積川神社 – Wikipedia
積川神社(つがわじんじゃ)は大阪府岸和田市にある神社。和泉国和泉郡の式内社で、和泉国四宮。旧社格は郷社。勅願社である。
崇神天皇の御代に創立されたと言われる。
『大阪府史蹟名勝天然記念物』の岸和田市積川神社の項には、「白河上皇、熊野御幸のとき、八木郷額原に於て、本社を遑(遙カ)拝あらせられ、芝草を積みて、舞台となし、舞楽を奏せしめ給ひし時、上皇傍の鳥居に掲げたる扁額の筆蹟の拙きをみそなはせられ、親ら筆を執りて『正一位 積川大明神』の八字を大書して之に代へさせ給ひしといふ」という社伝が紹介されている。
永暦元年(1160年)10月の後白河院による熊野御躰を勧請に際して、養和元年(1181年)に積川社は今熊野社領諸国荘園28箇所の一つとして寄進された。
永万元年(1165年)の神祇官諸社年貢注文には、和泉五社の他の四社とともに都の神祇官に直属して、その御年貢進社とされ、和泉国近木荘特産の櫛(和泉櫛・近木櫛)を納めていたことが記されている。
建保5年(1217年)の後鳥羽・女院両院の御幸記には、泉州路で種(積)川使を勤めた者についての記述があり、
熊野御幸の路次の各名社に院の奉幣使が立てられたことが示されている。
現在の本殿は、慶長年間に豊臣秀頼が片桐且元に命じて大修理が行われ現在に至る。
寛永17年(1640年) 岡部宣勝が高槻藩より岸和田藩へ入封した際、南郡岸和田浜町にあった一の鳥居を同郡額原村に移動される。
明治39年(1906年)8月14日の内務省神社・宗教両局長依命通牒によるいわゆる「神社合祀」で、泉南郡山直上村の各神社を大字積川の積川神社に合祀せよとの方針が示されたが、大字稲葉の井坂楠太郎の反対運動によってこの合祀方針を断念させ、大字包近の楠本神社、山直中の中村神社、稲葉の菅原神社が現在に至るまで残ることとなった。
これとは別に、上述の「神社合祀」で、明治40年(1907年)11月9日、大字積川地内にあった八坂神社、菅原神社、白鬚社の各村社が積川神社に合祀された。
本殿は大正3年(1914年)に古社寺保存法に基づいて特別保護建造物に指定され、昭和4年(1929年)には国宝保存法成立によって国宝となった。現在は昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により、重要文化財に指定されている。
積川神社遥拝所は大阪府岸和田市小松里町字北額(額町)の府道30号線(熊野古道)沿いにある。積川神社の氏地は牛滝川に沿って磯上町付近までに及び、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう、中間地点付近に遥拝所が設けられた。
熊野古道沿いにあるため、熊野参詣をする皇族・公家が勅願社である積川神社を遥拝する場所にもなった。上述の白河上皇が扁額を書かれたのは寛治4年(1090年)のことで、現在掲げられているものはその模写である。
また、かつて岸和田浜に御旅所が設けられていたが、岸和田城下の建設に伴い、当地へ移されている。
重要文化財(国指定)[編集]
- 本殿 – 安土桃山時代(1603年)の建立。三間社流造、正面千鳥破風付、檜皮葺。大正3年(1914年)04月17日指定。
大阪府指定文化財[編集]
- 木造男女神像8体 – 鎌倉時代の作品。
- 扁額 – 寛治4年(1090年)。白河上皇の筆とされる。
その他[編集]
- 神輿 – 淀殿奉納といわれる。重要文化財申請中。
- 石灯籠 – 正平7年(1352年)、楠正義の寄進による。本殿の前にある1対の石灯籠がそれである。
- 古鏡
- 天神社(てんじんしゃ)
- 八坂社(やさかしゃ)
- 白髪社(しらがしゃ)
- 戎社(えびすしゃ)
ギャラリー[編集]
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積川神社の椋。一の鳥居を入ってすぐの石段の脇にある。天然記念物の巨木である。
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重要文化財である積川神社本殿保存修理事業が平成28年に行われた。写真は修理後の本殿の様子。
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大阪府岸和田市にある積川神社の本殿。平成28年に本殿保存修理事業が実施され,色鮮やかになった本殿の様子。
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大阪府岸和田市にある積川神社本殿正面にある石灯籠。楠正義寄進によると言われる。
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