奥原晴湖 – Wikipedia

奥原晴湖肖像

奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日) – 大正2年(1913年)7月28日)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した。

本名は池田せつ(節)、通称:せい子。はじめ石芳と号するが、のちに秋琴・珠琴・蘭瑛・雲錦・静古・星古などとした。堂号(居宅・画室)に墨吐煙雲楼・繍水草堂など。下総国古河宿(現在の茨城県古河市)出身。

古河藩大番頭の池田繁右衛門政明の四女に生まれる。母はきく。蘭学者の鷹見泉石は伯父にあたる。経学を茅根一鴎、書を小山霞外・小山悟岡に就いて修めた。画は嘉永6年(1853年)、16歳で谷文晁門の枚田水石に南北合体の画風を学ぶが、やがて渡辺崋山に私淑し南画に転向する。

慶応元年(1865年)、母方の親戚である奥原源左衛門の養女となり下江して上野摩利支天横丁に住んだ。明清の古画を研究して鄭板橋、来舶清人の費晴湖に私淑した。画号の晴湖は通称とこの費晴湖にちなんだ。また、画室を墨吐煙雲楼と称し、堂号とした。

木戸孝允や山内容堂の庇護を得て、多くの文人と交流した。画家を生業とするお披露目会に大沼枕山・鱸松塘・関雪江・福島柳圃・上村蘆洲・高斎單山・山内香溪・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など25名もの画家・書家を招いた。このとき「不忍池集」とした合筆を贈られている。

明治3年(1870年)に家塾を開くが、最盛期には門人は300人を超えたといわれる。翌年発令された「断髪脱刀令」に応じて断髪した。明治7年(1874年)に鷲津毅堂・小長井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成、文人画隆盛に尽力する。明治9年(1876年)に当時学生だった岡倉覚三(天心)が晴湖に入門している。

明治15年(1882年)のフェノロサの講演「美術真説」以降、文人画の人気は低迷する。明治24年(1891年)、55歳のときに東京を払って埼玉県北埼玉郡成田村(現在の熊谷市)上川上へ隠棲し、豪放磊落な画風から謹厳精緻な画風に変わった。この頃「繍仏草堂」・「繍水草堂」・「寸馬豆人楼」などの堂号を用いている。

大正2年(1913年)7月28日、77歳の生涯を閉じる。養女に奥原晴翠がいる。

参考文献[編集]

  • 成田山書道美術館監修 『近代文人のいとなみ』淡交社、平成18年(2006年) ISBN 978-4-473-03374-1

外部リンク[編集]

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