エディンソン・カバーニ – Wikipedia

エディンソン・ロベルト・カバーニ・ゴメス(Edinson Roberto Cavani Gómez, 1987年2月14日 – )は、ウルグアイ・サルト出身のサッカー選手。マンチェスター・ユナイテッドFC所属。ウルグアイ代表。ポジションはフォワード。 セリエAとリーグ・アンで得点王を獲得。ウルグアイ代表でもルイス・スアレスに次ぐ歴代2位の得点記録(53得点)を誇るストライカーである。 クラブ経歴[編集] ダヌービオ[編集] ダヌービオでデビューし、同年には19歳ながらレギュラーとして13得点を記録した。2006年2月にはイタリアで行われたビアレッジョ・トーナメントに出場して活躍し、インテルが獲得に乗り気だったが、設定された移籍金50万ユーロが高すぎるとして獲得には至らなかった。ユヴェントス、レアル・マドリード、PSVアイントホーフェン、パレルモが争奪戦を繰り広げ、激しい争奪戦の末、2007年1月31日、移籍期限最終日に移籍金500万ユーロでパレルモに移籍した。 USチッタ・ディ・パレルモ[編集] 2007年の南米ユース選手権でウルグアイ代表に貢献した後、ユヴェントスやACミランを始めとするいくつかのビッグクラブがカバーニとの契約に関心を示したと伝えられていた。 しかし、2007年1月29日、パレルモの会長マウリツィオ・ザンパリーニはカバーニとの署名を発表した。この署名は1月31日に正式に確認され、移籍金額は約450万ユーロで契約された。 セリエAデビュー戦となるフィオレンティーナ戦で相手のクリアボールをペナルティーエリア外からワンタッチボレーシュートで直接決め、その試合の後、ファン・バステンの再来と評された。その後も出番を与えられこのシーズン2得点(7試合)の活躍を見せた。 ただ、2007-08シーズンは3トップのサイドで起用されたため期待に応えられなかった。 2008-09シーズンはアマウリの移籍によりレギュラーとして3トップの中央や2トップでプレーし好調を維持、リーグ戦チームトップタイの14得点を記録した。 2010年4月、パレルモと2014年6月まで契約を延長した。 SSCナポリ[編集] 2010-11シーズン前に同じセリエAの強豪ナポリに500万ユーロでレンタル移籍した(1600万ユーロでの買取りオプション付き)[3]。移籍後はセリエA第19節のユヴェントス戦や第31節のラツィオ戦でハットトリックを達成するなどゴールを量産し続け、最終的にシーズン通して35試合に出場し26ゴールをあげ自身は得点ランキング2位となった。この活躍もありチームはリーグ戦を3位で終え、2011-12シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。シーズン終了後、ナポリは買取りオプションを行使し、完全移籍となった。また、このシーズンはUEFAヨーロッパリーグにも出場しグループリーグ第5節のユトレヒト戦ではハットトリックを達成した。勝たなければグループリーグ敗退という状況で迎えた最終節のステアウア・ブカレスト戦では後半ロスタイムにコーナーキックからヘディングシュートで決勝ゴールをあげ、チームを決勝トーナメントへ導いた。しかし、決勝トーナメント1回戦のビジャレアル戦ではゴールを奪うことは出来ずチームも敗退した。

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大堤権現塚古墳 – Wikipedia

大堤権現塚古墳(おおつつみごんげんづかこふん)は、千葉県山武市松尾町大堤にある古墳。千葉県の史跡に指定されている[1]。 本古墳は前方部を南側に向け後円部を北側に向けた墳丘長115メートルの前方後円墳である。前方部最大幅53メートル、くびれ幅約47メートル、後円部径60メートルの規模を持ち、墳丘の高さは前方部約10メートル、後円部は約12メートルで、前方部と後円部の比高差は2メートルほどある。墳丘の周りを盾形に巡る三重の周溝を持ち、周溝を含めた規模は全長174メートルで、前方部側最大幅104メートル、後円部側最大幅113メートルを測る。 出土遺物には、頭椎大刀、圭頭大刀、刀身、金銅製刀子鞘片、多数の鉄鏃、金銅製の耳環、水晶製切子玉、ヒスイ製の勾玉、多数のガラス玉・小玉があった。 本古墳で注目すべきは、前室・奥室を設けた複室構造を持ち、奥室の北側北壁に接して石棺を設けた特異な横穴式石室である。後円部墳頂から南東側に設けられ開口部を南に向けた埋葬施設の全長は約9メートル、奥室の奥壁には朱が塗られていた(現状は崩落していて確認できない)。大型の古墳にもかかわらず埴輪を持たず、終末期の前方後円墳とされ、前方部方向が南方向に位置することなども特徴的である。 また三重に巡る周溝は例が少なく、現在確認されているのは本古墳を含め8例[2]のみである。他の7例はいずれも5世紀~6世紀の大型古墳であるが、本古墳は6世紀末~7世紀初頭の築造とされ大型の古墳が造られなくなった時期でもあり、この時期のものとしては日本最大である。 山武市には多くの古墳があり[3]、木戸川沿いにはこの大堤権現塚古墳を含み2基の前方後円墳と円墳7基が確認されている大堤古墳群の他、前方後円墳4基と円墳15基のある蕪木古墳群や、円墳としては千葉県最大の山室姫塚古墳など17基の円墳より成る大塚古墳群があり、市町境を越えた横芝光町中台には表情豊かな人物埴輪を出土したことで知られる芝山古墳群もある。 境川東岸には、4世紀後半頃の銅鏡4面が出土したことで知られる島戸境1号墳を有する島戸境古墳群や、豊富な馬具類を出土したカブト塚古墳を有する麻生新田古墳群、多数の埴輪を出土した経僧塚古墳を有する真行寺古墳群、この大堤権現塚古墳に続く最終段階の前方後円墳と考えられる胡麻手台16号墳を有する胡麻手台古墳群、あるいはその後の仏教寺院であり、武射郡を代表する古代寺院と考えられる真行寺廃寺跡などもある。また作田川東岸には、4世紀前半頃の重圏紋倭鏡が発見された北野遺跡があり、古墳時代終末期の1辺62メートルの方墳駄ノ塚古墳や墳丘長約90メートルの前方後円墳西ノ台古墳など、前方後円墳3基、円墳29基、方墳3基が存在した板附古墳群もある。 交通アクセス[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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恩地三保子 – Wikipedia

恩地 三保子(おんち みおこ[1]、1917年2月12日 – 1984年12月27日)は、日本の児童文学翻訳家。 画家・恩地孝四郎の長女として東京に生まれる。1938年東京女子大学英文科卒。戦後、英米文学の翻訳を始め、はじめ推理ものや少女ものを訳し、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品の訳者として知られる。 死の月 シャーロット・ジェイ 早川書房 1955(世界探偵小説全集) ベッシイの高校卒業期 モード・ラブレイス 秋元書房 1956 ベッシイは高校一年生 モード・ラブレイス 秋元書房 1957 ベッシイは高校二年生 モード・ラブレイス

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ゲパード – Wikipedia

ゲパード(ハンガリー語: Gepárd)は、ハンガリーで開発された一連の遠距離狙撃銃[1]である。 ゲパード(Gepárd)とは「チーター」の意。 ゲパードシリーズは、最初のモデルであるM1がハンガリー軍研究所[1]によって1987年に設計され、MOMウォーターメジャリング・テクニック社が製造している。 1991年からはハンガリー軍でも制式対物ライフルとして採用されており、国連軍として派兵されている部隊などで使用されている[1]。 初期のモデルはワルシャワ条約機構軍の重機関銃用弾薬、12.7x108mm弾薬のみを使用していたが、ハンガリーの自由化後、銃身に改良を施すなどし、NATO軍で使用されている12.7x99mm弾を使用できる輸出型も開発された。その後、ハンガリー軍もNATOの一員として活動するようになると、輸出型同様にハンガリー軍に制式採用されたゲパードM1は全て12.7x99mm口径に変更された。 元々、ゲパードM1は遠距離狙撃銃として開発されている[1]ため、優れた命中精度を誇る。 M1の作動方式はボルトアクション方式を採用しており、装弾数は1発のみとなっている。撃発メカニズムは独特であり、銃把部分に撃発メカニズムがまとめられており、先端には撃針が露出して取り付けられており、銃把がボルトハンドルを兼ねている。形状はシングルアクションの単発拳銃に近い[1]。弾薬の装填方法は、銃把を右方向に回転させて後方に引くことで撃発メカニズム部分を銃身から取り外し、その先端部分に弾薬を装着して機関部へ挿入する。最後は銃把を左方向に回して元に戻すことで完了する。排莢も同じ手順で行う。 ゲパードM2では手動ボルトアクションに代わりロングリコイル方式[2]のブローバック方式に変更され、以後M3、M4、M6、GM6にロングリコイル方式の機構が用いられている(M5はM1と構成は異なるが、同様のボルトアクション方式である)。 バリエーション[編集] 使用目的ごとに使い分けるため、様々なバリエーションが開発されている。 M1A1/M1A2[編集] M1A1 照準器を改良し長銃身型とした改良モデル。銃身が長過ぎるために専用の運搬バッグが用意された。重量がありすぎ(総重量21kg)たため、実用性がないと判断され、試作のみに終わった。 この節の加筆が望まれています。 M2[編集] M1と同じく、ハンガリー軍研究所で開発された対物ライフル。ただし、M1とは違い純粋な対物ライフルとして設計されていて、分隊に配備することを前提にしており、兵員が1人で容易に運用できるよう、ブルパップ方式を採用し、弾倉を銃把の横に配置することで全長をできる限り短くしている。 作動方式はセミオートマチックで、機関部側面に5発もしくは10発の箱型弾倉を装填する。また、銃口に大型のマズル・コンペンセイターの装着をしたり、重い銃身を使用するなどして、反動を軽減する工夫を施している。 M2A1 M2の空挺部隊向けのモデルで、銃身を830mmまで縮めて全長を短くしている。また、折りたたみ式の二脚を標準装備している。

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成都駅 – Wikipedia

成都駅(せいとえき/中国語簡体字:成都火车站/正体字:成都火車站)は中華人民共和国四川省成都市金牛区と成華区の境界にある中国鉄路総公司(CR)成都鉄路局が管轄する駅である。成都北駅とも呼ばれる。 本項では、近接する成都軌道交通の火車北駅駅(かしゃきたえきえき)についても記述する。 所属路線[編集] 中国鉄路総公司 成昆線:本駅起点、昆明駅終点まで1,100km 成渝線:本駅起点、重慶駅終点まで504km 達成線:本駅終点、龍潭寺駅までは成渝線と重複区間、達州駅起点より386km 宝成線:本駅起点、宝鶏駅終点まで669km 成都市域鉄路成灌線 成都軌道交通 ■1号線:全長23.9km、22駅。駅名は「火車北駅」。天府広場や成都南駅に直接行けるようになった。2010年9月27日開業。 ■7号線:全長38.5km、31駅。駅名は「火車北駅」。成都初の環状地下鉄路線。2017年12月6日開業。 中国鉄路総公司[編集] 単式ホーム2面、島式ホーム4面を持つ地上駅である。5-6面目のホームは乗降面が高いものが新設された。駅の面積は1.64万平方メートルで、待合室は七千人以上を同時に収容出来る。1本の跨線橋と2本の地下道を持つ[1]。 成都軌道交通[編集] 地下3階構造で、地下1階が改札階、地下2階が1号線ホーム階、地下3階が7号線ホーム階となっている。ホームは1号線・7号線共に島式1面2線構造。1号線ホーム・7号線ホームは直接階段・エレベータなどで繋がっておらず、乗り換え時には改札階を経由する必要がある。 出口はA・C・D・E・F・Hの六ヶ所あり、A・D出口とそれ以外は改札口が別である。 利用状況[編集] 本駅は成昆線、成渝線、達成線、宝成線の旅客、貨物を扱う成都鉄路局直属で管内の特等駅である。2009年3月現在、114本の旅客列車が発着し、8本を除き始発列車または終着列車である[2]。旅客数は一日平均3.3万人で、最高は5万人に到達した。[3] 中国鉄路総公司

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ラインハルト作戦 – Wikipedia

この項目では、ホロコーストの一環である作戦について説明しています。ナチス時代初期の雇用創出計画である「ラインハルト計画」については「ナチス・ドイツの経済#労働政策」をご覧ください。 ラインハルト作戦(ラインハルトさくせん、独:Aktion Reinhardt、アクツィオン・ラインハルト)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に執行したユダヤ人大量虐殺作戦。ポーランドなど東ヨーロッパのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)を解体し、そこで暮らすユダヤ人を三大絶滅収容所(ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)へ移送して殺害する、ホロコーストの一環である絶滅計画である[1][2]。 「ラインハルト」の名は国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将のファーストネームに由来するとされる[1][3][# 1]。 目次 1 経緯 2 虐殺数 3 注釈 4 参考文献 4.1 出典 独ソ戦の行き詰まりでナチスが当初思い描いていたユダヤ人の東方追放は難しくなった。ナチスは東ヨーロッパのゲットーのユダヤ人の処遇に困り、彼らを殺害することとした[2]。後に「ラインハルト作戦」と命名されるこのユダヤ人虐殺作戦は、1941年10月頃から準備が開始され、1942年3月中旬から1943年11月初旬にかけて実行された[1]。 「ラインハルト作戦」の執行にあたったのはルブリン地区親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニク親衛隊少将(以下階級は当時)であった。グロボクニクはポーランド総督府領全体の親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー親衛隊大将の指揮下にあったが、「ラインハルト作戦」の執行においては親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに直属するとされ、クリューガーの指揮は受けなかった[4]。さらに「ラインハルト作戦」を実質的に指揮したのはグロボクニクの副官であるヘルマン・ヘフレ(Hermann Höfle)親衛隊大尉であった。彼が各地域の親衛隊及び警察指導者と調整しながらゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送を指揮した[5][6]。 「ラインハルト作戦」の執行のために総督府領内にベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が建設された[5]。

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ランギポ砂漠 – Wikipedia

位置図 ランギポ砂漠(ランギポさばく、英語: Rangipo Desert)はニュージーランドルアペフ山北側に位置する砂漠である。トンガリロ山・ナウルホエ山の東側に位置する。 砂漠 ランギポ砂漠では年間に1500mmから2500mmの降水量があるが、乾ききった大地のためいつも乾燥している。また、砂漠は海抜1000mの所に位置する。砂漠の大部分は無人化しており、南端にあるマナワツ・ワンガヌイのWaiouruにニュージーランド軍の軍事用施設があるだけである。 ランギポ砂漠付近には、トンガリロ国立公園のルアペフ山・トンガリロ山・タウルホエ山などがあり、北部周辺にはワイカト川が流れている。 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、ランギポ砂漠に関連するメディアがあります。 トンガリロ国立公園公式サイト 表 話 編 歴 砂漠 アフリカ大陸 バユダ砂漠 チャルビ砂漠 ダナキル砂漠 東部砂漠

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ワンセグランチボックス – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ワンセグランチボックス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 『ワンセグランチボックス』は、2009年4月6日から2012年3月2日[1][2]までNHKワンセグ2で放送された情報番組である。 放送時間[編集] 月曜 – 金曜 12:00 – 13:00(JST) 2009年度 選抜高校野球、夏の高校野球の期間と年末年始は放送休止される。 スタジオ[編集]

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色彩論 – Wikipedia

ゲーテによる光のスペクトル ゲーテによる闇のスペクトル 『色彩論』(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが1810年に出した著書。教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートンの色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。 ゲーテの色彩論は、約二十年の歳月をかけて執筆された大著であり、ゲーテはこの著作が後世においてどのように評価されるかにヨーロッパの未来がかかっていると感じていた。そこまでゲーテが危機感を抱いていた相手とは、近代科学の機械論的世界観である。色彩論においてはニュートンがその代表者として敵対視されている。ニュートンの光学では、光は屈折率の違いによって七つの色光に分解され、これらの色光が人間の感覚中枢の中で色彩として感覚されるとしている。ゲーテは、色彩が屈折率という数量的な性質に還元されて理解されることが不満だった。 ゲーテの色彩論がニュートンの光学と根本的に異なる点として、色の生成に光と闇を持ち出しているということがある。ニュートンの光学はあくまで光を研究する。闇とは単なる光の欠如であり、研究の対象になることもない。だがゲーテにとって闇は、光と共に色彩現象の両極をになう重要な要素である。もしもこの世界に光だけしかなかったら、色彩は成立しないという。もちろん闇だけでも成立しない。光と闇の中間にあって、この両極が作用し合う「くもり」の中で色彩は成立するとゲーテは論述している。 色彩は光の行為である。行為であり、受苦である。(『色彩論』まえがき) 色彩論においては、色彩は光の「行為」として捉えられている。すなわち生けるものなのである。ゲーテは語りかける自然ということを言っているが、語りかけるとは、語るものと、語りかけられるものがあってこそ成り立つものだと言える。色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである。 音や香りなどの感覚と同様、色彩には、ただ客観的な自然を探求しようとする姿勢では捉えられないものがある。色彩は数量的、客観的に分析される光の中に最初から含まれているとすると、客観的に光を分析してゆけば色彩のことが分かるということになる。ゲーテはこれに、外界の光を分析するだけでは理解できない、眼の働きによる色彩の現象を持ち出して反論する。灰色の像を黒地の上に置くと、白地の上の同じ像よりも明るく見える。この像を単独で、客観的に分析するだけでは明るさの違いは説明できない。これには眼の作用が関わってくるからである。 対立するものが呼び求め合うというこの運動は、ゲーテが自然のうちに見いだした分極性の働きである。眼はひとつの色彩の状態にとどまらず、明るさと暗さという両極にあるものを呼び求め合うことによって新たなる色彩を生み出す。このようにゲーテは、静止した対象としてではなく、生成するものとしての色彩を見いだすのである。ゲーテにとって生きるとは活発に運動し、新たなるものを創造することである。 ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする。くもった媒質を通して光を見ると黄色が、闇を見ると青色が生じるからである。プリズムの実験によって、ゲーテはこの黄色と青を両極とする色彩論を展開する。白い紙の上に黒い細長い紙片をおき、プリズムを通してそれを眺めると、上から順に青、紫、赤、橙、黄という色が並んで見える。プリズムと眼の角度を調整し、色を重ねて行くとこの並びは最終的に青、赤、黄となる。ゲーテはこれを色の三原色とした。そしてこの三原色を中心としながらダイナミックな動きを内包する色彩環を提唱する。 ゲーテの色彩環は、赤を頂点としながら黄と青を両端とする三角形に、緑を下の頂点としながら橙と紫を両端とする逆向きの三角形が重ね合わされたものである。赤と黄の間に橙、赤と青の間に紫が配置される。この六角形では赤に対しては緑、黄に対しては紫、青に対しては橙が反対の所に位置している。 この色彩環において対になっている色を、我々の目が実際に対として捉えていることを、ゲーテは残像の実験によって確かめる。白紙の上に色を付けた紙片を置いてそれをじっと見つめる。しばらくしてから色付きの紙片を取り去ると、白紙の上に紙片の色とは違う色の残像が浮かび上がる。その残像の色こそ対になっている色である。即ち赤は緑、黄は紫、青は橙の残像を出現させるのである。ここにも対立する色が呼び求め合う働き、分極性が見出される。色彩は静止したものではなく、それ自身の内部に力を有して運動するものであり、動きもその色単独のものではなく、他の色と結びついた動きであるというこの考え方は色を有機的・生命的に捉えたものだと言える。 色彩現象の全体を包括する色彩環は、一と全、特殊と普遍の合一を示している神秘的な形である。ニュートン的なスペクトルでは、色彩は色光の波長により赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の直線として分析され、円を描くなどということはない。色彩環は数量化された自然ではなく、人間が感覚する自然を探求したゲーテの姿勢から見いだされたものだと言える。ゲーテの色彩環は、活動しながら新たなる色彩を生み出す生きた自然の秩序を示したものである。多種多様な色彩現象をその種々異なる段階に固定し、並列したまま眺めると全体性が生じる。この全体性は眼にとって調和そのものである。 眼は単なる青にも黄にも満足せず、それ以外の色を求める。黄と青は呼び求めあい、結合することによって第三の赤という高度なものを生み出すという。赤はただ黄と青が混ざったというわけではなく、黄が橙を、青が紫を経て高みで合一したものである。黄色と青の絵の具はそのまま混ぜれば緑色になる。ここにゲーテが分極性とならんで自然の中に見いだした力、高昇の働きがある。高昇とは自らを高め、発展させようとする上昇意欲である。赤は高昇の働きを経て合一したぶん、エネルギーに充ちた力強い色になっている。 Purpurには皇帝や国王が着用する緋の衣という意味があり、高貴な色とされる。ゲーテは人間に体験される色彩を探求し、色彩が人間の精神に与える影響のことも扱っている。その影響も色彩環から説明されるところがある。赤は色彩環の頂点をなす最も力強い色であったが、その対極である色彩環の一番下に位置する緑は、地に根を下ろした安定した色だという。 光に近い色である黄色、そしてそれに近い橙などはプラスの作用、すなわち快活で、生気ある、何かを希求するような気分をもたらす。闇に近い色である青、そしてそれに近い紫などはマイナスの作用、すなわち不安で弱々しい、何かを憧憬するような気分をもたらすとゲーテは言っている。人間の精神は不思議と色彩環が示す秩序の影響を受けているように見えるとゲーテは述べた。 ゲーテは、色彩のアレゴリー的、象徴的、神秘的作用についても考察している。 参考文献[編集] ゲーテ

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