小國伊太郎 – Wikipedia

小國 伊太郎(おぐに いたろう、1938年 – )は、日本の農芸化学者。学位は農学博士(名古屋大学・1974年)。静岡県立大学名誉教授。「國」は常用漢字に含まれていないため、新字体を用いて小国 伊太郎(おぐに いたろう)と表記されることもある。 名古屋大学農学部助手、静岡県立大学短期大学部食物栄養学科教授、静岡県立大学食品栄養科学部教授、浜松大学健康プロデュース学部教授、浜松大学健康プロデュース学部健康栄養学科学科長(初代)、浜松大学総合研究所食品機能部門部門長などを歴任した。 生い立ち[編集] 1938年、兵庫県神戸市にて生まれた。姫路工業大学に進学し[註釈 1]、工学部の応用化学科にて学んだ。1960年、姫路工業大学を卒業した。その後、名古屋大学の大学院に進学し、農学研究科にて学んだ。在学中に博士論文「Biosynthesis of terpenoids in diseased sweet patato」[1]を執筆した。1974年、名古屋大学の大学院における博士課程を修了した[1]。それに伴い、農学博士の学位が授与された[1][2]。また、日本学術振興会の奨励研究員となった。 研究者として[編集] 母校である名古屋大学にて、農学部の助手に就任した[3]。農学部においては、同じく助手である岩槻紀夫や大羽和子とともに[3]、教授の瓜谷郁三や助教授の旭正が所属する研究室に属していた[3]。 その後、静岡県立大学の短期大学部に転じた。短期大学部においては、食物栄養学科にて教授などを歴任した。さらに、静岡県立大学に転じ、食品栄養科学部の教授に就任した。なお、1990年からは、インドネシアの国立茶業研究所にて研究の指導も行っていた。2003年3月、静岡県立大学を定年退職した。これまでの功績により、同年4月に静岡県立大学から名誉教授の称号が贈られた。なお、定年退職後も、同年6月から2004年3月にかけて、静岡県立大学の産学官連携推進コーディネータを務めていた。

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安藤高夫 – Wikipedia

日本の政治家 安藤 高夫 あんどう たかお 生年月日 (1959-04-01) 1959年4月1日(63歳) 出生地 東京都渋谷区 出身校 日本大学医学部卒業 所属政党 (民主党→)自由民主党(細田派) 公式サイト 前衆議院議員 / 医師 安藤たかお 公式webサイト

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ナチュラルウーマン (2017年の映画) – Wikipedia

『ナチュラルウーマン』(Una mujer fantástica)は、セバスティアン・レリオ監督による2017年のチリ・ドイツ・スペイン・アメリカのドラマ映画である[4]。第67回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門で上映され、金熊賞を争った[5]。第90回アカデミー賞外国語映画賞にチリ代表作として出品され[6]、同国代表作として史上初めて受賞を果たした[7]。 ベルリン国際映画祭でのラライン、ベガ、レリオ、レジェス チリのサンティアゴ。トランスジェンダーの歌姫マリーナは、勤め先のナイトクラブで恋人オルランドに誕生日を祝ってもらった。オルランドは初老で妻子をもつ男だが、今は何をおいてもマリーナに愛情を注いでくれるパートナーであり、彼女も満ち足りた毎日を送っていた。だが、ある日愛し合ったベッドで彼は体の不調を訴え、身を乗り出した階段から転げ落ちてしまった。マリーナは急ぎオルランドを病院に連れてゆくが、そのまま彼は息を引き取る。全身の打ち身のこともあり、殺害の可能性も無視できないと警察はマリーナに尋問を行うが、駆け付けたオルランドの弟ガボに行動をねぎらわれて彼女はひとまず帰宅した。 翌朝、バイト先のレストランに訪ねてきた訳知り顔の女性刑事は、まるでオルランドの死因は彼の性的暴行に対するマリーナの抵抗の結果、とも言いたげに話を進めた。同僚のはからいでその場を逃れたマリーナが自宅アパートに戻ると、オルランドの息子ブルーノが勝手に上がっており、彼女にアパートからの転居を罵詈雑言を交え求めた。さらにオルランド夫人のソニアは夫の車の返還を求め、彼女のオフィスに車を停めたマリーナに葬式への不参加を求めた。すべては、マリーナの元男性であった過去をめぐる人々の偏見に満ちた妄想の結果であった。 マリーナは行動を封じられた鬱屈のなか、歌の師匠に教えを求めに向かう。そこで困惑する彼女に与えられた言葉は、「愛を求めるな、与えるのだ」だった。力を与えられたと感じたマリーナは、彼女の全裸写真撮影を強要する女刑事、集団で取り囲み彼女をビニールテープで巻きあげて嗤うオルランドの息子たちに一瞥もくれず自分のすべきことを為す。オルランドの葬儀場が、彼が入っていたサウナと地つなぎであると知ることでその建物の奥に進み、焼かれる前の恋人の体への対面を果たしたマリーナは彼に別れを告げる。迷いを振り切った彼女は、堂々と夜のステージに立ち、楽曲「オンブラ・マイ・フ」を歌い上げるのだった。 キャスト[編集] プレミア上映は2017年2月12日に第67回ベルリン国際映画祭で行われ、銀熊賞(脚本賞)とLGBT映画に対するテディ賞を獲得した。それから2日後、ソニー・ピクチャーズ クラシックスが配給権を獲得した[1].。 批評家には概ね好評であり、Rotten Tomatoesでは28件のレビューで支持率は93%、平均点は8.2/10となった[8]。またMetacriticでは8件のレビューに基づいて加重平均値が96/100と示されている[9]。 受賞とノミネート[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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渡辺昇吉 – Wikipedia

渡辺昇吉(わたなべ しょうきち、1911年(明治44年)1月10日 – 1997年(平成9年)3月17日)は、日本の囲碁棋士。東京浅草出身、棋正社、瓊韻社に所属、九段。雁金準一の娘婿にあたり、藤沢庫之助との十番碁など、日本棋院棋士との対局を行なった。 履物商の父稲垣周三郎は碁好きで、浅草今戸の潮江院で雁金準一、小林鍵太郎、父の腹違いの兄である関源吉らが開いていた必昇会という碁会に参加しており、命名は潮江院の僧に頼んで、必昇会の一字を取って昇吉と名付けられた。その後母方の実家の姓を継いで渡辺姓となる。1923年の浅草歳の市で自転車で怪我をし、その時に世話になった医師と酒屋の息子から碁を教えられた。1924年に雁金に入門し、2年後の1926年に棋正社初段を許される。その後『万朝報』の囲碁欄執筆を行い、1933年に雁金の娘フミと結婚。1935年五段昇段。 新聞統制の対策で読売新聞が静岡新報を買収すると、その囲碁欄を担当し、アマ名人戦を開催、読売の三堀将、覆面子らと親交を持つ。また1941年に雁金が瓊韻社を設立すると、その裏方を取り仕切った。1941年には読売の企画による雁金と呉清源の十番後が5局で中止となり、続いて日本棋院と瓊韻社の若手同士、藤沢庫之助と渡辺の十番碁が行われた。両者ともに六段だったが、渡辺は日本棋院の棋士とそれまで対戦したことがないため手合割が問題となったところ、正力松太郎が「百論一打」として押し切り対戦が実現。第1局は先番渡辺が序盤優勢となったが、白番藤沢がコウ争いで粘って逆転、4目勝ち。第2、3局も藤沢が連勝し、ここで打ち切りとなった。 1960年に読売の第3期最強戦に出場。続いて旧名人戦、棋聖戦にも参加。第2期名人戦予選では3連勝。第4期棋聖戦九段戦では、関山利夫に続いて高川格を破るが、3回戦で梶原武雄に敗れた。1961年九段。棋風は本因坊秀栄に傾倒。アマチュア指導にも力を入れ、棋書の執筆も多い。 対局譜 名誉本因坊に勝利「第4期棋聖戦九段戦2回戦 1979年2月1日 高川格-渡辺昇吉(先番)」 黒1-7は渡辺の愛用の布石。左上黒21から難解な戦いになり、黒51が長考の一手だった。しかし黒57が白58と打たれて悪く、黒59が窮余の手段だった。この後右下隅の黒を動き出して激しい戦いになり、右下白を取り込んで稼ぎながら、中央黒への攻めを巧みにシノいで、147まで黒中押勝ち。 『囲碁必昇法(全3巻)』1940年 『雁金準一打碁選集』(富田忠夫と共編)1963年 他に『定石秘伝』『囲碁格言上達法』『囲碁捨石戦術』『囲碁ハメ手撃退術』『置碁必昇法』『囲碁入門』『やさしい白の打ち方』『囲碁上達の手筋』『三子局の打ち方』『詰碁二百題』などがある。 参考文献[編集]

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アントウェルペン包囲戦 (1832年) – Wikipedia

アントウェルペン包囲戦(アントウェルペンほういせん、英語: Siege of Antwerp)は、ベルギー独立革命が集結した直後に行われた戦闘。1832年11月15日、エティエンヌ・モーリス・ジェラール(英語版)元帥率いるフランス王国の北方軍(英語版)はダヴィッド・ヘンドリック・シャッセ(英語版)率いるオランダ軍の駐留するアントウェルペンを包囲した。包囲戦は12月23日に終結した。フランスはベルギー反乱軍が参戦しないことでベルギーと合意していた[1]。 フランス軍が1831年の十日戦争に介入した後、オランダ軍はベルギーから撤退したがアントウェルペン城(英語版)に駐留軍を配置、そこから町を砲撃した。それにより、ジェラール元帥率いる北方軍がベルギーに戻り、1832年11月15日にアントウェルペンを包囲した。 オランダの将軍でナポレオン・ボナパルトの元部下であるシャッセは焼玉式焼夷弾でアントウェルペンの町を砲撃、家屋数百軒を炎上させて多くの平民が死傷した。これにより、それまで戦闘に関わらなかったベルギー義勇兵が介入した。一方、編成と装備が整ったベルギー軍はアントウェルペンの北にあるスヘルデ川の堤防を守備、オランダ軍が堤防を破壊するのを防いだ。 ヴォーバン式の要塞を包囲する戦術は対壕と平行壕しかなく、防御工事が突破されたら守備側が降伏するのが常だった。北方軍はアントウェルペンの包囲に大型の臼砲を使用、要塞の上から砲弾を撃ち込んだ。北方軍と攻城戦の専門家であるフランソワ・ニコラ・ベノワ・アクソ(英語版)男爵は24日間かけて城を落とし、ベルギーに返還した。 ベルギー王レオポルド1世は謝礼としてそれぞれ異なる口径の大砲をフランスに送り、フランスの貴族院はジェラールに「栄誉の剣」(épée d’honneur)を授与した。包囲戦におけるフランス軍の戦死者の記念碑が1894年に作られたが、アントウェルペンは受け取りを拒否、代わりにトゥルネーに飾られた[3]。 ^ a b c d e Siege of Antwerp (1832)(オランダ語) ^

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佐々木掌子 – Wikipedia

佐々木 掌子(ささき しょうこ、1978年 – )は、日本のカウンセラー、臨床心理士、明治大学文学部心理社会学科臨床心理学専攻准教授[1]。多様なセクシュアリティに対する臨床心理学的支援を専門とする。 目次 1 経歴 2 おもな著書 2.1 単著 3 脚注 4 外部リンク 東京都に生まれる[2]。 2002年に青山学院大学文学部教育学科心理学専攻を卒業後、同大学の大学院文学研究科心理学専攻博士前期課程に進んで2004年に修了し、さらに慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学専攻後期博士課程に学んで、2008年に単位取得退学した[3]。 この間、2002年以降、精神神経科のクリニックで、性同一性障害の臨床に関わる[2]。 2005年、臨床心理士資格を取得[2][4]。2010年、「性的自己の非典型性における発達機序と形成:多次元動的ジェンダー・アイデンティティモデルからみた性同一性障害/トランスジェンダー」により、博士(教育学)を慶應義塾大学から取得[5]。

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飛行群 (第3航空団) – Wikipedia

代 氏名 在職期間 前職 後職 西村守雄 1964年12月28日 – 0000年00月00日※飛行群司令事務取扱 第3航空団副司令 尾高一興 0000年00月00日 – 1965年07月15日 航空自衛隊幹部候補生学校第2教育部長 山本八郎 0000年00月00日 – 1968年02月15日 中部航空方面隊司令部監察安全班長

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ラリー・スミス (音楽プロデューサー) – Wikipedia

ラリー・スミス 出生名 ローレンス・マイケル・スミス[1] 生誕 (1951-06-11) 1951年6月11日 出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズ区 死没 (2014-12-19) 2014年12月19日(63歳没) ジャンル ヒップホップ 職業 音楽プロデューサー ラリー・スミス(Larry Smith、1951年6月11日 – 2014年12月19日)は、アメリカ合衆国の音楽プロデューサーである。

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新カトリック大事典 – Wikipedia

『新カトリック大事典』(しんカトリックだいじてん)は、研究社が出版している大事典である。カトリックについてはもとよりキリスト教全般さらには関連する諸分野などの広範な事項を掲載していて[1]、キリスト教を中心にした百科事典ともいうべき内容を持つ[2]。1996年に第1巻が刊行され、1998年に第2巻、2002年に第3巻、2009年に最終巻である第4巻が刊行された[3]。判型はB5変型判で、第1巻と第2巻は各1300頁。第3巻は1664頁。第4巻は1550頁で別冊として438頁の総索引を付す。総項目1万5千を専門家900名が[4]すべて署名入りで執筆し、ほとんどの項目で参考文献を掲載している。第1巻巻頭にヨハネ・パウロ2世が自筆の「教皇メッセージ」を寄せている[5]。2010年には別巻が出版された。別巻は435頁で、人名・地域名を中心とした各項目の補遺、および一覧表や年表などの資料集からなる。 1977年11月に準備委員会が初会合を開き、1979年に正式発足した「学校法人上智学院 新カトリック大事典編纂委員会」が編纂にあたった。編纂委員会の委員長は1979年から1991年までペトロ・ネメシェギ(ハンガリー語版)が務め、その後高柳俊一が引き継ぎ[2]、2010年に全4巻および別巻1巻を完成させた。 高柳は編纂委員会の委員長として、大事典完結と相前後して開始された電子化にもあたり、2016年に『新カトリック大事典』電子版を刊行した[6]。電子版は研究社が運営するインターネット上の有料辞書サービスサイトKODで利用できる[7][8]。 1977年11月、準備委員会が初会合を開く。 1979年2月、「学校法人上智学院 新カトリック大事典編纂委員会」が正式発足する。ペトロ・ネメシェギ(ハンガリー語版)が編纂委員会の委員長に就任する。 1991年4月、ネメシェギが編纂委員会の委員長を辞任し、高柳俊一が委員長に就任する。 1994年3月、ヨハネ・パウロ2世が自筆の「教皇メッセージ」を寄せる。 1996年6月、第1巻が刊行される。 1998年8月、第2巻が刊行される。 2002年8月、第3巻が刊行される。 2009年4月、最終巻である第4巻(別冊の総索引を付す)が刊行される。 2010年9月、別巻(補遺・資料集)が出版される。 2016年10月、インターネット上の有料辞書サービスサイトKOD(研究社オンラインディクショナリ)で、追加オプションとして利用可能になる。 2017年4月、KODで『新カトリック大事典』が単独で利用可能になる。 外部リンク[編集]

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