神田より子 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “神田より子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) 神田 より子(かんだ よりこ、1947年 – )は、日本の民俗学者、文化人類学者。敬和学園大学教授。日本山岳修験学会、民俗芸能学会理事。日本宗教学会評議員。 目次 1 経歴・人物 2 受賞 3

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梶賀のあぶり – Wikipedia

梶賀のあぶり(かじかのあぶり)は、三重県尾鷲市梶賀町で生産される、小形の魚類を燻製にした保存食、およびこれを販売する際の商品名[1]。毎年4月から6月にかけて生産する[2]。元来は地域住民が消費するために生産してきたが、2010年(平成22年)以降本格的に特産品として商品化を進め、地域おこし協力隊の力を借りながら過疎化の進む梶賀町を活性化するための起爆剤として利用されている[1]。 起源と製法[編集] 地元で水揚げされたばかりの小さな魚(サバなど)[注 2]から内臓と頭を取り去り[1][2][5]、真水で洗った後に塩をふりかけ[2][5]、20分ほどおいてから[2]、もう一度洗ってから竹串を打つ[5]。竹串の長さは30[5] – 40cmで、1本当たり12匹の魚を串打ちし、1日に40 – 70本分作る[6]。梶賀のあぶりに使う魚はサバが中心であるが、サバの水揚げがなくなるとアジ、イサキ、カツオと変わっていく[6][5]。串打ちした魚をコンロの上に乗せ、サクラやカシを燃やして発生させた煙で長時間いぶすことで完成する[1]。いぶす時間は1時間ほどで[6][5]、半ば外のような作業場で加工される[5]。大きな魚を使うといぶすのに2時間を要する[7]。いぶすときに小さな魚が焦げないように火加減を見ながら調理する[2]。 元は市場に流通させることのできない小さな魚を冷蔵庫がない時代に自給用に保存するために作り始めたものであり、少なくとも大正時代には存在した[注 1]とされる[1][5]。梶賀町ではどの漁師の家庭でも作られていたが[6]、周辺地域も漁村でありながら、魚の燻製を生産していたのは梶賀町だけであった[8]。 商品展開と地域活性化[編集] 2006年(平成18年)時点では、すでに3軒の漁家が日本全国からの注文を受けて梶賀のあぶりを生産していた[6]。しかし販売を行う漁家は減少していき、2010年(平成22年)には1軒のみとなった[9]。 梶賀町を訪れた町外の人から梶賀のあぶりを商品化してみてはどうかという提案を受けて[10]、2009年(平成21年)1月に梶賀婦人会が町外の人にも梶賀のあぶりを食べてもらおうと、ハラソ祭りの会場で販売したのが商品化の契機となった[1]。販売前には「こんな小魚が売れるか」と否定的な見方の住民もいたが、それとは裏腹に用意した分(100食[10])はすぐに完売した[1]。この成功を機に、梶賀のあぶりの商品展開を加速させた[1]。まず日本国の助成金を獲得し、真空パック加工ができる機械を購入、地元住民が生産した梶賀のあぶりをパック詰めして[1]、夢古道おわせで試験販売を開始した[11]。試験販売初年度である2010年(平成22年)度の梶賀のあぶりの売り上げは約274万円であった[1]。梶賀のあぶり作りが事業化するにつれて、それまで無料で入手できた原料の小さな魚に市場で値が付くようになり、魚価の低迷にあえぐ地域にとって希望を与えることになった[10]。また梶賀町の女性にとっては、出荷作業などで収入が得られるようになり、雇用創出効果も生まれた[10]。2012年(平成24年)4月27日にはFM三重で紹介され、夢輝のあが梶賀町を訪れてインタビューを行った[3]。同年から真空パックのラベルが変更され、サクラでいぶしたものは赤色、カシでいぶしたものは茶色のラベルが貼られるようになり、区別できるようになった[3]。また梶賀婦人会長が中心となって[1]「梶賀町おこしの会」が同年に結成された[12]。賞味期限は、真空パック詰めされたもので、冷蔵保存なら1か月、冷凍保存なら1年となった[3][注 3]。 新商品の「鰤のあぶり」 こうした住民の取り組みに対し、尾鷲市では市の特産品として梶賀のあぶりを紹介するようになり[1]、尾鷲市の特産品を年4回発送する「尾鷲まるごとヤーヤ便」に詰める商品の1つに梶賀のあぶりを加える[13]とともに、販路拡大に向けて2016年(平成28年)春に着任する地域おこし協力隊を募集した[1]。ここで協力隊員が男女1名ずつ採用され、女性協力隊員の尽力によって津市や伊勢市の土産物店、東京の築地(築地場外市場[14])や日本橋(三重テラス[14])でも新規取引が実現し、男性協力隊員によって梶賀のあぶりの商品パッケージのデザインが一新された[1]。特に女性協力隊員は、これまで原価計算があいまいで仕入れ・生産量が不安定であることを問題視し、生産安定のために養殖ブリを使った商品を主軸とし[注 4]、コンロを増設する[注 5]ことで通年生産を可能とした[14]。さらに真空パックを改良し冷蔵する必要のない常温保存可能商品や、1人で消費できるように少量の商品も開発した[1]。 2016年(平成28年)秋に、男性協力隊員が築80年の空き家を発見し、これを改装して「網元ノ家」を開業した[14]。同店は梶賀のあぶりを販売するだけでなく、定食も出すとともに、地域の交流拠点としても機能するようになった[14]。毎週金曜日と土曜日に開店し、開店の際には網元ノ家に利用している古民家の家主が保管していた大漁旗を男性協力隊員が仕立てた「ブリのぼり」にして店頭に掲げる[16]。特に男性協力隊員が考案した「あぶり釜飯」は客からの評価が高く、津市や名古屋市といった遠方からも人が訪れるようになった[1]。こうした協力隊員の活動により、2016年(平成28年)度の売上高は681万円[注 6]まで伸長した[1]。なおこれらの一連の活動は、中小企業基盤整備機構・三重県・三重県内の金融機関の3者による基金の運用益を元手とする「みえ地域コミュニティ応援ファンド助成金」から補助を得ている[1]。

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オリゴペプチド – Wikipedia

トリペプチドの例(Val-Gly-Ala)、アミノ末端が緑色、カルボニル末端が青色に塗られている。 テトラペプチドの例(Val-Gly-Ser-Ala)、アミノ末端が緑色、カルボニル末端が青色に塗られている。 オリゴペプチド (Oligopeptide) は、2から20個のアミノ酸からなるペプチド鎖で、ジペプチド、トリペプチド、テトラペプチド、ペンタペプチド等を含む。600以上のオリゴペプチドが存在することが知られており、それらの約半分が分子構造に基づき、アエルギノシン、シアノペプトリン、ミクロシスチン、ミクロビリジン、ミクロギニン、アナベノペプチンおよびシクラミドの7つに分離される。ミクロシスチンは、潜在的な飲料水への毒性の影響があるため、最もよく研究されている[1]。最も大きな分類がシアノペプトリン(40.1%)、続いてミクロシスチン(13.4%)とされている[2]。 シクラミドとミクロビリジン以外のオリゴペプチドは、非リボソームペプチド合成酵素により生成する。シクラミドとミクロビリジンは、リボソーム経路により生成する[3]。 オリゴペプチドの例には、以下のようなものがある[4]。 アマニチン 数種のキノコの子実体から採取された環状ペプチド。ほとんどの真核生物においてRNAポリメラーゼの強力な阻害剤であり、mRNAおよびタンパク質合成を妨げる。α-アマニチンはタマゴテングタケの主な毒素であり、人や動物が摂取すると有毒である。 アンチパイン 数種の細菌が産生し、プロテアーゼ阻害剤として作用する。 セルレチド(英語版) イエアメガエルの皮膚で見られる特殊なデカペプチド。活性及び組成の面で、コレシストキニンと非常に類似性があり、胃、胆道、膵臓の分泌、特定の平滑筋を刺激する。実験動物モデルにおいて膵炎を誘発するために使用される。 グルタチオン 細胞内で多くの役割を持つトリペプチド。排泄のために薬物を可溶性したり、酵素の補因子となったり、タンパク質のジスルフィド結合の再構成に関与したり、過酸化物を減少させたりする。 ロイペプチン プロテアーゼ阻害剤として機能する、放線菌によって産生されるアシル化オリゴペプチド。トリプシン、プラスミン、カリクレイン、パパインおよびカテプシンを様々な程度まで阻害することが知られている。 ネトロプシン(英語版) Streptomyces netropsisから単離された塩基性ポリペプチド。それは細胞毒性があり、DNAのA-T領域への強力で特異的な結合は、遺伝学研究に有用である。

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小川直也 – Wikipedia

この項目では、格闘家について説明しています。本名が同じである映像作家については「直 (映像作家)」をご覧ください。 小川 直也(おがわ なおや、1968年3月31日 – )は、日本の柔道家、総合格闘家、プロレスラー、体育学者。学位は体育学修士(筑波大学大学院・2013年)。 全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。実業団柔道ではJRA職員として活躍。長男は柔道家の小川雄勢。 高校時代[編集] 私立八王子高等学校の面接試験の際には、体格のよさを後に恩師となる面接官の小野実に見込まれて、入学したら柔道をやってみないかと問われた際に、本当はラグビーに興味を持っていたが、印象を良くするために柔道をやってみたいと答え、無事合格を果たした[1][2]。 八王子高校に入学後、柔道部部長である小野と監督である川野昭吾の指導によって力を付け始め、高校3年の時に金鷲旗ではベスト16、インターハイ重量級では優勝した天理高校の中谷弘に敗れて入賞はならなかったが、国体では世田谷学園高校の古賀稔彦とともに活躍して東京都の優勝に貢献した。 後の述懐では、高校3年の金鷲旗で何とか競り勝ってベスト16まで到着した時から、柔道に対する自信が付きはじめ、それまでとは何かが変わったと感じるようになったと回想していた[3]。 大学時代[編集] 1986年4月には明治大学経営学部経営学科に進学した。柔道部監督の上村春樹と助監督である原吉実(当時の上村は全日本の監督も引き受けていたために忙しく、助監督である原が道場で小川に直接指導することが多かった)の指導の下で力を付けて、11月には全日本学生(無差別)において順調に勝ち上がり、決勝では東海大学の関根英之との1年生対決を判定2-1の微妙な内容ながら制して、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝いた(後の引退会見の時に、この試合での優勝が一番印象に残っていると述懐した)[2][4]。 続く全日本新人体重別選手権大会では準決勝で日本大学の金野潤に判定負けして3位に終わった。 12月にはブラジルのサンパウロで開催された世界学生に出場して、初戦で韓国の金建秀に合技で敗れるも、その後の3位決定戦でポーランドのイェルジィ・コラノフスキを出足払で破り3位となった。また、団体戦では優勝を果たした[5]。 1987年1月には正力国際の無差別に出場して、準決勝で当時の外国勢最強の選手と見なされていたソ連のグリゴリー・ベリチェフを払腰で破るものの、決勝では東ドイツのヘンリー・ストールに払腰で技ありを取られて2位に終わった。しかしながら、ベリチェフを豪快な一本で破ったことで、一躍マスコミから斉藤仁、正木嘉美に次ぐ重量級第三の男として注目された[6]。 6月にはこの当時、全日本学生柔道連盟と対立関係にあった全日本大学柔道連盟が主催する全日本大学柔道体重別選手権大会で優勝したが、学生優勝大会ではベスト8で敗れた。 7月には体重別決勝で、新日本製鐵の滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた[3]。 10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定

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青春の光と影 – Wikipedia

「青春の光と影」(原題: Both Sides, Now)は、ジョニ・ミッチェルが作詞作曲した楽曲。ジュディ・コリンズによって最初にレコーディングされ、以後多くのミュージシャンにカバーされた。 ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(2010年版)では171位にランクされている[3]。 1967年3月、ミッチェルは飛行機の中で「青春の光と影」を書き上げた。「I’ve looked at clouds from both sides now」という歌詞はソール・ベローの小説『雨の王ヘンダソン(Henderson the Rain King)』から来ている。彼女は次のように述べている[4][5]。 私は飛行機でソール・ベローの『雨の王ヘンダソン』を読んでいた。本の初めで雨の王ヘンダソンもちょうど飛行機に乗っていた。彼はアフリカに向かう途中で、下に広がる雲を眺めていた。私は本を置き、同じように窓の外の雲を見た。それからすぐさま曲を書き始めたの。その時にはこの曲が有名になるなんて全く分からなかった。 1967年10月発売のジュディ・コリンズのアルバム『Wildflowers』に初めて収録された。その1年後の1968年10月にシングルカットされ、コリンズのバージョンは12月21日付のビルボード・Hot 100で8位を記録した[6]。ビルボードのイージーリスニング・チャートで3位、カナダRPMチャートで6位、イギリスで14位を記録した。B面はサンディ・デニーが書いた「時の流れを誰が知る」。 文化放送『ユア・ヒット・パレード』では1969年度の年間1位[7]を記録。

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王概 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “王概” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) 王 槩(おう がい、1645年-1710年以後)は、清の康煕年間に南京で活躍した文人、画家。詩文・画・篆刻にすぐれ、画は大幅の山水画を得意とし、人物・花鳥画も善くした。絵画教本『芥子園画伝』を弟二人とともに制作したことで最も知られる。初名は王匄。字は東郭、または安節。 父は王輔(1626年-?)。一般に王之輔と記される[1]。字は左車。浙江省嘉興府秀水県の人。一家で南京城外莫愁湖畔に住んだ。王槩はその長男。遺民詩人方文(字は爾止。1612年-1669年)のむすめを妻とした。弟に王蓍(字は宓艸。1649年-1737年)と王臬(字は司直)がいる[2]。兄弟3人はともに詩画に長けた。王蓍の岳父張惣(僧持。1619年-1695年)も遺民として生きた文人である。長命の王蓍は、雍正11年(1733年)に故郷の全椒から南京に移居してきた呉敬梓(『儒林外史』の作者)とも交遊があった。 王槩は若くして詩画の才をあらわし、多くの年長の文人たちに親しんだ。人物を見込んでこれを女婿とした方文の詩集など関連資料から往来のあった人びとの名前をあげれば、まずあげられるのは在野の人びとであって、程邃(穆倩)・張怡(瑶星)・杜濬(于皇)・劉然(藜先)・文士英(及先)・李漁(笠翁)・陳淏(扶揺)・湯燕生(巌夫)・潘江(蜀藻)・龔賢(半千)・王楫(汾仲)・鄭簠(谷口)・黄虞稷(兪邰)・方熊(望子)・呉晋(介茲)・汪沈琇(西京)・馬孝思(永公)・程澎(飛濤)・大健(蒲庵)・元祚(木文)らはみな遺民文人、布衣、あるいは僧などであった[3]。汪楫(舟次。のち琉球国王冊封使)・周在浚(雪客)とは彼らが官職につく前からの交際であり、交遊のあった銭陸燦(湘霊)は挙人身分を取り消された在野の学者であった。 王輔・王槩父子は杭州から南京に転居してきた李漁、陳淏と親しく、李漁らが杭州にもどったあとも、その関係はつづいた。『西湖佳話』(康煕12年序刊)巻頭の精巧な多色刷りの図版には陳淏とともに王槩兄弟が名をとどめ、『芥子園画伝』初集(康煕18年、李漁序)は李陳王三家の協同によって制作されたことが伺われる。『西湖佳話』を刊行した「金陵王衙」とは、王槩一家の経営する書肆である可能性が高い[4]。 一方で王槩は、周亮工(櫟園)・宋琬(茘裳)・施閏章(愚山)・曹溶(秋岳)・王又旦(幼華)・曹寅(楝亭)ら、清朝の現職高官や退職した高官の知遇をうけた[5]。江南士人のあいだに声望のあった周亮工は『印人伝』においてまだ若い王槩の人物と画・篆刻を推賞している。康煕6年(1667年)、南京にきた宋琬が諸士と秦淮に集った際、王槩は扇頭画を描いて贈り(『写心集』巻3、宋琬「答王安節」)、康煕8年(1669年)にも宋琬から姜廷幹(綺季)・周金然(広居)らとともに招かれて秦淮河に遊んだ(周金然『娯暉草』巻1)。康煕11年(1672年)冬、四川按察司使として赴任する宋琬が南京を通過した際、龔賢らとともに送別、王槩は「蜀道易」と題した画と詩を贈った(『清画家詩史』乙上)。康煕22年(1683)秋、曹溶が南京の懶園に諸名士を招いて宴集した際、これに参加(『天淵閣後集』巻8)。康煕28年(1689年)秋、孔尚任(東塘)が南京冶城道院でひらいた宴には王蓍・王臬とともに参加している(『湖海集』巻7)。康煕36年(1697年)、曹寅(『紅楼夢』の作者曹雪芹の祖父にあたる)にもとめられて王蓍とともに「楝亭夜話図」に題し(『紅豆樹館書画記』巻4)、曹寅にも「戯題王安節画」2首(『楝亭詩鈔』巻4)がある。 王槩は兄弟で『芥子園画伝』を制作したことによって最も知られるが、南京在住の文人や南京に遊ぶ文人らと広く交際し、応酬の詩や画をのこした。伝世の作品や著録されている作品は少なくない。康煕11年「対花訓子図」(『江蘇文人年表』)。特に康煕20年代にはいって以後旺盛な作画活動をおこなった。康煕21年冬「玉山観画図」(『伝世作品年表』)、康煕22年「山水図」(同)、康煕23年「端午景図」、康煕24年2月「松閣聴泉図」、康煕25年「早春書屋図」、康煕26年「山斎把巻図」(『江蘇文人年表』)、康煕27年「白描人物故事図冊」、康煕28年「聴雨図巻」補作(『江蘇文人年表』)、康煕29年「江山臥遊図巻」「江山清照図」、康煕31年「泰岱喬松図」「山水図」、康煕32年「万残草堂図」、康煕33年「杞城別業図」、康煕35年「仙巌楼閣図」、康煕36年「仮鶴図巻」、康煕37年「三秋果卉図鑑」、康煕38年「東園万竹図」扇、康煕40年「山捲晴雲図」、康煕44年「採芝図」扇など。 『芥子園画伝』の図版[編集] 王槩は周亮工の詩文集『頼古堂集』24巻(康煕14年序)を呉晋とともに編集し、また岳父方文の詩集『嵞山集』12巻、続集4巻、又続集5巻、全21巻(康煕28年跋)を編集した。南京で進められた『江南通志』76巻(康煕23年序)の編纂に協力し、その手になる「山川形勝」図50幅が同書に載る。文集に『山飛泉立堂文稿』不分巻がある。 ^

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梶賀町 – Wikipedia

梶賀町(かじかちょう)は、三重県尾鷲市の町名。 尾鷲市の南端に位置する漁村であり、養殖業や沿岸漁業が盛んな地域である。過疎化が進行している地域でもあり、郷土料理である「梶賀のあぶり」を活用した地域おこしが展開されている[8]。 尾鷲市の最南端に位置し[8][9]、尾鷲市街からは自動車で25分ほどかかる[10]。北は賀田湾に、東は熊野灘に面し、南は山地を挟んで熊野市と接する。集落は入り江の奥部に位置し、梶賀漁港を取り囲むような形で急斜面に段状に展開し、漁港背後の山が海のすぐそばまで迫った地形をしている。町内は高齢化が進み、空き家が目立っている[10]。 平地は皆無であり、水田も存在しない。自給用に野菜を栽培する畑が少しあり、住民は畑を大事にしている。梶賀町で研究を行った社会学者の泉琉二は梶賀町を「典型的な漁村」・「純漁村」と呼んだ。 岬 – 神須ノ鼻 湾 – 賀田湾 山 – 地切山(じぎりやま、336.5m) 南は熊野市須野町・甫母町、西は尾鷲市曽根町と接する。 学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。かつては梶賀町内の賀田湾を見下ろす高台に梶賀小学校(梶賀町333番地)があったが、1998年(平成10年)3月をもって休校となった[15][注 1]。 梶賀小学校跡(右 講堂  左奥 教室) 近世には紀伊国牟婁郡木本組曽根荘に属し、紀州藩の配下にあった。江戸時代初頭には梶賀村を名乗っていたが、寛文年間(1662年 –

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上坂酉蔵 – Wikipedia

上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年)12月15日 – 1976年(昭和51年)4月4日)は、日本の商学者。早稲田大学名誉教授。商学博士。宮城県生まれ。 宮城県気仙沼市魚町出身。1914年(大正3年)に早稲田大学高等予科に入学し、翌年 大学部商科に進学。1918年(大正7年)早稲田大学商科卒業。 水産加工の実務に従事しながら苦学し、29歳で大学卒業。1918年4月増田貿易株式会社に入った後、1925年(大正14年)早稲田大学講師となり、翌年 早大留学生としてイギリス、ドイツに各1年滞在。ヨーロッパ留学後、1928年4月帰国し助教授に就任。翌1929年(昭和4年)教授となり日本の貿易と商学についての研究を重ねる。1935年 商学博士の学位を取得。のち早大専門部商科長、商学部長、理事を歴任、1959年(昭和34年)定年制により早大教授を退職、名誉教授[1]。日本大学、立教大学、中央大学、明治大学、東京大学、上智大学の講師を務めた[2]。 1966年(昭和41年)から駒澤大学経済学部長(~1969)[3]。貿易、商業学、商品学など日本の第一人者として活躍、日本商品学会、日本貿易学会各会長、国際経済学会、日本商業学会、日本仲裁学会の各常任理事、日本マーケティング協会顧問(1957年設立時より)[4]などを歴任。著書に「貿易慣習」「貿易契約」「新訂貿易実務」の3部作のほか「貿易経営論」「貿易概論」「商品学概論」「商業概論」「貿易用語辞典」など多数。 1976年(昭和51年)4月4日逝去、享年87歳[5]。 応用自然科としての商品鑑定学を樹立し学界に多大の影響を与えた小原亀太郎(1886‐1945)の没後(戦後)に,商品のアメリカ的研究であるマーチャンダイジングとドイツ的研究であるバーレンクンデとの融合を考えた「第三商品学」の構想を提示した[6]。 郷里 宮城県気仙沼市立気仙沼中学校(1947年4月開校)の校歌を作詞(作曲:山田耕作)[7]。 郷土を愛し、その発展にも寄与した功績により、1972年、旧 気仙沼市名誉市民の第1号に選ばれた。 『貿易經營論』巌松堂書店(1930)[8] 『商學概論』東京泰文社(1931) 『商業概論』東京泰文社(1931)

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長岡建蔵 – Wikipedia

長岡 建蔵(ながおか けんぞう、1972年2月13日 – )は、日本のゲームクリエイター、原画家、グラフィッカー、シナリオライター。 千葉県松戸市出身。愛称はチョーケン。HARD時代は、はらほれひろはら名義も用いた[1]。 『はっちゃけあやよさん』『おまえのなつやすみ』に代表される不条理かつ切れの良いギャグ、『地獄SEEK』『十牝図』に代表される猟奇的な作風を得意とする[2][3]。 好きなものは「しなやかな女体」[4]。 中学時代は焚き火が趣味で、神社で炎を眺めてはうっとりとしていた。その頃出会った一冊のSM雑誌に魅了され、高校生の時には女体を描くことに熱中するようになる[4]。高校卒業後に有限会社HARDにアルバイトとして入り、昼は原画家・シナリオライター、夜はデザイン学校という生活を始めるも二週間で破綻。以後はアダルトゲーム製作の仕事に専念する。ハードでの初仕事は『はっちゃけあやよさん 2』移植版の原画とCGで、以後のHARD作品は長岡の人物造形と彩色が特徴となる。長岡は美術志望であったこともあり、当時正規の訓練を受けない者による原画・彩色が一般的であった美少女ゲームにおいて、先駆的に質の高い造形表現を行った[注 1]。 また、そうこうする内に21歳にしてHARD社長の座を任され、ゲームづくり全体を指揮していくことになる。PILの田所広成とはこの頃からの付き合いで、当時アイデスのプロデューサーとして働いていた田所に水羊羹で籠絡されて、あやよさんシリーズの登場人物を貸し出している[4]。 HARD解散後にPCゲームブランドCRAFTWORKを設立。CRAFTWORDKでは、『for elise』『flowers』『さよならを教えて comment te dire adieu』の三作を発表し、『さよならを教えて ~comment te

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