アンサ・イコネン – Wikipedia

アイリ・アンサ・インケリ・イコネン(フィンランド語: Aili Ansa Inkeri Ikonen、1913年12月19日 – 1989年5月23日)は、フィンランドの女優。フィンランド映画と戯曲の女優として多くの賞を受賞しており、気の利いた喜劇女優で熟練した性格女優として知られる。30年もの間の女優生涯の中、イコネンは数十本の映画に出演、当時最も有名な女優の1人となった。イコネンとタウノ・パロはフィンランド映画における名カップルとなった。 イコネンは1913年にロシア帝国のサンクトペテルブルクで生まれた。両親ともフィンランド人であり、一家はロシア革命の後フィンランドに移住した。イコネンは音楽教師となるための教育を受けたが、生涯その職につくことはなく、代わりに女優となる道を選んだ。数回脇役を演じた後、有名な映画監督ヴァレンティン・ヴァーラ(英語版)は彼女をKaikki rakastavat(「誰もが誰かを愛する」、1935年)という映画の主演女優に起用した。この映画の主演俳優はタウノ・パロだった。イコネンとパロは翌年にも揃って映画に出演した。これら2作はどちらも成功し、アンサ・イコネンは映画スターになった。彼女はその後長年にわたってフィンランドで最も有名な映画女優であり続けた[1]。 イコネンとパロが一緒に主演した映画は12作あり、その大半が喜劇である[1]。2人は実際には恋愛関係にはなかったが、観客にはフィンランド映画における最高のカップルとして想像された[2][3]。 イコネンは映画のほか、演劇もしており、彼女の演劇生涯は44年間と長きに渡った。彼女はフィンランド人作家の戯曲にも外国人作家の戯曲にも演出した。例えば、ウィリアム・シェイクスピアの作品には16作出演、モリエールの作品には6作出演、ヘンリック・イプセンの人形の家では主役のノラを演じた[1]。 イコネンは気の利いた喜劇女優で熟練した性格女優であり、脚本家たちが彼女に最適な役をデザインしたという。彼女は演劇女優となるための教育を受けなかったが、映画スターとしての経験もありすぐに上達した。1949年、イコネンは奨学金を得てロンドンのオールド・ヴィック演劇学校(Old Vics Theatre schoolに進学した[1]。1944年にはラブコメディのNainen on Valttia(「女はワイルドカード」)の監督を務めた[4]。 イコネンは20年年上の俳優ヤルマリ・リンネ(フィンランド語版)と結婚、娘のカトリーナ・リンネ(フィンランド語版)とマルヤッタ・リンネ(フィンランド語版)をもうけた。2人の年の差もあり、2人が一緒に演出するときにはイコネンがリンネの役の娘役を務めることが多い[5]。 出演した映画[編集] Minä

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ドリーミング・アップ! – Wikipedia

ドリーミング・アップ!(英語: Dreaming Up!)は東京ディズニーランド(TDL)で2018年4月15日より公演中の昼のパレードの名称である。 前の昼のパレード『ハピネス・イズ・ヒア』に引き続き、NTTドコモが提供する。 東京ディズニーリゾート (TDR)35周年のアニバーサリーイベント『東京ディズニーリゾート35周年“Happiest Celebration!”』を記念するパレードである。 事前の公報資料ではディズニー映画『ベイマックス』のベイマックスがフロートの一部として、ライブキャラクターとしてはヒロがTDL初登場すると発表されていた[1]。2020年にTDLの新アトラクションとして『ベイマックス』をモチーフとしたものが計画されており、ドリーミング・アップ!での登場は予告編と捉えられている[1]。 オリエンタルランドとウォルト・ディズニー・カンパニーの間でおよそ2年の話し合いの末に誕生した。主導権は日本側であり、プロデュースは日米共同、総合ディレクターは『ハピネス・イズ・ヒア』の総合ディレクターも務めたアメリカ側が行っている[2]。使用楽曲の決定も『ハピネス・イズ・ヒア』と同じチームで行われているが、『ハピネス・イズ・ヒア』と比べてより祝祭感があり、「アップ」の名にふさわしい躍動感を盛り込んである[2]。各フロートも「浮遊感」を意識してデザインされており、空中をキャラクターが飛ぶイメージとなるような動きを取り込んでいるものも多い[2]。 2019年1月11日から同年3月25日まで、TDR35周年のグランドフィナーレとしてスペシャルバージョンが開催される[3]。パレードは途中で1回停止し、35周年のテーマソングに合わせて、ダンサーたちによるダンスパフォーマンスが繰り広げられる[3]。その後、ダンサーたちの手本に合わせて、ゲストは手振りや手拍子の練習をする。ミッキーマウスの台詞を合図に、パレードの出演キャラクター、ダンサーとゲストは手振りや手拍子をして、35周年イベントのグランドフィナーレを一緒に盛り上げる[3]。なお、2019年1月10日にはメディア向けプレビューが開催された[3]。 2020年2月29日から2021年4月18日まで新型コロナウイルス感染症の影響で休演となり、2021年4月19日より再開されたが、出演者数の削減や配置の見直し、一部フロートのカットをなどの対策でゲストやキャストのソーシャルディスタンスを確保している[4]。 公演情報[5] 公演期間:2018年4月15日〜 公演場所:パレードルート 公演回数:1日1〜2回 公演時間:約45分(2021年4月19日からは約40分[4]) 出演者数:約140人(うち、出演キャラクター:約55人) 天候などの状況により、出演者数、出演キャラクターは減ることがある。 フロート:13台 フロート構成と登場キャラクター[編集]

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独立記念日 (フィンランド) – Wikipedia

フィンランドの独立記念日(フィンランドのどくりつきねんび、フィンランド語: itsenäisyyspäivä、スウェーデン語: självständighetsdagen)は、毎年12月6日に祝われるフィンランドの旗日(英語版)および祝日(英語版)であり、1917年にフィンランド独立宣言を発してロシア民主連邦共和国から独立したことを記念する。 フィンランドの独立運動は第一次世界大戦がもたらされた苦難によるロシア革命に始まる。革命によりフィンランドがロシア統治から脱する機会が到来、社会民主党と社会主義者以外の党派の間でフィンランドの権力を掌握する争いが起きた後、ペール・スヴィンフッヴド率いるフィンランド元老院(英語版)は1917年12月4日にフィンランド独立宣言を発し、2日後にフィンランド議会の承認を受けた。 独立記念日は1917年に初めて祝われたが、独立初期にはフィンランドの一部地域ではフィンランド内戦において白衛軍(英語版)が勝利した5月16日と比べてマイナーな祝日だった。一方で左派は議会が代表するフィンランド人民が権力を奪回したのが1917年11月15日であることから11月15日を祝った。独立宣言から1年後の1918年12月6日、知識層はその日を祝った[1]。 記念行事[編集] 2015年の記念パレード 独立から数十年間、独立記念日は厳粛な行事であり、政府は愛国的な演説を行い、教会は特別礼拝を行った。しかし、1970年代以降はより活力ある行事となり、お店が青と白のフィンランドの国旗で窓を飾り、パン屋は青と白のアイシングでケーキを作った[2]。現代ではロック音楽や芸人の演出も独立記念日に受け入れられるようになった。 伝統行事としては夜に家の窓それぞれに2本の蝋燭をつける、というものがあり、1920年代に始まった行事であった。しかし、それ以前でも詩人ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリの誕生日(2月5日)にロシアの強圧的な統治に対する抗議として同様の行事を行っていた。都市伝説の1つには、この2本のキャンドルはスウェーデンとドイツに向かって猟兵の訓練を受け(英語版)ようとしたフィンランドの若者に彼らをロシアから匿うというサインだった、というものがある[3]。 公的な行事[編集] 独立記念日の公的な記念行事は一般的にはヘルシンキのタハティトルニンマキ(Tähtitorninmäki)での国旗掲揚に始まる。ヘルシンキ大聖堂では礼拝が行われ、また第二次世界大戦の記念碑があるヒエタニエミ墓地(英語版)への公的訪問が行われる。 フィンランド国営放送はヴァイノ・リンナの『無名戦士(英語版)』を原作とする映画を放送する[2]。1955年版(英語版)が放送される場合がほとんどだったが、1997年に一回だけ1985年版(英語版)が放送された。 夜には約2千人がヘルシンキの大統領宮殿(英語版)に招かれて、リンナンユフラト(Linnanjuhlat、「城の舞踏会」)という非公式の名前で呼ばれる舞踏会に参加する。舞踏会は国営放送で生中継され、毎年恒例で人気のある放送である。舞踏会は1919年に初めて行われ、以降毎年行われている[4]。 舞踏会は抗議の標的にもなり[2]、毎年公式の舞踏会に対抗して様々な抗議や対抗番組が行われている。慈善家のヴェイッコ・フルスティ(英語版)は貧民に無料の食べ物を与える最も有名な抗議を行い、フルスティが2005年に亡くなった後は息子のヘイッキ・フルスティ(フィンランド語版)がこの伝統を引き継いでいる[5]。 独立記念日の舞踏会の生放送のうち、人気が最も高い部分はゲスト入場のときである。ゲストには伝統的に一番乗りで入場するマンネルハイム十字章の受章者のほか、官僚、エドゥスクンタの議員、大司教、裁判官、軍部の首脳部、警察官、外交官など毎年招かれる者もいれば、大統領が自ら選ぶ芸人、活動家、スポーツ選手、その年に注目の的となった人々もいる。最後に入場するのは伝統的にフィンランドの元大統領たちとなっている[6] フィンランド独立宣言の90周年記念となった2007年、5ユーロの記念貨幣が作られた。 関連項目[編集]

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民主くん – Wikipedia

民主くん(みんしゅくん)は、かつて存在した日本の政党・民主党公認ゆるキャラ。民進党発足に伴い、「公認」が剥奪され、引退した。ツイッターアカウントも2017年5月を最後に更新されなくなった[1]。しかし、2019年7月に約2年ぶりにツイッターアカウントが更新された[1]。 Twitterのプロフィールによると、年齢は不詳(自分でも知りたい)。性別はなし。衣服は着用しておらず、体を覆う赤いものは皮膚というのが定説となっている。唇は魚肉ソーセージでできており、体形がたまたま民主党のマークに似ているため民主党を応援している。大好物はガリガリ君ソーダ味で押メンは蓮舫。スリーサイズはB206-W230-H206。趣味はTwitter。産経新聞[2]としんぶん赤旗[3]を購読している。 なお、2015年中旬からTwitterにおいて、挑発や相手を非難するツイートがなくなり、写真中心のツイートになったことから「中の人」が変わったという疑惑が出た。 18歳選挙権や若者の低投票率を理由に「ゆるキャラグランプリに出場して若い人が政治に関心を持つキッカケを作りたい!」と考え、ゆるキャラグランプリ出場を目指す。しかし過去の発言などが理由で2015年まで非公認キャラという位置づけで、公式のキャラクターであることが条件となっているゆるキャラグランプリの出場資格がなかった。そこでTwitter上で「1000RT達成したら公認を貰いに民主党に直談判しにいく!」と家入一真が都知事選に出馬した際の手法を真似し、1000名の賛同者を集める。その功績が認められ、黒岩宇洋青年委員長が公認決定を宣言。晴れて民主党の公認ゆるキャラとなった。ゆるキャラグランプリ出馬会見では「2位じゃダメなんです!」と宣言し、グランプリ獲得を宣言する。 2007年1月より放送された党のテレビコマーシャルが「何を訴えたいのかよくわからない」との声が挙がったことから、同年4月の第16回統一地方選挙に際して同党所属の都議会議員・区議会議員経験者10名が「若年層に親しみやすいキャラクター」として赤い丸を上下に配置した党章のデザインを基に発案、都道府県連のローカルCMで採用するよう党本部に提示した。 同年7月29日投開票の第21回参議院議員通常選挙では、東京都を中心に関東地方において選挙活動に従事。この時点では、党本部レベルでは未公認扱いであったが2009年4月に党青年局の公認となり[4]、8体の着ぐるみを追加投入。同年の2009年東京都議会議員選挙や第45回衆議院議員総選挙で本格的に街頭活動を行うことになった[5]。 2008年2月より、動画サイト・YouTubeで「アニメ【民主くんシリーズ】」が公開された。ここで登場する民主くんは前出のマスコットキャラクターがベースになっているものの、よりマンガ的な2次元キャラクターである。「アニメ【民主くんシリーズ】」は、当時衆議院議員であった高橋昭一が2009年に初当選する以前より開設している「民主党・takashoチャンネル」で連作形式により公開されている。アニメの制作にはAdobe Flashを使用しており、シンプルな動きしかないが政策を紹介する内容の他、宇宙戦艦ヤマトや機動戦艦ナデシコ・機動戦士ガンダムなどのアニメのパロディー等も交えて短くまとめられている。もともと映像制作者だった高橋がイラストから編集、声優まですべて1人でこなしている。第45回総選挙における高橋の初当選に際しては「鷹の爪」に登場する鷹の爪団戦闘主任・吉田君からのお祝いメッセージが「アニメ【民主くんシリーズ】」のトップページに掲載された。 2010年11月19日、産経新聞が民主党有志のtwitterアカウント「民主くん(@min shu_kun)」を「なりすまし」のアカウントであると報じた。これに対し、民主くんはTwitterで「某新聞に民主くんなりすまし説が。どうしてマスコットキャラのツイートに大新聞が神経質になるんでしょう。先ほど広報委員会からナカノヒトに問い合わせがありました。昨年の衆院選前から藤末議員などと相談して党の関係者が開設運営しているアカウントです。知っている人は知っているコト。」「昨年の衆議院選挙の前からアカウントがありますよ。経緯やナカノヒトのことは藤末さんや逢坂さんなど以前からツィッターをやっている議員がご存知。」と反論した[6]。そのため、産経新聞側の「誤報」という形で事態は収拾した。 2014年11月21日、「小学4年生放送部の中村」と名乗る人物が安倍晋三内閣の解散を批判するサイト『どうして解散するんですか?』を公開すると、民主くんのTwitterアカウントもこれに便乗し、自身のツイッターにて「天才少年現る!とてもいい。皆さんもぜひ!」と投稿した。だが、翌日事態は一転し、慶應義塾大学の大学生が「小学4年生放送部の中村」と偽り政権を批判していたことを認め、謝罪文を掲載する[7]。これを受けて民主くん側も紹介ツイートを削除し、「作者からメンションがあり、即座に小学4年生が作れるはずはないと判断しましたが、内容には賛同できたので、そのフィクションに乗った形のコメント付きで紹介しました。民主くんのツィートで皆さんにご迷惑をおかけしたことをお詫びします」と謝罪した[8]。ネットメディア・ねとらぼが電話取材したところ、民主党広報は「民主くん(@minshu_kun)」のアカウントについて「無関係だ」とコメントし、「民主くん(@minshu_kun)」が事実上のなりすましであることを認めた[9]。これにより、産経新聞の過去の記事は「誤報ではなかった」ことが判明した。 2016年3月27日、民主党が民進党として改称・結成されたことに伴い、民主くんの去就が注目された。民進党代表に就任した岡田克也は「党のマークが代わるので、公認の位置づけということはない」と述べ、公認を剥奪する考えを示した[10]。民主くんは、名前だけでなくキャラクターの形そのものを変えることも検討するとしていた[11]。 同年4月29日に公認・引退をかけたゲームが「ニコニコ超会議2016」で行われたが敗北、引退が決定した。今後再就職先を探すとしていた[12]。 同年9月、民進党は、民主くんの後任となる新しい公認マスコットを公募すると発表した。党のホームページで同月6日~15日まで受け付け、党外から募集する選考委員による選考などを経て、2017年前半に予定される党大会で発表する。なお大賞には、正賞として10万円と、副賞として民主くんの等身大人形(全長:約130センチ)が贈呈される予定だったが、大賞受賞者が民主くん等身大人形の受け取りを辞退。このため事務局が民主くんの生き方を検討した結果『廃棄』に決定した事をTwitterで公表した[13]。 2017年3月、後任キャラクターがお披露目され、蓮舫代表により「皆さんに名前が浸透するように」という意味を込め『ミンシン』と命名される。なお、蓮舫代表は会見中に民主くんについても言及し「次のステージに進むことを考えたい」と今後も民主くんを活用していく意向を示した[14]。 同年4月12日、民進党本部で行われた「ミンシン」へのキャラクター引き継ぎ式が最後の表舞台登場となった。列席した大西健介青年局長によれば、廃棄処分が決定したことで「かわいそう」「捨てないで」などの声が殺到したことを明らかにし、これを受けて憲政記念館に寄贈することを発表した。憲政記念館では「憲政資料」として展示される予定で「政党初のゆるいキャラクターで希少性がある。若者の政治への啓発の意味で受け入れた」と記念館側は説明している[15][16][17]。 現在は、憲政記念館内の政党グッズコーナーに着ぐるみが展示されている。 2019年7月には、約2年ぶりにツイッターアカウントが更新された[1]。 立憲民主くん[編集] 2017年10月3日、立憲民主党結成に伴いTwitter上にリッケンバッカーのギターを手にした「立憲民主くん」が登場した[18][19]。同15日には鹿児島市の街頭演説で実物が登場した[20][21]。考案者は音楽評論家の高橋健太郎[22]。ただし、2018年4月に細野豪志が立憲民主党関係者に問い合わせたところ、「立憲民主くん」は立憲民主党の職員ではなく部外者であると返事があった旨を表明している[23]。

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隆の勝伸明 – Wikipedia

隆の勝 伸明(たかのしょう のぶあき、 1994年11月14日 – )は、千葉県柏市出身で常盤山部屋(入門時は千賀ノ浦部屋)所属の現役大相撲力士。本名は石井 伸明(いしい のぶあき)。身長183cm、体重155kg、血液型はO型[2]。最高位は西関脇(2020年11月場所 – 2021年5月場所、2022年1月場所)。好物は肉料理(特に生姜焼き)[3]、白米[4]。好きな言葉は「笑う門には福来る」。 6人兄弟の4番目で、他の兄弟は皆細身だったのに対し、伸明少年のみ体格に恵まれており、小学1年の時から地元の相撲大会に出場し、3年生の時に地元・千葉県の柏相撲少年団で本格的に相撲を始めた。厳格な父の指導もあり最初は嫌がっていた稽古も積極的に取り組むようになった。少年団での稽古は1日4時間、週2回から3回であったが、学年が上がるにつれて自主稽古が増え、ある時期には週に2、3回、家で30分間延々と四股を踏んでいた[5]。「中卒で大相撲に入るまでずっと通っていました。稽古は厳しかったけど、小さい頃はとにかく相撲が楽しかった記憶があります」と本人は少年団時代を振り返っていた[5]。中学時代には全国中学校相撲選手権に千葉県代表として団体戦メンバーの1人として出場。同じ団体戦メンバーには大翔鵬がいた。中学卒業と同時に千賀ノ浦部屋に入門。四股名は師匠の19代千賀ノ浦(元関脇・舛田山)の現役時代の四股名から一字貰った「舛ノ勝」とした[4]。入門同期生には輝、千代ノ皇らがいる。 2010年3月場所で初土俵を踏み、前相撲は二番出世。序ノ口を1場所で、序二段と5場所でそれぞれ通過。この間2010年11月場所の負け越し(2勝5敗)以外は全て勝ち越し、2011年7月場所で三段目に昇進。三段目でも2011年9月場所の負け越し(3勝4敗)以外は全て勝ち越し、2012年5月場所で幕下に昇進した。2014年に2回三段目落ちを経験したが1場所で幕下復帰をして、2015年1月場所以降は幕下に定着した。2016年4月に師匠が20代千賀ノ浦(元小結・隆三杉)へ代替わりし、部屋が出羽海一門から貴乃花一門へ移籍すると、貴乃花一門の貴乃花部屋や阿武松部屋へ出稽古へ通うようになって良質な稽古を積めるようになり[6]、幕下上位へ定着した。2017年1月場所で、四股名を読みはそのまま「舛の勝」へ変更した。師匠の考えで、心機一転などの意味合いを込めた改名であったが、改名後は勝ち越しを続けて、同年9月場所で自己最高位となる東幕下3枚目の番付で6勝1敗としたことで、翌11月場所での新十両昇進が決まった。柏市からの関取誕生は麒麟児以来44年ぶり(麒麟児は旧柏町出身)で、このことは柏市の広報でも伝えられた[7]。また、十両昇進に合わせて、20代千賀ノ浦の現役時代に因み、四股名を「隆の勝」へ再改名した。新十両昇進に際して隆の勝は「本当に夢みたい。目標にしていた場所に上がれてめちゃくちゃうれしい」と喜びを見せる一方で、「同期の輝や、(年下の)阿武咲や貴景勝が活躍している。負けたくない気持ち」と闘志を見せた[8]。「11月場所はまずは勝ち越し、あわよくば十両優勝を目標としている[3]」と抱負を述べた。師匠からは「俺は新十両で10番“しか”勝てなかった」とさりげなくプレッシャーをかけられつつも[9]、最終的に9勝6敗で勝ち越し。その後も勝ち越しを続け、2018年5月場所は幕内昇進を伺う西十両3枚目まで番付を伸ばした。直前の5月7日に時津風部屋で行われた幕内力士8人が集まって行われた合同稽古では時津風一門の横綱である鶴竜と5番取って1勝4敗、この日唯一鶴竜に土を付けた力士となった[10]。場所では序盤から黒星が先行して12日目に関取として初の負け越しが決定。しかし残りを3連勝として1点の負け越しに抑えた。番付を半枚落として迎えた7月場所は先場所から一転して持ち味の押し相撲が冴え、特に中日以降は7連勝とするなど13勝2敗の好成績を挙げた。9日目から星の差1つで追走していた貴ノ岩が千秋楽で旭秀鵬に敗れたため優勝決定戦にも進出したが、引き落としで敗れて十両優勝は果たせなかった。十両で13勝を挙げながら優勝できなかったのは2014年7月場所の逸ノ城以来4年ぶりとなる。それでも続く9月場所は新入幕を果たし、東前頭14枚の地位を与えられた。両国国技館内で内で行われた記者会見では「幕内はテレビでみる世界だった。番付の一番上に名前が載り本当にうれしい。めちゃめちゃ、うれしいです」と話し、師匠は「今はまだ通過点。ぜひ、なってほしい」と自分が経験した三役力士への成長を願った[11]。9月場所は二桁白星と三賞受賞を目指していた[12]が、13日目に6敗目を喫して二桁白星は不可能になり、この場所は8勝7敗に終わった。三賞に関しては、そもそもこの場所は大相撲史上初の三賞すべて該当者なしという結果になっている[13]。この場所の勝った8番中3番は捕まってからの寄り切り、2番は攻めあぐねた状況での突き落としであった[14]。10月5日の秋巡業足利場所では巡業3日目で初めて稽古土俵に立った稀勢の里に胸を出してもらい、8分間ぶつかり稽古を行った。この日の稽古後に稀勢の里は「スタミナはあると思う。(厳しい稽古を)普段からやっているんじゃないですか。お互い良い稽古になる」と評価し、今後に期待した様子だった[15]。2019年4月20日の春巡業柏場所は御当地場所。ぶつかり稽古では大関・髙安に、たっぷりかわいがられ稽古をつけてもらった。稽古後は、地元テレビ局や新聞社の取材が特別に設けられ、5人の兄弟はじめ家族全員が応援に駆けつけるなど、地元で晴れ姿を披露した[16]。2020年3月場所では、無観客の中9日目までに1敗と優勝争いにも加わり、最終的には12勝3敗の好成績で、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した。7月場所でも東前頭2枚目の番付で8勝7敗とし勝ち越した。9月場所では西前頭筆頭で10勝5敗。11月場所では新三役・新関脇として臨み8勝7敗で終えて見事勝ち越し、平成以降では照ノ富士以来史上4人目となる新三役・新関脇としての勝ち越しとなった。場所を終えて「勝ちたい勝ちたいという思いが強すぎて自分の相撲が取り切れていなかった」と反省した一方、同部屋の大関・貴景勝が優勝決定戦で幕内最高優勝を決めたことに対して「ああやって自分の相撲を取りきれるメンタルは本当にすごい」と刺激を受けたことを明かした[17]。 2020年11月26日、所属する千賀ノ浦部屋が師匠の名跡変更で常盤山部屋へ改称されたことに伴い、常盤山部屋所属になった[18]。 2021年1月場所で二桁白星を挙げれば続く3月場所は大関取りの場所に発展する状況となったが、本人は「(大関は)目標としてはあるけど、考えすぎないことが一番。稽古場の相撲が取れれば(12勝した前年の)3月みたいにいい相撲が取れるんじゃないかと思います」とコメント[19]。結果的には9勝6敗で終えた。3月場所は千秋楽で勝ち越しを決め、8勝7敗で終えた。5月場所は、星が伸びず、12日目に負け越し、最終的には5勝10敗で終え、三役の座を失うことが確実な情勢となってしまう。11月場所は11勝4敗の好成績を残し、千秋楽勝てばという条件付きであった敢闘賞を自身2度目の受賞[20]。2022年1月場所の帰り三役が確実視される中、12月14日の稽古後には2022年に向けて「飛躍の年にしたいですね。もう一つ上の番付を目指したい」と、大関昇進への意欲を語った[21]。 1月場所は西関脇で7勝8敗となり、続く3月場所は東小結に降下。それまで関脇在位5場所ながら小結在位はこの場所で自身初[22]。 押し相撲が持ち味であり、関取昇進後は稽古と食事で体格と持久力を向上させた[4]。一方、下から突き上げられて前に出られると、残り腰がないタイプである[23]。 2020年3月場所は力のある突き押し、右を差して素早く寄る相撲も目立ったが、2020年5月に本人が語ったところによると「自分の相撲をつかみ始めたのは出稽古を積極的にするようになった3、4年前くらいからです」とのこと[5]。 怪我に強い力士であるのも特徴であり、場所中でも痛そうだと整体師の母に判断されたら母がすぐ治療しに行くため、大きな怪我に発展しづらい[4]。 貴景勝が部屋に移籍して以降は彼との稽古で強くなった。2020年9月場所4日目の大栄翔戦では相手の押しをいなして下から押す相撲で勝利し、藤島から「地力がついているということだ」と評された[24]。 2021年1月場所前に舞の海は自身のコラムで「右を差して出ると勝ったようなものであるという安定感があるが、激しい相撲、横からの攻めには弱い」という内容の指摘をしていた[25]。

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野外通信システム – Wikipedia

広帯域多目的無線機(携帯用I型) 野外通信システム(やがいつうしんシステム、英語: Field Communication Infrastructure[1]、Field Communication System[2]、FC net[3])は、陸上自衛隊の通信システムの一つ。試作段階では新野外通信システムと呼称された[4]。略称は「野通(やつう)」。 開発は技術研究本部(現防衛装備庁)、製作はNECが行っている。 戦略階梯(方面隊)で用いられた方面隊電子交換システム(AESS)、作戦術階梯(師団・旅団)で用いられた師団通信システム(DICS)、戦術階梯で用いられた地上無線機・野外無線機(85式および新野外無線機)を一括して更新するシステムとして開発された。なお旧来の「野外通信システム」は、AESS・DICS、野外無線機等のサブシステムで構成し野外に展開して方面隊・師団の各部隊等を電話・テレタイプ・車両無線機・携帯無線機等で連接し、指揮命令・情報等を伝達するシステムを指し[5]、本システムは上記のようにこれらを全て更新するため「新野外通信システム」の名称で開発された。 平成19年度から平成22年度にかけて試作が行われ、平成21年度から平成23年度にかけての技術試験及び平成22年度から平成23年度にかけての実用試験を経て[6]、平成24年度に装備化、同26年度より整備が行われている。開発試作総経費は168億円[7]。なお野通は平成16年度から試作を、平成18年度から翌年度にかけて所内試験を実施した「統合無線機の研究」の成果を反映させている[8]。 周波数としてはHF・VHF・UHFが用いられる(ハンドヘルド型はVHF・UHFのみ)[9]。通信プロトコルにはInternet Protocolが採用されており[10]、モバイルアドホックネットワークの技術により、迅速に高速かつ広域にわたる通信ネットワークを構成可能とされている[11]。初動対応時には、部隊間では広帯域多目的無線機のみ、あるいはアクセスノード装置との間でネットワークが形成され、基地・中央との通信は民間通信事業者や衛星通信システムを通じて確保される。その後、より大規模な部隊が展開する本格的対応時には、指揮所には指揮所用ネットワーク装置が設置されるとともに、ノード中継装置やバックボーンノード装置、整備支援装置やネットワーク管理装置によって独自のネットワークインフラが構築される[6]。なおオペレーティングシステムとしては、情報処理端末にはMicrosoft Windows、携帯情報端末にはAndroidが採用されている[12]。 システム内の無線通信端末として開発された広帯域多目的無線機(略称: 広多無(コータム))は、その名の通り、周波数帯域としてはHF・VHF・UHFに対応し、また音声通信とデータ通信の同時利用が可能となっている[13]。NECが開発していたソフトウェア無線技術[14]が採用されており、所要のソフトウェアを使用することで、3自衛隊間およびその他の部外関係機関との直接通信が可能となっている[15]。ソフトウェア無線機規格としては、アメリカ軍が統合戦術無線システム(JTRS)で採用したのと同じSCA(英語版)が採用されている[10]。可搬通信速度は11Mbpsで[16]、これはIEEE 802.11bに相当する通信速度である。 指揮統制システムの搭載[編集] 野通配備開始後には、陸上自衛隊の指揮統制システムをソフトウェア化して搭載することで、指揮階梯から第一線部隊まで情報の共有を可能とし、海自・空自・米軍との秘匿情報の共有も可能とする研究が行われた[17]。 研究開始時の概要として師団等指揮システム(FiCS)と基幹連隊指揮統制システム(ReCS)のサーバ装置(計算機室装置・中央処理装置)やPDA(携帯II型)・GPS(自己位置評定装置)が、ノード装置や広多無(携帯用I・II型)に置き換えられ、前者が有する計画や命令・共通メッセージ(メール)・部隊配置・地形や気象・敵情報等の情報授受の機能が、ソフトウェア化された上で後者へ搭載される[18]。これにより先述の効果以外にもFiCSやReCSを新たに購入する必要が無くなり、またその分増備される野外通信システムも量産単価の低減に繋がり、情報共有による機能強化とコスト削減の両立が可能となる。

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アルベルト・キンテロ・メディナ – Wikipedia

アルベルト・アブディエル・キンテロ・メディナ(Alberto Abdiel Quintero Medina 、1987年12月18日 – )は、パナマ・パナマ市出身のプロサッカー選手。パナマ代表。ウニベルシタリオ・デポルテス所属。ポジションは、ミッドフィールダー。 地元パナマ市に本拠地を置くチョリージョFCでキャリアをスタート。2008年夏、スペインに渡りアマチュアクラブのトレジャーノCFに入団[1]。 2009年夏、セグンダ・ディビシオンのFCカルタヘナに移籍[2]。新天地ではサポーターの人種差別もあり適応に苦しんだ[3]。1シーズンでクラブを退団しセグンダBのオンティニエンテCFをへて[4]パナマに帰国、古巣のチョリージョFCに復帰した[5]。 2013 CONCACAFゴールドカップでの活躍からCFパチューカが興味を示していると報じられたが[6]、メキシコ2部のロボス・デ・ラ・BUAPに移籍した[7]。 2007年、カナダで開催されたFIFA U-20ワールドカップに参加した[8]。同年のグアテマラ戦でA代表デビュー[9]。 2018 FIFAワールドカップでは最終登録メンバーに選ばれたが、トレーニング中に骨折し離脱。代わりにリカルド・アビラが招集された[10]。 2019年9月5日のバミューダ諸島戦で代表通算100試合出場を達成した[11]。 ゴール[編集] ^ Tres jugadores

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高井悌三郎 – Wikipedia

高井 悌三郎(たかい ていさぶろう、1911年(明治44年)1月3日 – 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者、教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。 1911年(明治44年)1月3日に富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、四高(石川県金沢市)を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける[1][2]。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。茨城県には1947年(昭和22年)まで住んでおり、最終的には茨城師範学校教授にまで昇任した[2][3]。 茨城県在住中に高井は真壁郡新治村(後協和町、筑西市に変遷する)古郡にある遺跡の発掘調査を当地の地主藤田清と共に行い、この遺跡が新治廃寺跡、新治郡衙跡であることを明らかにした。国内の地方郡衙の概要が明らかにされたのは、この発掘調査が初めてのことであり、高井はこの新治廃寺跡、新治郡衙跡発掘調査・研究で考古学界から注目された[3][4][5]。 1947年(昭和22年)3月に茨城師範学校を退職し、翌月、兵庫県西宮市にある甲陽学院中学校・高等学校教諭に就任し、住居も西宮市に移した。学校で社会と日本史を教える一方、考古学研究者としては田岡香逸、宮川秀一と共に甲陽史学会の設立メンバーの一人となり、兵庫県内、茨城県内の遺跡の発掘調査・研究を行った。また『茨城県史』、『伊丹市史』の編纂にも携わった[6]。 甲陽学院を1976年(昭和51年)3月に退職した後、同年7月に辰馬考古資料館の初代館長に就任し、2001年(平成13年)10月まで館長を務めた[2][7]。 2004年(平成16年)9月28日に93歳(享年94歳)で死去[1]。存命中は文化財審議委員等の委嘱を兵庫県、宝塚市、尼崎市、伊丹市等の自治体から受けており、文化財の調査・保護にも尽力している[7]。 死去翌年の2005年10月8日から12月4日にかけて辰馬考古資料館にて『高井悌三郎氏の調査の足跡』と題した高井の足跡をたどる展覧会が開催された[2][8]。 調査研究に関わった遺跡[編集] 高井が調査研究に関わった遺跡の内、主なものには以下のようなものがある[9][10]。 新治廃寺跡、上野原瓦窯跡、新治郡衙跡遺跡(茨城県筑西市) 高井の名を高めた新治廃寺、新治郡衙跡の調査研究は、この地の地主である藤田清が書いた『常陸の不動倉』(『社会経済史学』第5巻第3号(1935年6月)pp.116-117)を高井が読んだことから始まった。自身が住む新治村古郡にある遺跡が新治郡衙跡である可能性を指摘していた藤田の記事に関心を持った高井は、藤田の元を訪れ藤田と交流を持つようになった。そして藤田の協力のもと発掘調査が1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけて行われた。高井はこの発掘調査を当時の最先端の遺跡調査法を取り入れて行い、結果、古郡の遺跡が新治廃寺跡、上野原瓦窯跡、新治郡衙跡であることを明らかにした。国内の地方郡衙の概要が明らかにされたのはこの調査が初めてであり、地方郡衙研究を進展させた高井の業績は大きなものがある[3][5]。 この調査をまとめた書、『常陸国新治郡上代遺跡の研究』(桑名文星堂、1944年)により高井の名は国内考古学界に知られるようになった[3]。 茨城県在住中の1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけて、高井によって調査された。この調査結果から1945年7月16日に茨城県の文化財(史跡)に認定された。この調査報告書は『常陸台渡廃寺跡・下総結城八幡瓦窯跡』(1964年、茨城県教育委員会)として発行されている[11]。 1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)の間に4次の調査が、高井と藤田清、上野武臣らにより行われた。報告書は『常陸国新治群上代遺跡の研究Ⅱ』(1988年、甲陽史学会)として発行された[12]。 1953年(昭和28年)に高井他、藤田清、中村盛吉率いる常総古文化研究会らの協力で調査が行われた。報告書は『常陸台渡里廃寺跡・下総結城八幡瓦窯跡』(1964年、茨城県教育委員会)[13]。 富谷薬師台瓦窯跡(茨城県岩瀬町)

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津山城 – Wikipedia

津山城(岡山県) 備中櫓(2005年(平成17年)3月19日の落成式当日) 別名 鶴山城 城郭構造 梯郭式平山城 天守構造 独立式層塔型4重5階(非現存) 築城主 山名忠政 築城年 嘉吉年間(1441年~1444年) 主な改修者 森忠政 主な城主 山名氏、森氏、松平氏 廃城年 明治6年(1873年) 遺構 石垣、堀

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