Month: April 2022

ニュー・イングランド (バンド) – Wikipedia

ニュー・イングランド(New England)は、アメリカ合衆国のロック・バンド。ボストンで結成され、1979年にデビューを果たした。 ジョン・ファノン、ジミー・ウォルドー、ハーシュ・ガードナーの3人は、1973年にはファットバックというバンドで活動を共にしており、その後、3人はゲイリー・シェア(ベース)やケン・メーレ(ボーカル)と共にターゲットというバンドを結成[1]。さらにケン・メーレが脱退してバンドは4人編成となり、ニュー・イングランドと改名して、MCAレコード傘下のインフィニティ・レコードとの契約を得る。 1979年、ポール・スタンレーがプロデューサーとして参加したデビュー・アルバム『失われし魂』を発表[2]。同作はBillboard 200で50位に達し[3]、「失われし魂(Don’t Ever Wanna Lose Ya)」(全米40位)、「ハロー・ハロー・ハロー(Hello, Hello, Hello)」(全米69位)といったシングル・ヒットも生んだ[3]。 その後、バンドはエレクトラ・レコードに移籍するが、セカンド・アルバム『果てしなき冒険』(1980年)はチャート・インを果たせなかった。続く『ウォーキング・ワイルド』(1981年)はトッド・ラングレンをプロデューサーに起用して制作されたが、全米176位止まりとなり[3]、ニュー・イングランドは1982年に解散する。 バンド解散後、ジョン・ファノンを除く3人はヴィニー・ヴィンセントと共にウォリアーを結成するが、ヴィンセントがキッスに加入したため、ウォリアーはほどなく解散した[4]。そして、ジミー・ウォルドーとゲイリー・シェアはグラハム・ボネットと共にアルカトラスを結成して、ハーシュ・ガードナーは音楽プロデューサーとしての活動が中心となった。 1990年代にはニュー・イングランドの再評価が進む。1998年、未発表音源集『1978』がリリースされたのに加え、CD化が遅れていたエレクトラ・レコード時代の2作も復刻された。 2002年、ハーシュ・ガードナーは初のソロ・アルバム『ウェイストランド・フォー・ブロークン・ハーツ』を発表。同作収録曲「モア・ザン・ユール・エヴァー・ノウ」において、ニュー・イングランドのメンバー4人は20年ぶりに共演した[4]。その後、1980年前後のライヴ音源を発掘した『グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』のリリースを経て、ニュー・イングランドはライヴ活動を再開する。 メンバー[編集] ディスコグラフィ[編集] 失われし魂 – New

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ヘプ – Wikipedia

ヘプ(Cheb)は、チェコの町。ドイツ語ではエーガー、エゲル(Eger)。 地勢・産業[編集] ドイツ国境に近い。中世よりバイエルンからボヘミア(ベーメン)地方へと移動する中継地点としての役割を果たし、交易などを通じて栄えた。現在は木材、自転車工業などが盛んなほか、多くの観光客も集める。とりわけ、2004年にチェコが欧州連合(EU)に加盟したことは、隣国ドイツからの観光客を増加させることに大きく寄与した。近隣の都市としては、約25キロ南東のマリアーンスケー・ラーズニェ、40キロ北東のカルロヴィ・ヴァリ、40キロ北西のホーフ(ドイツ領)などが挙げられる[1]。 エーガー(ヘプ)は11世紀後半より史料に現れる(当時の表記は「エーギレ」:[Egire])。12世紀には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のもとで、ヘプ城が建てられている。13世紀に帝国自由都市としての地位を手に入れた。 14世紀半ば、ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)によって貨幣鋳造権が認められた。通商路の中継地に位置していたため商業が盛んだったが、幾度となく戦禍にもさらされた。また、1389年におけるローマ王兼ボヘミア王ヴァーツラフ4世が発布したエーガーのラント平和令や、15世紀前半のフス戦争後にイジーがボヘミア王に即位、彼とザクセン選帝侯フリードリヒ2世との間で結ばれボヘミア王国とザクセン公国の勢力範囲を確定した1459年のエーガー条約(ドイツ語版、英語版)など、この町において諸侯間の重要な取り決めが結ばれた。 ヴァレンシュタインの暗殺 17世紀前半の三十年戦争で深刻な被害を受けるが、復興を果たした。また、三十年戦争において皇帝側で戦ったヴァレンシュタインは、皇帝フェルディナント2世の不信を招いてこの地でスコットランド人とアイルランド人の将校によって暗殺された。 1850年には、チェコ系の住民の民族意識の高揚を受け、エーガーとヘプの双方が町の正式名称として採用された。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、ヘプはチェコスロヴァキアの一部となった。しかし、人口の多数を占めていたドイツ系の住民(当時、チェコ系の住民は1割程度)は、この措置に不満を持った。そのことが、ヘプを含むズデーテン地方におけるドイツ系住民のナチス支持へとつながった。1938年、ナチスはズデーテン地方を併合したため、ヘプはドイツ領となった。 第二次世界大戦後、ヘプはチェコスロヴァキア領に復帰した。戦争の被害は限定的であり、歴史的建造物の多くが破壊を免れたことは、ヘプにとって幸いであった。しかし、チェコスロバキア政府のベネシュ布告により、ヘプのドイツ系住民も市民権と財産を没収され、近隣のドイツ・バイエルン州へ強制追放された(ドイツ人追放)。そのため、街並はドイツ風だが、ドイツ系住民の数が大幅に減少し、終戦時に約4万5千人いた人口も1万5千人程度にまで減少した。その後、外部からの移住を奨励する政策がとられ、現在の人口は約3万3千人(2005年)まで回復している。新たな移住者には、共産主義政権により、労働者として招かれていたベトナム人や、定住を促されたロマの人々が含まれる。 ヘプ(1991年 – 2020年)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月

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ソニック&テイルス2 – Wikipedia

『ソニック&テイルス2』(ソニック アンド テイルス ツー)は、セガ・エンタープライゼスが1994年11月11日に発売したゲームギア用のアクションゲーム。[1] 『ソニックアドベンチャーDX』(ゲームキューブ)や『ソニック ジェムズ コレクション』(PlayStation 2、ゲームキューブ)に収録されている。また、ニンテンドー3DSのバーチャルコンソールソフトとして2012年3月14日から配信開始されている。 システム[編集] 最初に「ソニック」と「テイルス」からプレイキャラクターを選択できる。キャラクターにより以下の特徴がある。 ソニック – スピード重視なので、爽快感を味わえる。 テイルス – ヘリテイルで高い所まで行けるため、ステージをじっくり探索できる。 基本アクション[編集] ストライクダッシュ ソニック専用アクション。スピンダッシュと似ているが、スピンせずに一定時間無敵で走る。 ヘリテイル

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千葉雄大 – Wikipedia

ラグビー選手の「千葉雄太」とは異なります。 この項目では、実在する俳優について説明しています。『みつどもえ』に登場する同姓同名のキャラクターについては「みつどもえ#登場人物」をご覧ください。 千葉 雄大(ちば ゆうだい[1]、1989年3月9日[1] – )は、日本の俳優、タレント、ファッションモデル。 宮城県多賀城市出身[2]。宮城県仙台第三高等学校卒業[3]。玉川大学中退[4]。ジャパン・ミュージックエンターテインメント(イー・コンセプト)所属。 略歴 人物 スーパー戦隊シリーズ 幼少時代好きだった「スーパー戦隊シリーズ」の作品は『恐竜戦隊ジュウレンジャー』だった[18]。 『天装戦隊ゴセイジャー』で共演したにわみきほは、千葉は他のメンバーがはしゃいでいても仕事に集中していたり、自身の出番が終わっても撮影現場を3時間も見学していたことを証言しており、真面目で芯が強くメインキャストを引っ張る頼もしい存在だったと評している[19]。 ラジオ好きとして モデルとして表舞台で仕事をしていたが、映像をはじめとする制作にも関心が強く、大学在籍中にテレビ局、制作会社、配給会社、ラジオ局などに就職活動をしていた[20][21]。また、学生時代にはラジオ番組にネタを投稿するリスナーだった[22][23][24]。2021年6月からはファンクラブサイト、YouTubeにて自身のラジオ番組『千葉雄大のラジオプレイ』の配信を開始した[25]。 出演 役名の太字は主演作品。 テレビドラマ 映画 配信ドラマ

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マルガメ属 – Wikipedia

マルガメ属(マルガメぞく、Cyclemys)は、爬虫綱カメ目イシガメ科に属する属。模式種はノコヘリマルガメ。 インド東部、インドネシア(ジャワ島、スマトラ島、ボルネオ島)、カンボジア、タイ、フィリピン(パラワン島、スールー諸島)、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス 最大種はオルダムマルガメで最大甲長25.4センチメートル。最小種はノコヘリマルガメで最大甲長21センチメートル。背甲は扁平。属名Cyclemysは「丸いカメ、円形のカメ」の意で成体も含めて上から見た背甲に由来する(上から見ると細長い楕円形の種もいる)と考えられ、本属の構成種を指す和名と同義。椎甲板は平坦で、筋状の盛りあがり(キール)がある。椎甲板の数は5枚。後部縁甲板はやや鋸状に尖るが、成体では不明瞭な個体もいる。 背甲と腹甲の継ぎ目(橋)は長い。 腹甲は大型で幅広い。胸甲板と腹甲板の間にあまり発達しない蝶番があり、腹甲をわずかに折り曲げることができる。喉甲板はやや突出し、左右の喉甲板の間にわずかに切れ込みが入る。 頭部は中型。吻端はわずかに突出し、上顎の先端は凹まないかわずかに凹む。後頭部は細かい鱗で覆われる。四肢は頑丈で、指趾の間にはやや水かきが発達する。 幼体は背甲が上から見ると円形で、キールや縁甲板の鋸歯が明瞭。また幼体は蝶番が発達せず不明瞭。 オスは腹甲の中央部がわずかに凹む個体もいる。また尾が太くて長く、尾をまっすぐに伸ばした状態では総排出口全体が背甲の外側にある。メスは腹甲の中央部が凹まない。また尾が細くて短く、尾をまっすぐに伸ばしても総排泄口の一部が背甲よりも内側にある。 分子系統学的解析ではオオヤマガメ属やシロアゴヤマガメ属、ニセイシガメ属、ムツイタガメ属に近縁と考えられている。 核DNAやミトコンドリアDNAの塩基配列からの分子系統学的解析ではインドシナ半島南部からインドネシアにかけて分布する腹甲の色彩が明色(ミナミクロハラマルガメを除く)のニシキバラマルガメやノコヘリマルガメ、ヒガシキバラマルガメ、ミナミクロハラマルガメの4種からなる単系統群と、インド東部からインドシナ半島にかけて分布する腹甲の色彩が暗色のインドクロハラマルガメ、オルダムマルガメ、ビルマクロハラマルガメの3種からなる単系統群を形成すると推定されている。 人間との関係[編集] 生息地や中華人民共和国では食用とされることもある。 開発による生息地の破壊、食用の乱獲などにより生息数は減少している種もいる。2013年に属単位でワシントン条約附属書IIに掲載された[a 1]。 ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。流通量はやや多く、主に野生個体が流通する。安価で流通することや野生個体が主に流通するため輸送の状態や扱いが悪く、状態を崩したまま流通する個体も多かった。また本属全体の分類が混乱している事からノコヘリマルガメとして他種が流通していると考えられ、以前はリーフタートルとしてマルガメ属の構成種とオオヤマガメの幼体が区別されずに販売される事もあった。 アクアリウム、アクアテラリウム、成体は大型の水場を設けたテラリウムなどで飼育される。やや低温に弱い(特に幼体)ためケージ内は保温する。飼育下では人工飼料や乾燥飼料にも餌付く。協調性は良く複数飼育でも問題が起こりづらいものの、発情したオスは同種他種問わずに噛みつき交尾を迫るため場合によっては隔離する。 参考文献[編集] 安川雄一郎 「オオヤマガメ属、マルガメ属とその近縁属の分類と自然史(後編)」『クリーパー』第50号、クリーパー社、2009年、2-10、24-42頁。 関連項目[編集]

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レンズフィルター – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “レンズフィルター” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年6月) 62mm UV(上)・円偏光(左)・昼色蛍光灯(右)フィルター レンズフィルターとは、写真や映像を撮影する場合や望遠鏡などで観察する際に、レンズの先端、後端、あるいは中間部分に装着して、そこを通過する光に制限を与えるカラーフィルタやその他の光学フィルターである。 光を波長や偏光で透過あるいは反射により制御する。いわゆるソフト効果や光条効果などを加えるフィルタもある。 効果による分類[編集] 左側は偏光フィルターなし、右側はあり。雲のコントラストを高め、青空が強調されている。 右は偏光フィルターあり、左側はなし。葉の反射光が除去され、色が鮮やかになっている。 左は偏光フィルターなし、右側はあり。水面の反射が除去され、水の底がはっきり見えている。 偏光フィルター[編集] 偏光フィルター(PLフィルター、PL: Polarized

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アメージング・ハイウェイ60 – Wikipedia

『アメージング・ハイウェイ60』(Interstate 60: Episodes of the Road)は、2001年に製作されたファンタジーコメディ映画である。 マイケル・J・フォックス主演で大ヒットした『バック・トゥ・ザ・フューチャー』において脚本を担当したボブ・ゲイルがメガホンを取った本作。ある青年が願いを叶えるという不思議な力を持つ男と出会ったことからユニークな旅に出るというシンプルなロードムービーであるが、ところどころにブラックユーモアなどが散りばめられていたり、誰もが抱く将来への不安や人生の壁などについても触れられており、深みのある一風変わった作品に仕上がっている。出演するキャストにおいても、『バック~』でお馴染みのマイケル・J・フォックスやクリストファー・ロイドも脇役として顔を見せている。その他にも、ジェームズ・マースデンをはじめ、個性派俳優のゲイリー・オールドマンやクリス・クーパー、カート・ラッセルなど豪華なキャストが参加している。 日本では劇場未公開でDVDリリースのみとなった。 ストーリー[編集] 22歳の誕生日を迎えた主人公ニール。彼は父がお膳立てしてくれた有名法律学校入学の根回しや、その先に待っている未来に対して大いなる疑問を抱いていた。そんな彼の前に、なんでも一つだけ願い事を叶えてくれるという不思議な男、O.W.(ワン・ウィッシュ).グラントが現れる。グラントは常に持っている猿をかたどったパイプで人間の願い事をいとも簡単に叶えることが出来るのだ。将来に対して不安を抱くニールのユニークな願い事もグラントは聞き入れる。一方、あることをお願いしたニールには次々と不思議なことが起こり始めていた。 ある時、広告看板のモデルの美女リンに恋をしたニールは、早速その看板が提示する電話番号に電話を入れる。するとそれはアルバイト募集の番号だった。指定された日時に指定された場所へ行ってみると、そこには以前出会ったことのある一風変った男レイが待っていた。レイは、一つの小包をニールに渡すと、日時を指定してそれを彼に配達するよう要請する。血判まで押して契約を結んだニールは、いざその小包を片手に父から誕生日にプレゼントされた高級外車で存在しない“州間道60号”へと旅立つのだった。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替 スタッフ[編集] 監督:ボブ・ゲイル 脚本:ボブ・ゲイル 製作:ピーター・ブレイ、ニール・キャントン、アイラ・デューチマン 音楽:クリストフ・ベック 撮影:デニス・マロニー 編集:マイケル・ファラボリータ

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大隈英麿 – Wikipedia

大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856年10月9日) – 1910年(明治43年)5月14日)は、明治時代の教育者、政治家。東京専門学校(早稲田大学の前身)初代校長(1882年 – 1886年)や衆議院議員を務めた。陸奥盛岡藩主南部家に生まれ、一時期は大隈重信の婿養子になったが、後に離縁した。 誕生から留学[編集] 1856年10月9日(安政3年9月11日)、第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城内に生まれる。幼名(初名)は剛建。1870年(明治3年)、14歳のときに姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従って渡米する(従者に五十川基)。現地の小・中学校を経てダートマス大学へ入学して天文学を専攻、のち指導教授の転任に伴いプリンストン大学に移り、数学を修めた。卒業時に得た学位は理学学士。1874年(明治7年)にはアナポリスの海軍兵学校へも入学している[1]。1878年(明治11年)に帰国する。 大隈家入り[編集] 帰国後に大隈重信の長女・熊子と結婚し、大隈家の養嗣子となる。内務省地理局(現・気象庁)や外務省に勤務したが、明治十四年の政変により、養父の重信と共に下野する。翌1882年(明治15年)の東京専門学校開校にあたって初代校長に就任し、10月21日の開校式においては「開校の詞」を朗読、校長として「学の独立」を謳う開校宣言を行った。 なお、重信は当初、英麿が留学時代に得た学識を活用して、理科系の学校を興そうと考えていたが、同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換したという。その上理学科は入学者が少なく、設置後数年で廃されている(現在の早稲田大学理工学術院の直接の源流は、1908年(明治41年)に置かれた理工科とされている)。 校長辞任後は、第二高等中学校、高等商業学校にて教鞭を執るも、再び東京専門学校の講師に復帰する。1896年(明治29年)には早稲田尋常中学校を重信らと共に設立、初代校長に就任する。1901年(明治34年)に設立された早稲田実業中学の初代校長をも兼任する。当時生徒であった権田保之助は「極めて温厚な紳士であった」と評している[2]。 他方、1898年(明治31年)には第5回・第6回衆議院議員総選挙に郷里の岩手県から立候補し、進歩党所属で当選、1902年(明治35年)の第7回総選挙でも憲政本党に属して当選し、一時は教育者と政治家の二束の草鞋を履いていた。 離婚・復籍[編集] 1902年9月、英麿は熊子と離婚して大隈家を去り、早稲田の学園に関する職も全て辞して南部家に復籍した。その経緯について、9月20日付の『報知新聞』は「不良の知人に欺かれて多額の債務を負」ったと記し、原敬(旧盛岡藩の家老職の出である)もその日記(『原敬日記』)の同年9月13日の段に、離縁のことで南部家の関係者と相談した際の詳細を書き残している。それによれば、英麿が他人の負債(2万円の金額)の保証人となったことが離縁の原因であり、新聞で報じられた内容とほぼ一致する(同時期の夏目漱石の年俸が大学・高校の教員の給与を合わせても1500円であり[3]、2万円は莫大な金額だった)。英麿の連座による負債騒ぎは3度目で、原はこの一件の遠因を英麿の「柔弱」な性格が招いたものと評しており、「将来無頼の徒と交際を絶つ事を忠告」している。 復籍後の英麿は分家して平民となり(負債などの問題が本家に及ぶのを避けるためか)、故郷の盛岡に戻って教職に就いて暮らした。晩年、早稲田大学が理工科を設置したことを聞いた際、非常に喜んだと伝わる。 1910年(明治43年)5月14日に54歳で没し、南部家菩提寺の聖寿禅寺に葬られた。 参考文献[編集] 早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年史』第一巻、早稲田大学出版部、1978年

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