ブロンコ・ビリー – Wikipedia

ブロンコ・ビリー』(Bronco Billy)は、1980年のアメリカ映画。監督・主演はクリント・イーストウッド。脚本はデニス・ハッキン。

あらすじ[編集]

ブロンコ・ビリーは西部男たちの荒くれさを活劇ショーに見立て披露する旅回りの一座「ワイルド・ウェスト・ショー」のリーダーだ。彼らはアメリカ中南部を巡業し、時には慈善興業も買ってでるが経済的には困窮していた。

裕福な家に生まれた勝気な女性アントワネット・リリーは30歳までに結婚しなければ父の遺産を継げないため、愛してもいない男アーリントンと名目上の結婚をしようとしていた。しかし、アントワネットの高慢な言動にウンザリしたアーリントンは宿泊したホテルから逃げ出してしまう。アーリントンに財布を盗まれて一文無しになったアントワネットは、ニューヨークの自宅に電話をかけるため、居合わせたビリーに小銭を借りる。しかし、その代償として「ワイルド・ウエスト・ショー」のアシスタントとして旅に同行することになる。一方、アントワネットの母アイリーンは弁護士エドガーの入れ知恵で、行方不明になった彼女をアーリントンに殺害されたことにして夫の遺産を相続しようと考える。エドガーは逮捕されたアーリントンに取引を持ちかけ、減刑と50万ドルの報酬と引き換えに彼に殺害を認めさせる。

アントワネットを引き入れた「ワイルド・ウエスト・ショー」だったが、彼女が手順を無視して勝手なことばかりすることにビリーは不満を募らせ、彼女を解雇しようとする。アントワネットもビリーの指示に従うことを嫌ったため一座を抜けようとするが、新聞に自分の死亡記事が載っているのを見かけ、渋々一座に戻ることになる。次の興行を控えた中、一座のメンバーであるビッグ・イーグルの妻ランニング・ウォーターが妊娠したことを知った一座は近くのバーで祝杯を挙げるが、アントワネットに乱暴を働いた酔客にビリーが殴りかかったことで乱闘騒ぎが起きる。アントワネットはバーの外に逃げ出すが、そこで二人組の男に乱暴されそうになるが、駆け付けたビリーに助け出される。アントワネットの身を気遣うビリーに、彼女は次第に心惹かれていく。

翌日、昨夜の乱闘騒ぎでメンバーのレオナードが逮捕されたことを知ったビリーは釈放を求めるが、保安官から彼がベトナム戦争の兵役を拒否した脱走兵だったことを知らされる。ビリーは保安官と取引してレオナードを釈放させるが、その引き換えに全財産を保安官に引き渡してしまう。さらに、その日の興行で観客が持ち込んだ爆竹で火事が起きてテントが燃えてしまう。一座のメンバーはアントワネットを疫病神扱いして一座から追い出すように求めるが、ビリーはそれを拒否して、新しいテントを手に入れるため警察が管理する精神病院を訪れる。アントワネットはランニング・ウォーターから助言をもらい自分の気持ちと向き合い、ビリーに気持ちを打ち明け一夜を共にする。

アントワネットは距離を置いていた一座のメンバーと和解して興行に取り組むが、そこで減刑処分を受けて入院していたアーリントンと再会する。死んだはずのアントワネットが生きていたことを知ったマスコミは大騒ぎし、彼女は遺産相続人としてニューヨークに連れ戻される。ビリーはアントワネットを失ったことに意気消沈し、同じように彼を失った彼女は睡眠薬を大量摂取して自殺を図る、その直前にランニング・ウォーターから電話がかかってくる。ビリーはアントワネットがいない状態で興行を始めるが、そこにアントワネットが現れる。再会を喜んだ二人は興行を無事に終え、観客から喝采を浴びる。

キャスト[編集]

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クリント・イーストウッドはデニス・ハッキンとニール・ドブロフスキーから脚本を受け取り、交際関係にあったソンドラ・ロックをヒロインとして出演させた[3]。撮影は1979年にアイダホ州南西部のボイシで6週間程行われた[4]。ボイシでの撮影が終了した後、さらにオレゴン州オンタリオとニューヨーク州で追加の撮影が行われた[3]。低予算で撮影された本作は、予定より2週間から4週間程早く撮影が終了した[5][6]

イーストウッドは本作を「自分のキャリアの中で最も魅力的な作品の一つ」として挙げており、伝記作者のリチャード・シーケルは「ビリーのキャラクターはイーストウッド自身の性格を反映している」と指摘している[7][8]

本作は商業的に失敗した[9]が、批評家からは高い評価を受けている。ニューヨーク・タイムズのジャネット・マスリン英語版は西部劇と現代劇を融合させた演出を称賛し、「イーストウッド映画の中で最高に面白い作品」と述べている[10]

興行収入は制作費の4倍近い2,400万ドルを記録したが、イーストウッドはこの結果に不満を感じており[11]、インタビューに「この映画は古いテーマを扱っている。何故古いかと言えば、それは映画が取り扱われることを望んでいなかったからだ。しかし、映画監督として私が何を言おうとしていたかを知りたいと感じたならば、それは『ブロンコ・ビリー』の中で見付けることでしょう」と答えている[11]

ノミネート[編集]

  1. ^ Gentry, p.63
  2. ^ http://www.boxoffice.com/statistics/movies/bronco-billy-1980[リンク切れ]
  3. ^ a b Hughes, p.122
  4. ^ “Eastwood and crew begin “Bronco Billy””. Spokane Daily Chronicle. Associated Press (Washington): p. 3. (1979年10月3日). https://news.google.com/newspapers?id=FKQSAAAAIBAJ&sjid=LvkDAAAAIBAJ&pg=1783%2C1095239 
  5. ^ Schickel, Richard (1996). Clint Eastwood: A Biography. New York: Knopf. p. 361. ISBN 978-0-679-42974-6 
  6. ^ McGilligan, Patrick (1999). Clint: The Life and Legend. London: Harper Collins. p. 318. ISBN 0-00-638354-8 
  7. ^ Schickel, Richard (1996). Clint Eastwood: A Biography. New York: Knopf. p. 362. ISBN 978-0-679-42974-6 
  8. ^ Schickel, Richard (1996). Clint Eastwood: A Biography. New York: Knopf. p. 365. ISBN 978-0-679-42974-6 
  9. ^ Maslin, Janet (December 17, 1980). “Any Which Way You Can (1980): Screen: Clint and Clyde”. The New York Times.
  10. ^ Maslin, Janet (1980年6月11日). “Bronco Billy (1980):Eastwood Stars and Directs ‘Bronco Billy’”. The New York Times 
  11. ^ a b Hughes, p.124

参考文献[編集]

  • Hughes, Howard (2009). Aim for the Heart. London: I.B. Tauris. ISBN 978-1-84511-902-7 
  • Gentry, Ric (1999). “Director Clint Eastwood: Attention to Detail and Involvement for the Audience”. In Robert E., Kapsis; Coblentz, Kathie. Clint Eastwood: Interviews. University Press of Mississippi. pp. 62–75. ISBN 1-57806-070-2 

外部リンク[編集]