テセル島の海戦 (1694年) – Wikipedia

テセル島の海戦(テセルとうのかいせん、英語: Battle of Texel)は大同盟戦争中の1694年6月29日、ジャン・バール率いるフランス船7隻によるフランス護送船団の奪還。この護送船団はヒッデ・ショードス・デ・フリース英語版率いるオランダ艦隊に拿捕されていたが、バールは船団の奪回に成功した上、オランダ艦8隻のうち3隻を拿捕した。デ・フリース自身も捕虜になったが、重傷を負ったため直後に死亡した[1]

1692年と1693年、フランスの農業は不作であり、飢饉と疫病を引き起こした。そのため、1693年から1694年にかけて200万人以上が死亡した。フランスはポーランド、スウェーデン、デンマークといった中立国から穀物を輸入する必要に迫られた。

1694年5月29日、ジャン・バールはノルウェーに向かって、穀物を積載した船隊120隻をフランスまで護衛する任務についた。しかし、船隊はバール艦隊を待たずに出港、中立国の船3隻(デンマーク船2隻とスウェーデン船1隻)のみが護衛した。

船体は直後に戦闘もなくオランダに拿捕された。ジャン・バールは船隊を探し、6月29日の午前3時にオランダ領テセル島沖でそれを発見した。バールの艦隊が有した大砲はオランダ艦隊より少なかったが、バールは午前5時にオランダ艦隊のヒッデ・ショードス・デ・フリース英語版の旗艦プリンス・フリーゾ(Prins Friso)を攻撃した。半時間もの間続いた激しい海戦の後、プリンス・フリーゾは拿捕され、デ・フリースは重傷を負って捕虜にされて2日後の7月1日に死亡した。オランダ船はほかにも2隻が拿捕され、残りの5隻は港に逃げ込んだ。オランダ側の損害は戦死100、負傷129、捕虜455だった。

ジャン・バールはフランス艦隊の損傷を修理した後、船隊を護衛してダンケルクに向かい、7月3日に到着した。バールは英雄として迎え入れられ、5日には息子のフランソワ=コルニルフランス語版と義兄とともにヴェルサイユ宮殿に召喚され、フランス王ルイ14世から祝賀を受けた。バールは8月4日に貴族に叙された。

参考文献[編集]

  • Haws, Duncan; Hurst, Alexander Anthony (1985). The Maritime History of the World: A Chronological Survey of Maritime Events from 5,000 B.C. Until the Present Day, Supplemented by Commentaries. Brighton, Sussex: Teredo Books. ISBN 978-0-903662-10-9.

外部リンク[編集]

座標: 北緯53度09分00秒 東経4度36分00秒 / 北緯53.1500度 東経4.6000度 / 53.1500; 4.6000