松井貞宗 – Wikipedia

松井 貞宗(まつい さだむね、生没年不詳)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。松井宗能の子。遠江国堤城主。通称は八郎、山城守、兵庫助とも。

貞宗は、大永8年(1528年)3月28日(旧暦、以下特に指定ない月日は全て旧暦)に父・宗能の所領である遠江国城東郡平川郷(現・菊川市下平川字堤)などの相続を今川氏輝に判物にて了承された[1][2]

永正11年(1514年)には長男とされる信薫が松井氏として最初の遠江二俣城主になったと伝え[3]、享禄元年(1528年)2月3日に信薫は病死したとされるが、次男・宗信に対する遠江国知行分・同国内の代官職等の譲渡は永禄2年(1559年)2月のことであった[4]。しかし、その宗信も永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの戦死で失い、直後に今川氏真側近の三浦正俊から三河国内の人質については秘密にしておくようにと書状にて指示を受けた。

その後、永禄6年(1563年)10月に今川氏真より遠州堀越郷内に隠居料としての知行替地を判物にて受けたが、これが古文書資料で確認できる貞宗の終見とされる。また同判物にて、この隠居料はもう一人の実子の松井因幡守某への知行替地の内分とされ、貞宗の後は因幡守に譲渡すべきとされ、同族の松井相模守某の綺(いろい=争論)を防ぎ格別の奉公を遂げる事を定められた[5][6]

  1. ^ 大永8年3月28日付・松井八郎宛今川修理大夫判物写による(『静岡市史資料』「土佐國蠧簡集残篇」所載、以下「蠧簡集残篇」と略記)。
  2. ^ この時の古文書(判物写し)が資料上の初見とされる。同年月日で別に宗能が永正10年(1513年)に受けた新知・鎌田御厨領家分の貞宗への譲渡を了承する氏輝判物も存在する。またこの時の氏輝判物は女戦国大名とされる氏輝実母・寿桂尼に替わり、氏輝自身の出した判物の初見でもある。
  3. ^ 父・貞宗の家督相続が大永8年(1528年)であることからも、永正11年(1514年)二俣城主になったのは松井山城守某(実名は義行とも)とする異説がある。
  4. ^ 永禄2年2月22日付松井宗信宛今川氏真判物(「蠧簡集残篇」)。
  5. ^ 永禄6年10月21日付松井貞宗入道宛今川氏真判物(「蠧簡集残篇」)。
  6. ^ 実子の因幡守と同族相模守についての詳細は不明だが、遠江松井氏惣領分は信薫の子とされる松井宗親が継いだとされ、宗親はこの頃には内乱を起こしていた遠州曳馬城主・飯尾連竜への連座を疑われており、貞宗の隠居料および、これとは別の遠州内3箇所の知行を因幡守分の替地として与え、松井氏の綺の停止(ちょうじ)を氏真が指摘した点は注目される。

参考文献[編集]

  • 『静岡市史・古代中世史料』(静岡市、1978年)
  • 小和田哲男『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)ISBN 4-404-02097-X C0021
  • 渡辺三義『静岡県の名字』(静岡新聞社、1989年)ISBN 4-7838-1032-X C0021

関連項目[編集]