出羽祐盛 – Wikipedia

出羽 祐盛(いずは すけもり)は、戦国時代の武将。石見国邑智郡出羽郷(現在の島根県邑智郡邑南町出羽)の二ツ山城を本拠とした国人・出羽氏の当主で、大内氏と毛利氏に属する。

石見国の国人・出羽氏の当主である出羽光祐の子として生まれる[3]

父・光祐は、幕府奉行人の布施英基と飯尾為信の執達状に従い、文明10年(1478年)から畠山政長による畠山義就討伐に加わって河内国へ在陣していた[4]が、文明18年(1486年)に石見国へ帰国した[5][6]

この事が幕府の不興を買い、延徳2年(1490年)8月30日には出羽氏の帰国を咎め、直ちに再び畠山義就討伐へ出陣するよう命じる旨の松田数秀と飯尾元連の執達状が、元服前で「出羽宮鶴丸」と名乗っていた祐盛に対して出され[5]、この他に足利義政からも同様の内容の御内書が出されるなど、度々畠山義就討伐の下知を受けたが、祐盛は請文を出しつつも出陣を渋った[7]

永正5年(1508年)、大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際に祐盛も従った。また、永正8年(1511年)8月24日の船岡山の戦いに加わって武功を挙げた。祐盛の功に対し、大内義興は「高名無比類」という旨の御内書を出し、同年10月5日には細川高国からも奉書を送られている[8]

出羽氏の治める出羽郷700貫の内の450貫は、以前より出羽郷に隣接する阿須那郷の藤掛城主である石見高橋氏によって押領されていたが、享禄2年(1529年)に高橋興光が毛利元就によって滅ぼされると、高橋氏に押領されていた450貫は出羽氏へ返還された。この事から、享禄4年(1531年)には毛利氏の与力となる事を誓約する起請文を提出し、以後毛利氏に属した[9]

天文11年(1542年)2月16日、高橋氏の遺領である石見国雪田村も元就から与えられ[10]、同年1月から始まった大内義隆の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)に従軍した。同年6月7日から7月27日にかけての赤穴城攻撃に参加した[注釈 1]

祐盛の没年は不明であるが、天文18年(1549年)4月22日に嫡男・元祐の家督相続が大内義隆に認められており、これ以前に祐盛が隠居もしくは死去していることが分かる。

注釈[編集]

  1. ^ この時の出羽氏の軍忠状が『閥閲録』巻43「出羽源八」に収められており、負傷した出羽氏家臣の名と負傷内容が記されている[11]。名前が挙げられている家臣は、小林新五郎、三戸又六、小谷次郎兵衛尉、安国刑部丞、土屋宗兵衛尉、安国新十郎、笠井助次郎、小林孫左衛門尉、藤田助五郎、三戸与一左衛門尉、三郎右衛門、又十郎、亀太郎、三郎五郎、賀藤兵衛、神兵衛で、それぞれ槍や矢、投石により負傷している。

出典[編集]

  1. ^ 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』p.951-955
  2. ^ a b c 『閥閲録』巻43「出羽源八」出羽家家譜。
  3. ^ a b c d e f g 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』p.957
  4. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第74号、文明9年(1477年)12月21日付 出羽光祐宛て布施英基・飯尾為信連署執達状。
  5. ^ a b 『閥閲録』巻43「出羽源八」第77号、延徳2年(1490年)8月30日付 出羽祐盛宛て松田数秀・飯尾元連連署執達状。
  6. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第75号、年不詳8月10日付 出羽祐盛宛て畠山尚順書状。
  7. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第78号、年不詳10月7日付 出羽祐盛宛て足利義政御内書。
  8. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第79号、永正8年(1511年)比定10月5日付 出羽祐盛宛て細川高国書状。
  9. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第1号、享禄4年(1531年)2月12日付 出羽祐盛宛て毛利元就起請文。
  10. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第2号、天文11年(1542年)2月16日付 出羽祐盛宛て毛利元就書状。
  11. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第80号、天文11年(1542年)7月29日付 陶隆房宛て出羽祐盛軍忠状。

参考文献[編集]