亀山一二 – Wikipedia

亀山 一二(かめやま かずじ、1895年(明治28年)12月9日[1] – 1980年(昭和55年)3月30日[2])は、岐阜県初代関市長。元外務省電信課長、駐ソビエト連邦日本大使館参事官。後に関市名誉市民となる。

概要・人物[編集]

旧制順天中学を経て中央大学経済学部卒業。1921年(大正10年)高等文官試験(行政科)に合格した[3]

外務省電信課長などを務めた後、在ソ連日本大使館に参事官として勤務。日ソ中立条約を破り赤軍が満州や朝鮮半島に伸長侵略していた終戦(敗戦)後の1945年(昭和20年)12月、秘密指定文書[何の?]をまとめた[注 1]。また、満州や朝鮮半島地域で過酷な状況にあった邦人保護を目的に、現地駐在ソ連官憲との折衝の為、外務省が亀山参事官の平壌派遣をGHQを通じてソ連側へ要請したが,ソ連側は応じなかった[4]。 

終戦後も各国の暗号技術と理論は「日進月歩」と予測。日本がさらに後れを取れば、国際舞台で「絶大な不利」を招くと警鐘を鳴らし「過去における辛き失敗の経験を将来に活かす」方策を緊急に確立すべきだとした。

後に岐阜県関市の初代市長を務めた。

  • 今後の方策として亀山は暗号の研究機関強化と研究員養成が必要だとし、具体的には(イ)暗号研究所・機械試作工場再建、暗号格納用金庫試作(ロ)暗号技術員養成所を設置し、数学科などの大学生を外務省委託生とする(ハ)暗号研究員の増員とその優遇-を求めた。
  • 正眼寺におかしな坊主がおって一二は会いに行って、「一律(県立)高校に野球部があるから、お前野球をやっていたんだから、若い高校生を相手に心機一転、悲しい気持ちはわかるけども、どうだ、先生にならんか。君はドイツ研修を命ぜられて途中で帰って来たんだけども、復命をすましたか?」問い、復命を書き上げさせ、坊主頭のまま上京し、先生になり、岐阜県教師を満期勤めたのが若狭和朋である。
  • 関市市長時代においても、合併問題、上下水道、道路拡張、南部開発などの事業を手がけた。
  • 「正と履んで恐れず。」を生活信条とし、清潔潔白、豪般果断、まれにみる人材であったと記されている。
  • 1981年(昭和56年)に胸像が建立された。

注釈[編集]

  1. ^ 文書は1945年(昭和20年)12月、当時在ソ連大使館参事官だった亀山一二が作成し、「日米交渉開始前後1カ年くらいの間に(中略)暗号の解読せられ居る疑ある旨の情報あり」と回想している。
    日本の暗号が他国から解読された原因として、亀山は当時の暗号理論と技術が「頗(すこぶ)る幼稚なるものにして国際水準より遙(はる)かに遅れたる」ことであると指摘、敵国が解読している事実の把握や新しい暗号の普及も遅れ、劣勢を挽回できなかった。「世界各国に於ける技術と理論は日進月歩」とした上で、暗号技術で各国の後れを取れば「国際場裡に於ける活動へ絶大なる不利を招くこと必然なり」と警鐘を鳴らした。
    [要出典]

出典[編集]

  1. ^ a b c 『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、579頁。
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、370頁。
  3. ^ 秦郁彦編著『日本官僚制総合事典:1868 – 2000』 東京大学出版会、230頁
  4. ^ 2.ソ連軍占領地域 「占領期」全3巻の概要 七.邦人の引揚げ問題(『日本外交文書 占領期』2巻)」 外交史料館
  5. ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。

参考文献[編集]

  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1983年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。
  • 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]