していなかったが、平成2年に小型の航海レーダーを後日装備した[3]。1997年(平成9年)5月1日、掃海艇11号、12号が除籍となり第101掃海隊も廃止された。 後継として、掃海管制艇(MCL)と遠隔操縦式掃海具(SAM)の組み合わせが採用され、本型が小掃の系譜の掉尾を飾ることとなり[4]、第101掃海隊も1998年(平成10年)3月23日に再編された。 # 艦名 計画年度 建造 起工 進水 就役 除籍 MSB-701

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モントリオール大都市圏交通局 – Wikipedia

モントリオール大都市圏交通局(モントリオールだいとしけんこうつうきょく、仏: Réseau de transport métropolitain)はカナダ・ケベック州モントリオールを中心とした地域都市間公共交通機関。略称はRTM。ブランド名はExo。 サンジェローム線の車両 モントリオール大都市圏交通局(通称RTM)によってモントリオール市内と市外を結ぶ鉄道、バスが運行されている。1995年12月にモントリオール大都市圏の自治体の交通機関を統括するものとしてAMT(Agence métropolitaine de transport)が設立された。1996年にはそれまで STCUM(モントリオール公共交通局)が運行していた通勤鉄道路線を譲り受けて、急行バス路線と共に運行開始した。モントリオール市中心部からモントリオール島郊外やジェス島にあるラヴァル、サンジェロームなどのローレンティッド地域、ロンゲールなどのモンテレジー地域などへ向かう交通機関となっている。 ケベック州によりARTMが設立されたことを受けて、2017年6月1日にAMT(Agence métropolitaine de transport)からRTM(Réseau de transport métropolitain)に組織が改編され、2018年5月にExoというブランド名で運行されている。 モントリオール中央駅から2路線、ルシアン・ラリエール駅から3路線の計5路線からなる通勤列車で、かつてはカナディアン・ナショナル鉄道(CN)とカナダ太平洋鉄道(CP)が運行していたが、1980年代に2路線を除いて運行が停止されたが、1996年のAMTの設立に伴って各路線で運行が徐々に復活。2014年には新路線が開通した。マスクーシュ線の一部区間のみが電化されており、その他は非電化であり平日朝夕ラッシュ時を中心とした運行で本数も少ない。路線はカナディアン・ナショナル鉄道(CN)とカナダ太平洋鉄道(CP)、そしてケベック-ガティノー鉄道が管理する線路を運行しているが、一部線路はRTMの専用となっている。全線が電化路線であったドゥ・モンターニュ線は2020年12月31日を最後に運行停止し、2024年に同区間を走るREMの開通へ向けての工事が行われている。マスクーシュ線は2023年には建設中のコート・ドゥ・リエス駅がターミナルとなる予定であり、REMに接続する。 路線番号

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