ユーロビジョン・ソング・コンテスト1980 – Wikipedia

第25回ユーロビジョン・ソング・コンテスト(蘭語表記:Eurovisiesongfestival 1980)は、1980年4月19日(土曜日)、オランダ・デン・ハーグのコンセルトヘボウ(現.ワールド・フォーラム・コンベンション・センター)にてに開催された。プレゼンターの女優マルロウズ・フルイトスマは、オランダ語しか使用しなかった。製作:NOSオランダ放送協会、放送時間:2時間18分。

オランダ代理開催[編集]

イスラエルは1979年の優勝国として、自国で開催する権利があったが、2年連続での開催は資金負担が大きく、イスラエル政府もiba イスラエル放送局の支援要求を退けたことから、断念することになった。
EBU欧州放送連合は、前年2位だったスペインや3位のイギリスと代理開催について交渉したが不調に終わった。最終的にはオランダが代理開催することで合意した。過去 オランダの優勝は4回(1957年,1959年,1969年,1975年)だが、開催は3回(1958年,1970年,1976年)。これは1960年をイギリスが代理開催したためで、今回はその穴埋めの形になっている。NOSは、短期間で経費も節減した内容で準備しなければならなかったため、会場も1976年と同じ場所を利用し、デザイナー等も再登用している。

2増2減で前年と同じ19ヶ国となった。

  • イスラエルは、開催日がヨム・ハジカロン(イスラエルの戦没将兵追悼記念日)と重なったことから、代表を選出していながら、参加を中止することになった。このため前年優勝国が、出席しない唯一の大会となった。
  • イスラエル不在となったため、トルコは近隣諸国に気兼ねする理由がなくなり、復帰できた。
  • また、同じアラブ世界である北アフリカのモロッコが初参戦。しかし、当大会で下位の評価を付けられ屈辱を味わったため、以降二度と参加することは無かった。
  • モナコは当大会から撤退。その後2004年までには参加しなかった。
  • 数年ぶりの大会復帰を目指していたユーゴスラビアは、チトー大統領の重病(5月4日没)のため、代表を選出していたが、直前にキャンセルとなった。

以下参加国の出場回数及び中継テレビ局一覧(ラジオは割愛)

ジョニー・ローガン

投票方法[編集]

変更なし。 各国の審査員が気に入った他国の10曲に投票。お気に入り順に12,10,8-1点として採点。
演目終了後、国際電話でつながれた各局のスポークスマンが出場順に口頭で発表。
プレゼンターが復唱確認し、スコアボードに加算された。(通常は英仏2か国語を使用するが、今大会はオランダ語のみとなった)。
この会では、発表をよりエキサイティングにするために、各国の審査員は下位から順に1点は…、2点は…、3点は…、と読み上げることが定められた。
得点発表の初期には、オランダが大きなリードを見せ、最初の4ヶ国が得点を発表した時点で、3ヶ国から最大得点の12点を得ていた。しかしその後はオランダの得点の伸びは続かず、ドイツ、次いでアイルランドが首位に立った。

言語 亜=アラビア語, 丁=デンマーク語, 芬=フィンランド語,
蘭=オランダ語, 諾=ノルウェー語, 典=スウェーデン語,
伊=イタリア語, 英=英語, 希=ギリシャ語, 西=スペイン語, 独=ドイツ語, 土=トルコ語,
仏=フランス語, 葡=ポルトガル語

得点表[編集]

12点[編集]

以下の表は、最高得点である12点がそれぞれどの国からどの国に与えられたかを示す:

12点を受けた国 12点を与えた国
7 アイルランド ベルギー, デンマーク, ドイツ, ギリシャ, ノルウェー, スイス, イギリス
4 オランダ オーストリア, フランス, ルクセンブルク, トルコ
3 ドイツ イタリア, オランダ, スペイン
2 スイス フィンランド, アイルランド島
1 イタリア ポルトガル
トルコ モロッコ
イギリス スウェーデン

各曲の歌詞については以下を参照のこと
Diggiloo Thrush

英語版・フランス語版