このしろ寿し – Wikipedia

京都府京丹後市久美浜の
郷土料理「このしろ寿し」

このしろ寿し(このしろずし)とは、姿寿司の一種で、体長20~25センチメートルのコノシロ(鮗)を丸ごと用いて作る京都府京丹後市久美浜町の郷土料理である。
コノシロの姿寿司は、熊本県天草地方の郷土料理にもあるが、米ではなくおから(卯の花)を用いるところに、久美浜の「このしろ寿し」の特徴がある[1]

古くは家庭において、久美浜湾のコノシロの漁獲シーズンである冬(9月頃~4月頃)に作られた保存食の一種。
現在では久美浜町内の1店~2店でのみ製造・販売し、伝統の味が守られているが、その期間も冬期(11月頃~3月頃)のみであり、悪天候が続くと漁に出られなかったり、そもそも手作りのため製造量にも限りがあるため、希少なものである。

コノシロは、関東地方においてはコハダと称され、久美浜湾では刺し網にて漁獲される。

古来、久美浜湾におけるコノシロ漁のさかんな様子は、久美浜町に伝わる昔話「このしろとり」や、奈良時代に税金として都に届けられたことを記す木簡からも窺い知ることができる。
なお、奈良時代の木簡では「近代(コノシロ)」と表記されている[2]

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前、久美浜を治めていた細川家の家臣松井康之は、徳川家康に謀反の疑いをかけられ窮地に陥った細川忠興に進言して、久美浜特産の「コノシロの麹漬け」を端午の節句の贈り物として家康に献上させ、細川家は難を逃れたと言い伝えられている。

なお、久美浜の記録ではないが、寿司が贈答品として用いられた記録は、鎌倉時代の資料からも明らかとされている。寿司の贈答習慣は室町時代から江戸時代には益々さかんになり、献上寿司の記録は全国に残されている[3]

献上された「コノシロの麹漬け」(当時「生絹(すずし)」と呼ばれた)に対する、家康の花押印付きの礼状の写しが松倉城(久美浜)近くの如意寺に保存されており、この「コノシロの麹漬け」が、現在の「このしろ寿し」のルーツとする説がある[4]。魚へんではなく糸へんの「絹」と表記されているのは、古文書においては、発音が同じ場合は別字を当てることがままあるためである。ただし、丹後地方は丹後ちりめんが誕生する江戸時代以前より絹織物の特産地として知られ、この「生絹」は「丹後精好」とよばれた絹織物であった可能性が高い。

このしろ寿し2樽を献上したことに
対する、徳川家康から松井康之への
礼状の写し。
原本は現存していない。

『京都府熊野郡誌』によると、「鱅鮨(このしろ寿し)は最初みぞれ壽司として産出せられし處(ところ)なりしが、一般の嗜好に適し好評を博せり。
最初は肉片を細かく切って豆腐粕にまぶし製せしも、いつしか現今の如く改造加工するに至れり。」とあり、姿寿司に移行した時期は不明とされる[5]

製法と食べ方[編集]

現在の久美浜町で行われている一般的な製法は、以下の通りである[6][7]

  1. 脂がのった旬のコノシロを背割りにして酢や塩につける。
  2. 砂糖・酢・みりん等を加えて鍋で炒って甘酢味にしあげたおからに麻の実(おのみ)や柚子皮を混ぜたものを、いっぱいに詰めて形を整える。
  3. ラップ等に1匹ずつ包み、空気に触れないように冷暗所で保存し、味をなじませる。
  4. 食べ方は、4切れ~5切れにぶつ切りにして、そのまま食べる。
  1. ^ (一社)日本調理科学会「別冊うかたま すし」農文協、2017年、116頁
  2. ^ 丹後建国1300年記念事業実行委員会『丹後王国物語 丹後は日本のふるさと』、2013年、70頁
  3. ^ 日比野三敏『すしの貌』大巧社、1997年
  4. ^ 特定非営利活動法人わくわくする久美浜をつくる会『久美浜大事典』、2015年、6ページ
  5. ^ 京都府熊野郡役所『京都府熊野郡誌 全』1923年、343頁
  6. ^ 三たん地方開発促進協議会『三たん事典 第二巻』2002年、42頁
  7. ^ 京丹後観光情報センター「極上のふるさと 京丹後」2015年、18頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]