福澤全集 – Wikipedia

『福澤全集』(ふくざわぜんしゅう)は福澤諭吉の作品の全集。4種類の『福澤全集』が発行されている。 明治版『福澤全集』全5巻 大正版『福澤全集』全10巻 昭和版『続福澤全集』全7巻 現行版『福澤諭吉全集』(初版は全21巻、再版は全22巻) 明治版『福澤全集』[編集] 1898年(明治31年)に発行されたもの。福澤諭吉自身によって編纂された。全5巻。時事新報社刊。第1巻の最初に主要な作品を解説した『福澤全集緒言』[1]を収録し、それ以後は年代順に作品を配列している。なお、『日本婦人論』は『時事新報』に掲載された後、単行本化されなかったが、明治版全集の第5巻に収録された[2]。全集発行前後に発表された作品(『福翁百話』、『福翁自伝』、『修業立志編』など)は含まれていない。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる[3]。 第1巻(1898年(明治31年)1月1日)[4][5] 福澤全集緒言、華英通語、西洋事情、雷銃操法[6]、西洋旅案内 第2巻(1898年(明治31年)2月5日)[7][8] 条約十一国記、西洋衣食住、窮理図解、洋兵明鑑、掌中万国一覧、清英交際始末、英国議事院談、世界国尽、啓蒙手習之文、学問のすゝめ、童蒙教草、かたわ娘、改暦弁 第3巻(1898年(明治31年)3月5日)[7][9] 帳合之法、第一文字之教、第二文字之教、文字之教附録、会議弁、文明論之概略、学者安心論、分権論 第4巻(1898年(明治31年)4月8日)[7][10] 民間経済録、福澤文集、通貨論、通俗民権論、通俗国権論、民情一新、時事小言、時事大勢論 第5巻(1898年(明治31年)5月13日)[7][11] 帝室論、徳育如何、兵論、学問の独立、全国徴兵論、通俗外交論、日本婦人論、日本婦人論後編、品行論、士人処世論、男女交際論、日本男子論、尊王論、国会の前途、国会難局の由来、治安小言、地租論、実業論 大正版『福澤全集』[編集] 1925年(大正14年)から1926年(大正15年)に発行されたもの。石河幹明によって編纂された。全10巻。国民図書刊。第1巻から第6巻の途中までを明治版と同じ構成で収録、さらに明治版に収録されなかった作品(主に『実業論』より後に発行された作品)を収録した。さらに、第8巻から第10巻に『時事新報』掲載の社説や漫言などを「時事論集」として収録した。なお、『旧藩情』は『時事新報』に掲載された後、単行本化されなかったが、大正版全集の第6巻に収録された。また、『国会論』は1879年(明治12年)に『郵便報知新聞』紙上に藤田茂吉・箕浦勝人の名義で掲載されて単行本化されたもので、明治版全集の発行時には福澤が執筆したものとは公表されていなかったため、明治版全集には収録されず、大正版全集の第8巻に「時事論集」の一つとして初めて収録された[12]。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる[13]。 第1巻(1926年(大正15年)9月30日)[14]

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良和ハウス – Wikipedia

株式会社良和ハウス(りょうわはうす)は、広島県広島市に本社を置く不動産・マンション仲介・賃貸借・管理運営を中心とした不動産業者。免許番号は「国土交通大臣(1)第9113号」。 「IT重説」や「RPA」など、積極的にITの導入をすすめており[1]、アメリカ人・中国人・ベトナム人など外国人を雇用するなど、外国人のサポート体制も積極的に整えている[2]のが特徴。 広島市を中心に17店舗展開(広島市内15店舗、岡山県2店舗)し、2万5231戸の管理を行っている[1]。 賃貸仲介件数は、年間1万1618件で全国23位、中四国では1位[3]。 1965年 和田良雄が不動産業を創業 1986年 株式会社良和ハウス設立 管理会社株式会社ワンディハウス設立 1995年 八丁堀店開設 1997年 横川駅前店開設 1999年 安佐南店開設 2000年 五日市店開設 2002年 祇園店開設 2004年

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熱ショックタンパク質 – Wikipedia

熱ショックタンパク質(ねつショックタンパクしつ、英: Heat Shock Protein、HSP、ヒートショックプロテイン)とは、細胞が熱などのストレス条件下にさらされた際に発現が上昇して細胞を保護するタンパク質の一群であり、分子シャペロンとして機能する。ストレスタンパク質(英: Stress Protein)とも呼ばれる。 それらは最初に熱ショックに関連して説明されていたが、現在では寒さへの曝露、紫外線、創傷治癒または組織リモデリングなどの他のストレスでも発現することが知られている。 HSPが初めて発見されたのは1974年であり、ショウジョウバエの幼虫を高温にさらすとある特定のタンパク質が素早く発現上昇することが、アルフレッド・ティシェールらによって報告された[1]。1980年代半ばになると、分子シャペロン機能を有することや、細胞内タンパク質輸送に関与することなどが認識されるようになった。 HSPはその分子量によって各分子の名前がつけられており、例えばHsp60、70、90はそれぞれ分子量60、70、90kDaのタンパク質である。一方、低分子量タンパク質であるユビキチンは酵素複合体であるプロテアソームを介したタンパク質分解において重要な役割を果たしているが、この分子もまたHSPとしての性質を持つ[2]。 ヒトからバクテリアに至るまで様々な生物種において広く類似した機能を発現することが知られており、そのアミノ酸配列は生物の進化の過程においてよく保存されている。 発現誘導[編集] 細菌GroES/GroEL複合体のモデル。 HSPの発現は細菌感染や炎症、エタノール、活性酸素、重金属、紫外線、飢餓、低酸素状態などの細胞に対する様々なストレスにより誘導されることが知られている。核内タンパク質である熱ショック転写因子(HSF)はDNA上の熱ショックエレメント(HSE)に結合することによりHSPの発現を制御する転写因子として働くが、熱ストレスによりHSFが誘導される詳細な機構については十分に明らかにされてはいない。 分子シャペロン機能[編集] リボ核酸(RNA)からの翻訳により生成した新生タンパク質は不安定な状態にある。自由エネルギー的には常に最低の状態にあるわけではなく様々な立体構造をとりうるが、タンパク質はフォールディングと呼ばれる過程を経て安定化する。HSPはこの新生タンパク質に結合することによりタンパク質のフォールディングを制御する分子シャペロンとしての機能を持ち、分子シャペロンの多くはHSPである。高温条件化において変性したタンパク質、あるいは新生タンパク質のうちフォールディングの段階に問題があり、機能できないものなどにはHSPが結合してその処理を行うことが知られている。HSPはこのような高次構造の破壊されたタンパク質の修復およびタンパク質変性の抑制機能を有し、修復が不可能であると判断されたタンパク質はユビキチン化を受け、プロテアソームと呼ばれる酵素複合体へ運搬されて分解を受ける(タンパク質の品質管理)。このフォールディングの段階に異常があり、不良品タンパク質が細胞内に蓄積するとフォールディング病と呼ばれる疾患に陥る。 タンパク質輸送[編集] Hsp60およびHsp70は細胞質からミトコンドリアや葉緑体への輸送に関与していることが知られている。これらの細胞内小器官に存在するタンパク質のほとんどは核に存在するDNA由来であり、生成したタンパク質を目的の場所へ輸送する機構が必要となる。細胞質で前駆体タンパク質として合成されたタンパク質はHsp70が結合することにより膜透過に適した立体構造に安定に保たれている。 HSPファミリー[編集] 各HSPファミリーの代表的な分子と機能について示した。 分子量

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南港軟体園区駅 – Wikipedia

南港軟体園区駅(なんこうなんたいえんくえき)は台湾台北市南港区に位置する台北捷運内湖線(文湖線)の駅。駅番号はBR23。淡水線の大安森林公園駅、高雄捷運の高雄国際機場駅などと並び台湾では最も長い駅名である。なお、「軟体」は中国語でソフトウェアのことを指す。南港ソフトウェアパーク駅[1]とも言う。 計画段階の仮称は経貿北だった[2]。 2009年7月4日 – 内湖線開業と共に開業[3]。 地上2階にコンコースと相対式ホーム2面2線を有する高架駅[4]:頁93-94。コンコースは片側にしかなくホーム間は跨線橋で往来する[4]:頁93-94。開業時点からホームドアが設置されている[5]。出入口は2箇所[4]:頁93-94。 駅階層[編集] 駅出口[編集] 2つの出口ともに駅の北側である。出口1は駅の西端、出口2は駅の東端。 出口1:南港軟体園区 出口2:経貿一路 中信金融園区出口:經貿二路を渡るスカイウォークがあり、中信金融園区ビルに直結している。 利用状況[編集] 年 年間利用客数 1日平均 乗車 下車 乗降計 出典

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もくまさあき – Wikipedia

もくまさあき(1942年2月 - )は、日本における口笛界のパイオニア的存在である。 大阪府大阪市出身。夢は「10000人のくちぶえ第九」を大阪城ホールで実現。 49歳でサラリーマンの世界から口笛奏者に転進する。 現在では「HITO-FUE(口笛)」提唱者として口笛音楽を文化として定着させるべく口笛普及活動に精力的に取り組んでいる。 2000年4月に日本人で初めてアメリカの口笛世界大会(第27回)に出場し、ポピュラー部門2位、総合で3位(成人男子の部)に入賞する。 2007年4月「第34回口笛世界大会」(アメリカ)にチームジャパンを引率し、子供部門、ティーンズの部門で世界チャンピオンが誕生する。 2009年3月に大阪府岸和田市「浪切ホール」にて「チャリティーコンサート」で伝説の世界一口笛奏者ショーン・ローマックスとの競演を果たす。 2010年5月、中国口哨協会(政府公認)との口笛文化交流が正式に決定。中国と日本の各々のノウハウを共有し技術革新を計りつつ、中国、日本のみならず世界中の国々の人々とも交流を行い「口笛」を一つの文化として定着させるべく努力、研鑽に努める。 大阪を拠点に演奏活動をする。 老人ホームや保育園、幼稚園、小学校などでの、口笛教室のボランティア活動。 2004年12月に、口笛音楽普及の為に、NPO法人日本口笛音楽協会を立ち上げる。 2005年11月に日本初の口笛全国大会「第1回全日本口笛音楽コンクール」を主催・運営する。 2008年を「くちぶえ文化元年」と位置づけし「こどもくちぶえコンクール」を本格化する。また、世界初「HITO-FUE検定システム」を福井大学とNPO法人日本口笛音楽協会とで共同実現。 2009年11月に「第4回日本オープンくちぶえ音楽コンクール2010」を開催する。以降、定期的に開催し主催、運営推進に努める。 2010年9月に大阪市「いずみホール」にて記念イベントゲスト出演。 2010年10月に大阪市「第11回天満音楽祭」にもくまさあきとトリオGで出場。 2010年10月に福岡県大川「大川街角ほっとコンサート、柳川船上口笛コンサート出演。 2010年12月に大阪府大東市サーティホールにて「大東エコ音楽祭inX’mas」~1200人の口笛大合奏~開催。同時開催「ナチュラルマーケット」

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ユリウス・リーツ – Wikipedia

アウグスト・ヴィルヘルム・ユリウス・リーツ(August Wilhelm Julius Rietz, 1812年12月28日 – 1877年9月12日[1])は、ドイツの指揮者・チェリスト・作曲家。 教育者としても活躍し、門下にヴォルデマール・バルギール[2] やザロモン・ヤーダスゾーン、アーサー・サリヴァン[3]、フーゴ・リヒャルト・ユンクストらを擁する。また、1874年から1877年まで、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社の『メンデルスゾーン全集』の監修者として、フェリックス・メンデルスゾーンの作品の多くを校訂した。 プロイセン王立宮廷楽団のヴァイオリニストであったヨハン・フリードリヒ・リーツ(Johann Friedrich Rietz, 1767年6月12日 リュッベン – 1828年12月25日 ベルリン)を父としてベルリンに生まれた[4][5]。夭折した兄エドゥアルト・リーツ(1802年10月17日 ベルリン – 1832年1月22日

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東洋キネマ – Wikipedia

合資会社東洋キネマToyo Kinema 種類 合資会社 市場情報 消滅 略称 東洋キネマ 本社所在地 日本〒101-0051東京市神田区神保町2丁目5番地(現在の東京都千代田区神田神保町2丁目10番) 設立 1921年12月31日 業種 サービス業 代表者 小林兵庫 資本金 1万円 (1934年[1]) 従業員数

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家畜伝染病予防法 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 家畜伝染病予防法 日本の法令 通称・略称 家伝法 法令番号 昭和26年法律第166号 種類 行政手続法 効力 現行法 主な内容 家畜伝染病の予防について 関連法令 家畜改良増殖法 条文リンク e-Gov法令検索 テンプレートを表示 家畜伝染病予防法(かちくでんせんびょうよぼうほう、昭和26年法律第166号)は、家畜の伝染性疾病(伝染病)の発生の予防、及びまん延の防止について定めた日本の法律である。略称は家伝法(かでんほう)。最終改正は令和2年4月3日法律第16号。 農林水産省職員執筆の同法の解説として、平成25年に「逐条解説

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御影中町 – Wikipedia

御影中町(みかげなかまち)は兵庫県神戸市東灘区の町名。現行行政地名は御影中町一丁目から御影中町八丁目。平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数は2,517 、人口は4,708で内男性2,294人・女性2,414人[1]。郵便番号658-0054。 旧御影町域(御影地区)の旧・御影村および郡家村域のうち北をJR東海道線南を阪神本線に挟まれた区域を指す。東は東御影線を挟んで住吉宮町、南は阪神を挟んで御影本町、西は旧石屋村域の御影石町、北はJRを挟んで弓場線以西が御影、以東が御影郡家と隣接する。 昭和43年(1968年)6月1日に御影町御影字柳が南東端の一丁目、同字但馬口の東半が北東端の二丁目、同字申御田が三丁目、同字但馬口の西半が四丁目、同字一里塚の東半が五丁目、同字掛田の東半が六丁目、同字一里塚の西半が南西端の七丁目、同字掛田の西半が北西端の八丁目として住居表示実施し、誕生した。 御影小学校の北の筋は旧西国街道の本街道にあたり、これが天神川と交差する場所にある一里塚橋の東南の旧・字一里塚は神戸市域では辻、脇浜、兵庫湊口、西代、境川、東垂水などと共に古文書にみえ、塚には榎が植えられて目印となっていた。明治9年の里程標設置によって次第に姿を消し、絵地図でも判らなくなったが、この橋で正確な位置が解ったという。 町名の変遷[編集] 昭和25年4月1日 昭和37年9月30日 昭和34年4月30日 昭和43年6月1日 御影町御影字上東(一部) 御影町御影字柳 御影中町一丁目 御影町御影字申御田(北部、御影町御影字沢の井・上東になった以外) 御影町御影字但馬口(一部) 御影町御影字柳 御影町郡家字下り(一部) 御影町郡家字下り 御影町御影字但馬口 御影中町二・四丁目

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