ムフリ川 – Wikipedia

ムフリ川(英語: Muhuri、ベンガル語: মুহুরী নদী)は、インドとバングラデシュを流れる国際河川である。インドのトリプラ州を水源としバングラデシュ国内に入り、ベンガル湾の近くでフェニ川に合流している。また、小フェニ川(Little Feni)としても知られている[1]。 ムフリ川はインドトリプラ州のルシャイ丘陵に発し西に流れ、バングラデシュに入る。バングラデシュに入った所はフェニ県パルシュラムで、そこから南に流れてフェニ川に合流するとすぐにベンガル湾である[2]。 国境問題[編集] ムフリ川にはインドのトリプラ州とバングラデシュのノアカリ県の国境として機能している箇所がある。しかしムフリ川の流路は変わりやすく、これによって両国境を定めるのは難しくなっていた。インド側は1974年の協定による「その時のムフリ川の流路の中央」を国境と主張していたが、バングラデシュ側は1893年の地図に則った国境を主張しており、後者の主張では18万ヘクタール弱の土地がバングラデシュ側に渡る事となる状態であった[3]。更にこの川には56.5ヘクタールほどの面積を持つムフリチャル島が存在している。この島は田圃として活用されている土地であるので両国ともに領有権を主張しており、両国の国境警備隊が小競り合いを起こす事もあった[4][5]。その後2011年にインドの首相であるマンモハン・シンがバングラデシュを訪れてこの地の国境を両国同意の上で確定した。加えて、ムフリ川沿いに堤防を設置して流路を安定させる事、基準線を策定する事でも合意した[6][7]。 ムフリ川のインド側の流域面積は839平方キロメートルで、つまりトリプラ州全体の8%が流域に含まれている事となる。年間の流量は7624万7000立方メートルであり、これはトリプラ州内全ての河川の流量からみて9.6%に相当する量である[8]。バングラデシュ側では40.08平方キロメートルが流域面積で、フェニ県のフェニ・サダル、ソナガジ、パルシュラム、チッタゴン県のミルシャライが行政的に該当する地域である。また、この川によって230平方キロメートルが灌漑出来る[9]。この川は手つかずの暴れ川としても知られ、流路が変わる事もしばしばである。川幅は基本的に150メートルから200メートルほどであり、河口に近付くにつれてその幅は広がっている。また河口附近では潮汐作用の影響も受ける。川底は非常に浅く、4トンのボートですら1年のうち半分しか航行できない。そのため、流量が少なくない季節になると洗い越しとして通行できるようになる[1][10]。 インド政府はベロニアの町を水害から守るために1975年以前に不透過水制を建設した。共同河川委員会はそれ以来川に不透過水制を建設しないように両国を抑えている[2]。バングラデシュは1986年にムフリ川灌漑計画によって20の門扉を有する水門を建設、ベンガル湾から流れ込んでくる塩水を制御して灌漑を行う事が出来るようになった。ムフリ川がフェニ川に合流する地点にはこの工事で出来た貯水池があり、この貯水池によって灌漑が行われている[11]。この計画が実行された事によって内水面漁業が発展し、海水の上流域への浸入やサイクロンによる高潮被害を防ぐ事が出来るようになった[9]。 参考文献[編集] 外部リンク[編集]

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ちび弾 – Wikipedia

ちび弾(ちびだん)とは大日本帝国陸軍が開発した化学兵器である。これは歩兵が携行し投擲するガラス球であり、内部に青酸と銅粉末を充填した。ちび弾は1939年(昭和14年)に起きたノモンハン事件の、赤軍(のちのソビエト連邦軍)のBT戦車から得られた戦訓から開発されている[1]。 ちび弾は主として戦車、特火点、掩蓋付きの銃砲の掩体の内部にいる兵員を殲滅するためのものである。砲塔や銃眼に対して投擲するが、接近が難しい場合には、投擲機を用いてちび弾を数個ほど集中射撃する。一般部隊が使用するほか、挺身部隊、奇襲部隊がこの弾薬を用いて戦闘を有利に進めるための兵器だった。一般的な火器が重戦車や特火点に対して無力であっても、ちび弾は一撃で殲滅を期待できる。夜間挺身奇襲では隠密かつ素早く目的を達成できるが、対象は人員の殺傷に限られ、戦車の破壊は別に対策を講じる必要があった[2]。 戦時中の各種資料では「ちび」「チビ」の仮名が充てられている。ちび弾は手で掴んで投擲するもので、投擲距離は約10mである。投擲機で発射する時は投擲距離100m以内を狙った[3]。戦車に対しては砲塔付近に1個命中すれば内部の人員を殲滅することができる。確実に殺傷するには2個から3個の命中が必要だった。特火点に対しては銃眼から1個を投げ入れることで内部の人員を殲滅できる。ガスマスク着用の兵員に対しては効力を期待することは難しい[4]。ちび弾は、硬い物質に命中させなければ破裂しない。投擲する兵員はガスマスクを必要としない。屋外など暴露環境にある兵員に対しては多くの場合に効果が無い。重量は外装付きで1.5kgである[5]。 陸軍忠海製造所の青酸工場「ちゃ一号工室」 開発は陸軍技術研究所の化学班による。構造は直径10cmのガラス球に青酸と銅粉末を詰めたものである。青酸は経時変化により分解する性質があるが、陸軍技術研究所では硫酸銅のイオンによって青酸の分解を防止した。戦車に投擲すれば容器が割れ、エンジン吸気によって機関室から外気とともに青酸を吸い込む。呼吸を止める作用が働いて戦車内部の兵員が死亡する[6]。1942年(昭和17年)4月21日、保護缶の材質を合板製に変更し代用することが提案された。5月23日付の書類で可能と決定された[7]。1941年(昭和16年)4月の忠海製造所の報告書類中には、きい弾、あか弾ほか化学兵器の生産の他、ちび弾に関して87,000個生産の報告がある[8]。 1942年、第15軍のビルマの作戦記録ではちび弾の射耗が報告されている。第15軍は1942年3月11日から6月10日にかけて中北部ビルマ作戦に従事した。第18、33、55、56師団が総計216両の戦車撃破報告を挙げている。使用した弾薬の一覧表に、中北部ビルマ作戦でのちび弾11発射耗の記録がある[9][10]。 他、第18師団隷下の輜重隊の事故例が挙げられる。1942年4月21日、大行李の輜重隊はビルマのヤコを出発しビンサンに向かった。輸送途上、河岸にて小休止中にちび弾の栓を抜いた一等兵が卒倒、仮死状態となった。極力看護に努め、この一等兵は23日に第18師団第3野戦病院へ入院した[11]。これは屋外の兵員には効果を期待できないという説明と合致する。 ^ 木俣『幻の秘密兵器』97、98頁 ^ 「近接化兵に就て」2画像目 ^ 「近接化兵に就て」2画像目 ^ 「近接化兵に就て」2画像目 ^ 「近接化兵に就て」2画像目 ^ 木俣『幻の秘密兵器』97、98頁 ^

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荒井金助 – Wikipedia

荒井 金助(あらい きんすけ、1808年〈文化5年〉 – 1867年1月1日〈慶応2年11月26日〉)は江戸幕府末期(幕末)の役人。 石狩役所調役を務め、地域の開拓と発展の礎を築いたが、自らは明治維新を見ることなく没した。 1808年(文化5年)、江戸に生まれる。生家は四川(鬼怒川・小貝川・利根川・江戸川)用水普請役を世襲する御家人で、父の龍蔵の跡を継承して御普請役となる。1845年(弘化2年)には小普請方当分仮役[要出典]、のちに京都朝廷の用務役人となったが、上司との確執から左遷されて江戸に戻る。 1857年(安政4年)、堀利煕箱館奉行に取り立てられて箱館奉行支配並に任じられるが、江戸から箱館に着くなり石狩役所調役並を命じられる。荒井は石狩役所管内を巡視し、石炭や石油の産出地を発見した。また、漁場請負人を廃して自由出願制にすることで漁場を解放し、江差の商人を介していた産物の移出を直接江戸へと出荷できるように改めることで、地域の人口増加を導いた。 1858年(安政5年)、直場処詰合に役人を配置。また、発寒・星置・小樽・張碓などに、平時は農耕するが有事には武装する「在住」を入植させる。その一方で発寒・琴似・篠路・苗穂などを「種川」としてサケ漁を禁じ、資源保護にも力を注いだ。 1859年(安政6年)、調役に昇格。農民十数戸を募って「荒井村」を開き、後の篠路村の基礎を築いた。また、琴似で米作りに成功した早山清太郎の業績を高く評価し、早山を篠路開拓へと導いた。そのほか荒井は望来にも村を開いている。奉行の命を受け、樺太の久春内へ警備と漁場経営のために部下を派遣したこともあった。 しかし堀奉行が転任してからは後任の奉行と対立するようになり、1863年(文久3年)には箱館沖の口係(税関)に転任させられ、さらに1864年(文久4年)、室蘭詰めの調役を任じられる。 1866年(慶応2年)6月、奉行に呼び出されて箱館に赴いた荒井は、室蘭へ戻る直前に急な熱病を発症し、そのまま現地で静養するはめになる。11月24日、容態が急変。翌25日に身の回りの物を残したまま失踪し、大騒ぎとなった。その後10日ほど経ってから、五稜郭の堀で遺体が発見された。熱に浮かされ、寝巻き姿のままさ迷い歩いた末に堀に落ちたものと思われるが、真相は定かではない。 荒井金助の墓は、札幌市北区篠路の龍雲寺境内に、早山清太郎の墓と並んで建てられている。 また、同市中央区伏見の札幌伏見稲荷神社に碑がある。 石狩市弁天町の弁天歴史公園にあるレリーフ「先人たちの碑」には、荒井の姿が描かれている。 なお、肖像は残っていない。 荒井金助の墓(右) 石狩調役荒井金助之碑(右) 参考文献[編集] 片岡秀郎『札幌歴史散歩』ヒルハーフ総合研究所、2012年7月14日。ISBN 978-4-9906400-0-2。

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エリック・ダビス – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はダビス、第二姓(母方の姓)はグラハレスです。(Template:スペイン語圏の姓名) エリック・ダビス パナマ代表でのダビス(2018年) 名前 本名 Erick Javier Davis Grajales ラテン文字 Erick Davis 基本情報 国籍 パナマ 生年月日 (1991-03-31) 1991年3月31日(31歳) 出身地 コロン

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グリヴナ (通貨) – Wikipedia

この項目では、中世の重量単位・通貨単位について説明しています。現代ウクライナの通貨については「フリヴニャ」をご覧ください。 グリヴナの一例。重量200g グリヴナ(古東スラブ語: гривьна[注 1])は11世紀以降(ロシアでは15世紀まで)、ルーシとその周辺地域で用いられた重量単位・通貨単位である[1][2]。貨幣としては棒状あるいは六角形に加工した銀が主に用いられた。重量単位としては、ルーシ(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)の史料上に言及される最古の単位である。 首飾りのグリヴナ(12世紀、銀製) グリヴナという名称は、元来は金または銀で作られた首飾り(グリヴナ)を指すものであった[2]。後に重量単位・通貨単位の両方に用いられ、最終的には通貨単位としての用法が主となった[2]。また、通貨単位としては、初期にはグリヴナ・ゾロタ(金グリヴナ)とグリヴナ・セレブラ(銀グリヴナ)の両方が用いられたが、次第に、銀グリヴナを単にグリヴナと称するようになった(貨幣としても銀製のものが用いられた)[2]。 グリヴナ・セレブラの史料上の最初の言及は、1130年に、キエフ大公ムスチスラフとその息子のノヴゴロド公フセヴォロドが、ノヴゴロドのユーリエフ修道院に宛てた勅令の中においてである[3][4]。また、11 – 15世紀の白樺文書(ru)の中にも、しばしば言及が見られる[5][6]。 また、グリヴナは同時期に用いられた他の通貨との兌換が可能であった。例えば11世紀(『簡素本ルースカヤ・プラウダ』による)には、1グリヴナ = 20ノガタ(ru) = 25クナ(ru) = 50レザナ(ru)の交換比率であった[7]。ただし、これらの交換比率は時代とともに変化した。たとえば12世紀後半(『拡大本ルースカヤ・プラウダ』による)では、1グリヴナ = 20ノガタ =

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深層捜査 – Wikipedia

『深層捜査 ドクター大嶋二郎の事件日誌』(しんそうそうさ ドクターおおしまじろうのじけんにっし)は、2017年から2019年までテレビ朝日系で放送されていたテレビドラマシリーズ。全3回。主演は長塚京三。 放送枠は「土曜プライム・土曜ワイド劇場」(第1作)、「日曜ワイド」(第2作)、「日曜プライム」(第3作)。 心の病に向き合う医師が、人の心の深層心理に潜む真実を見つけ、殺人事件の謎を解いていく。 登場人物[編集] 大嶋クリニック[編集] 大嶋二郎 演 – 長塚京三 院長。内科・神経科医。20年前、妻の美津子を暴漢に殺害された犯罪被害者。大学病院の勤務医を経てクリニックを開業してから20年(第2作)。 高野泰之 演 – 渡辺大 医師。内科・神経科医。 大嶋めぐみ 演 –

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漢化組 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “漢化組” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年11月) 漢化組とは漢語でない文字のある作品を漢語に翻訳する、ネットにのみ活動する組織。それに参与している、参与した人の数を合わせて何千人に近いといわれます。その70%以上は無償でボランティアとして活動している。 ゲーム漢化組 マンガ漢化組 アニメ漢化組(字幕組) ゲーム漢化組[編集] データ収集中 マンガ漢化組[編集] 主にマンガを内容とする漢化組 人員配置[編集] 監督[編集] 人を集め、組織を立ち上げる人。

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寺田三友紀 – Wikipedia

寺田 三友紀(てらだ みゆき、1987年1月6日 – )は、京都府京都市出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグの北國銀行所属。 2009年に日本ハンドボールリーグの北國銀行へ加入。背番号は「1」[1]。 2012-13年シーズン限りで正GKの田代ひろみが現役を引退し、正GKへ昇格。2013-14年シーズンはリーグトップの阻止数(250)を記録し、シュート阻止率はリーグ2位の.460を記録した[2]。 2014-15年シーズンはリーグ2位のシュート阻止率(.476)を記録[3]。初のベストセブンに選出された[4]。 2015-16年シーズンも3年連続でリーグ2位のシュート阻止率(.513)を記録し[5]、2年連続でベストセブンに選出[6]。オムロンとのプレーオフ決勝では、.519(13/27)のシュート阻止率を記録し、最高殊勲選手賞に選ばれた。 2016-17年シーズンはリーグトップのシュート阻止率(.485)を記録し[7]、3年連続のベストセブンに選出された[8]。 2017年の第16回女子アジア選手権で日本代表に選出[9]。同年の第7回全日本社会人ハンドボール選手権大会ではMVPを獲得した[10]。2017-18年シーズンは2年連続となるシュート阻止率賞(.512)を受賞し、4年連続でベストセブンに選ばれた[11]。 2018年の第8回社会人選手権ではベストセブンに選出[12]。2018-19年シーズンは3年連続でシュート阻止率賞(.495)を受賞[13]。 詳細情報[編集] 年度別成績[編集] 年 チーム 試合 FS阻止 率 7m阻止

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カーチス・スティーブンス – Wikipedia

獲得メダル 男子ボブスレー アメリカ合衆国 オリンピック 金 1932 レークプラシッド 男子2人乗り カーチス・ポール・スティーブンス(Curtis Paul Stevens、1898年6月1日 – 1979年5月15日) は1930年代に活躍したアメリカ合衆国のボブスレー選手。1932年のレークプラシッドオリンピックの男子2人乗りで金メダルを獲得した。 ボブスレー男子2人乗りの全米チャンピオンにも輝いている。ニューヨーク州レークプラシッドで亡くなった。兄弟のポール・スティーブンスとヒューバート・スティーブンスもボブスレー選手である[1]。 参考文献[編集] ^ Mallon, Bill (2014年1月20日).

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